第4回 ブリティッシュ・インヴェイジョン -ロックンロールからロックの時代へ- 1963年~
アメリカで誕生したロックンロールが、世界中の若者を虜にし、中でも、イギリスの音楽シーンに、ビートルズをはじめとする優秀なロックミュージシャンを多数生み出すきっかけとなり、彼らの音楽が逆輸入的にもたらされたことで、停滞気味だったアメリカの音楽シーンに空前のロックブーム『ブリティッシュ・インヴェイジョン』が巻き起こった、という事は、第3回のコラムで述べた通りです。
今回は、ビートルズ以外の、アメリカ進出を果たした同時代のイギリスのロックミュージシャンについて、述べて行きたいと思います。
ですが、その前に、『ロックンロール』と『ロック』という、二つの言葉の、ニュアンス的な意味合いの違いについて、簡単に述べておきたいと思います。
『ロックンロール』とは、黒人音楽のブルースのコード進行や音階を応用した楽曲を、リズム・アンド・ブルースの均等なエイトビートや、ブルースのシャッフルリズム、ジャズのスイング、白人のカントリー・ウエスタンのスタイルなど、様々なジャンルからの影響を織り交ぜながら威勢よく演奏する、という音楽です。(カントリー・ウエスタンからの影響が色濃い音楽は、『ロカビリー』と呼ばれて、ロックンロールとは区別される場合もあります。)
つまり、ロックンロールとは、そういった既存の音楽の合いの子として誕生した音楽という事です。
一方で、『ロック』という言葉は、単にロックンロールの略語として用いられることもありますが、ロックンロールよりもさらに多様な音楽ジャンル(フォークやクラシック音楽や民族音楽を含むワールドミュージックなど)からの影響を取り入れて発展した音楽の総称として用いられることが多いです。ロックンロール自体、多様な音楽をミックスした音楽ですから、ロックンロールとロックとの間に、明確な線引きをする事は難しいのですが、ビートルズが登場した頃から、ロックンロールは複雑化と多様化をいっそう顕著にしはじめるので、1960年代の半ば頃は、ロックンロールがロックに移行する、その過渡期にあたる、という事は言えると思います。
この時代の代表的なイギリスのロックバンドとしては、ローリング・ストーンズ、ザ・フー、キンクスなどが挙げられます。
【ローリング・ストーンズ】
無名時代のローリング・ストーンズは、本格的な黒人のブルースやロックンロールを演奏する白人のバンドとしてスタートしています。1963年のデビューシングルがチャック・ベリーの『カム・オン』であることからも分かるように、メジャーデビュー後も、彼らは黒人音楽をリスペクトした白人たちのバンド、という黒っぽいイメージを売りにして活動して行きます。
メジャーデビュー初期は、イギリスでの人気は高かったものの、持ち歌の大半がカバー曲であったため、アメリカでは決定的な人気を得る事ができませんでした。しかし、ビートルズのアイドル的なスマートなイメージとは異なる、不良やチンピラといった粗野なイメージを強調した売り出し方が徐々にアメリカでも奏功しはじめ、1965年にリリースしたオリジナル曲の『サティスファクション(Satisfaction)』によって、全米で4週連続No.1という大成功を収めると共に、ビートルズに次ぐ世界的な人気ロックバンドという不動の地位を確立して行く足ががりを得ることになります。
その後も、『黒くぬれ!(Paint It, Black)』(1966年)、『ジャンピン・ジャック・フラッシュ(Jumpin' Jack Flash)』(1968年)、『悪魔を憐れむ歌(Sympathy for the Devil)』(1968年)といった、オリジナルの名曲の数々を世に送り出し、時代の流行が目まぐるしく移り変わる中でも、ロックシーンの第一人者であり続けたローリング・ストーンズは、今現在でも、世界を股にかけてのツアーを行っている、ロック界の生き字引的な長寿バンドとして、人々の尊敬を集め続けています。
【ザ・フー】
知名度こそビートルズやローリング・ストーンズに及ばないものの、ザ・フーは、ロックというジャンルの概念の形成と、質的な発展に果たした役割の非常に大きなバンドです。
ロジャー・ダルトリー(ボーカル)
ピート・タウンゼント(ギター・キーボード)
ジョン・エントウィッスル(ベース)
キース・ムーン(ドラムス)
メンバーはいずれも高度な音楽性を持ったミュージシャンであり、特に、ピート(ギター)、ジョン(ベース)、キース(ドラムス)の三人は、それぞれの主要楽器において、後進のミュージシャンに多大な影響を与え、ボーカルだけではなく器楽奏者にもスポットライトを当てるという、現在のロック鑑賞のあり方のひな形を作った先人でもあります。
