緋碧ノ娘 5
緋碧宮から城へ戻る時、また娘から離れる時、いつも名残惜しそうにしている王子。
今までの悲しみも苦しみも、辛さもまるで嘘のように、世界は鮮やかに、そして美しく彩られた。
娘は疎まれ、名すら奪われ与えられなかったのに、王子はそんなこと関係ない、ともいうように笑いかけ、抱きしめてくれる。
娘が始めて感じた、愛されるという瞬間だった。
何よりも幸福な瞬間だった。
娘は王子に会うたび、話すたびに不思議な感覚を覚えた。
幸福な感覚とは別に、脳裏に何か、恐ろしい風景がよぎるのだ。
ソレはあまりに悲しく、胸が締めつけられるものであるのにも関わらず、何故か詳細は分からない、脳裏に過ぎる見たことも無い風景。
誰かが倒れている風景。
何人もの人が閉じ込められている風景。
何か大きな建物が燃え上がる風景。
山が泣いている風景。
空が黒い雪を下ろす風景。
そんな不安な気持ちにさせる風景に悩まされることもあったけど、王子が来るたびに、王子が笑いかけてくれるたびに、二人の時間を作って話せる時間や歌う時間がくるたびに、そんな不安は娘の中から拭いさられた。
…けれどもソノ日は違った。
王子と出会い、しばらくした日々の中で、王子が城に戻る時、いつものように名残惜しそうに王子が娘の手に触れる。
ソノ瞬間、娘は心と体が凍る想いをし、とっさに王子の離れる手を慌てて強く掴んだ。
驚く王子。
娘は震える手で王子の両手を握り締め、泣きそうな顔で必死に、「行かないで!」とせがんだ。
「どうしたの…」
そう王子は心配そうに言うも、娘はただただ淡い金の髪を揺らしてひたすらに「行かないで、行かないで」と繰り返す。
しかし王子はそんな娘をあやすように娘の長い髪を梳き、髪を一房掴んで口付けを落とす。
「最近臣下達の様子がおかしいから、心配なんだ…。
何があったのかも私にはわからなくて」
王子はそう視線を落とし、静かに零す。
「大丈夫だよ、また会いに来るから」
けれどもそんなのは一瞬で、王子は娘を安心させるようにいつものように温かい笑顔で微笑みかけると、娘の額に口付けをする。
何よりも愛おしそうに、大切そうに…。
それでも尚も、「行かないで!」と必死にせがむ娘を王子はさとし、神殿──緋碧宮をあとにした。
夕暮れの刻の、緋色の陽が降り注ぐ、藍と緋の織り交ざる頃だった。