ザ・フー名義でのシングルデビューは1965年の『アイ・キャント・エクスプレイン(I Can't Explain)』で、全英8位を記録しています。この曲からすでに、各メンバーのたぐいまれな演奏能力や、イマジネーションの豊かさ、作曲面での際立った個性を見せつけています。
3枚目のシングル『マイ・ジェネレーション(My Generation)』は全英2位を記録。これにより、イギリスでの人気を一気に高める事に成功します。
アメリカへの本格進出は1967年。長期全米ツアーに加えて、6月には、モンタレー・ポップ・フェスティバルという歴史的な大規模野外コンサートに出演し、ジャニス・ジョプリンやジミ・ヘンドリクスといった強烈な才能を持った他の出演者に負けじと、気迫のこもったすさまじい演奏や、過激な楽器破壊のパフォーマンスを行なって、斬新な個性を求めていたアメリカの大観衆の度肝を抜きます。
ザ・フーは初期の頃からオリジナル曲で勝負し、『ボリスのくも野郎(Boris The Spider)』(1966年)、『ババ・オライリィ(Baba O'Riley)』(1971年)など名曲も多いので、筆者にとってはこの時代に活躍した数多くのバンドの中でも一押しのバンドなのですが、ロックファン以外の音楽ファンに対するアピール力が弱いようで、その点が残念でなりません。
ちなみに、彼らは当時、モッズと呼ばれるイギリスの若者の間で流行った小粋なファッションを好んで身に着けており、現代でも通用するそのルックス面でのカッコ良さも大きな魅力となっています。
【キンクス】
薄曇りのロンドンのようなくすんだサウンド、歌詞や歌唱に現れた皮肉で遠回しな表現など、キンクスはあけっぴろげなアメリカの音楽とは違う、いかにもイギリス的なウエットな感覚を体現したバンドだと言えます。ただ、それは活動を続ける中で徐々に確立して行った個性であり、デビュー当時の彼らには、そういった持ち味とはまた違った魅力がありました。
バンドの中心人物はレイとデイヴのデイヴィス兄弟、シングルデビューは1964年、曲目はリトル・リチャードのカバー『のっぽのサリー(Long Tall Sally)』でした。
この最初のシングルと、2枚目のシングルは、大した評判にならず、勝負をかけて製作した3枚目のシングル、『ユー・リアリ-・ガット・ミー(You Really Got Me)』でようやくブレイク。全英No.1を獲得し、急きょアメリカでも発売されて、トップ10に入るというスマッシュヒットを記録します。
『ユー・リアリ-・ガット・ミー』は、非常にシンプルな曲で、アレンジやミキシングも必要最小限の簡素なもの、という特徴があります。それでいて、明確な個性と味わい深さが感じられるのは、レイ・デイヴィスのひねりの利いた作曲センスと、デイヴ・デイヴィスの(アンプのスピーカーコーンに故意に傷を入れる事により得られた)力強く印象的なギターサウンドによるところが大きいです。彼らのシンプルなスタイルは、アメリカのガレージロック(車庫で演奏できるほど簡素な作りの音楽)というジャンルの誕生、発展にも大きく貢献します。
ところが、最初のアメリカツアーを終えて、いよいよアメリカでの本格的な人気を確立しかけた1965年、キンクスは米国音楽家連盟から、今後4年間アメリカでの演奏活動を許可しないという厳しい決定を言い渡されます。
コンサートを土壇場でキャンセルした事や、ステージ上での粗暴な振る舞いの数々を、問題視された事が原因であろうと言われています。
これにより、キンクスはブリティッシュ・インヴェイジョンの最盛期に、アメリカ市場での足場を固める事ができなくなり、実力に比して知名度の点で、ビートルズやローリング・ストーンズといった他のバンドに劣るという状況に置かれる事になります。
しかし、彼らの初期の楽曲のシンプルな美しさ、力強さ、一度聴いたら忘れられない強烈な個性(『オール・オブ・ザ・ナイト(All Day And All Of The Night)』(1964年)、『エブリバディズ・ゴナ・ビー・ハッピー(Everybody's Gonna Be Happy)』(1965年)など)は、後年のシニカルな楽曲と同様に、現在も世界中のミュージシャンから高く評価され、リスナーの間でも新たに熱心なファンを獲得し続けています。
それは、彼らの音楽が、聴衆がロックに求める、衝動や荒々しさといった、根源的な魅力を、簡素だからこそ、かえってむき出しに持っていたからに他なりません。