表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/3

酒場にて



 神聖ムセイオン帝国、帝都リグレア。

 その、片隅。

 ギィ……と小さな軋み音を響かせて、そのドアは開いた。

 濃密な夜の闇が酒場の灯りへと侵入を試み、だが人の熱気と酒気に阻まれる。

 その境界を踏み越える、影。

 闇の中からその女性が現れた時、酒場にいた客たちはすべからく言葉を無くし、茫然と彼女を見つめて一様に唾を飲んだ。

 腰まで届く黒髪。それとは対照的に肌の色は白く、象眼されている双眸は常に潤み、髪と同じ色のまなざしは怜悧なまでに研ぎ澄まされていた。

 小さいが、きゅっと締りの良い唇は真紅。ちろりと覗いた舌もまた朱い。

 首筋から鎖骨にかけて露出しており、シャツと黒いジャケットを押し上げる胸は大きすぎず小さすぎず、ただつんと上を向いている。

 シャツ越しでもわかるほど腰は引き締まっており、タイトパンツがなぞるヒップラインから太もも、脹脛、足首にかけての脚線美は酒場の男全てを魅了し、全ての女に羨望や嫉妬を通り越して憧れるのもおこがましいほどの畏怖を植え付けたのだった。

 その女はカウンターの空いている席に座り、物憂げに店員を見つめた。

「…………注文したいのだけど?」

 言葉と共に吐き出される息に隠されていたのは憂いか、それとも無関心だったのか、もしくはただの気だるさだったのかもしれない。

 美しさ、という修飾語を幾度も塗り重ねたとしても届かない美貌に、呆けていた店員があわてて「御注文を」と尋ねると、

「ミルク」

 とだけ言った、その瞬間。

 それまで張りつめていた空気がふっと緩む。暴虐なまでの美しさが、その単語一つで崩れたことに対する安堵。酒場の男たちはその瞬間から侮り、女たちはため息をつく。

 ミルクとは、しょせんはお子様か、と。

 酒気を帯びた熱気が再び喧騒となり、酒場本来の様相を見せ始める。

 人が入れ替わり立ち替わり、全体に気だるい雰囲気が立ち込めた。

 時は瞬く間に流れ、空気全体に眩暈を覚えるほどに酒が回り始めたころ――ちびちびとミルクを飲んでいる女性に近づく男の姿があった。

 金色の髪を肩まで流し、貴族の証である青い瞳の伊達男。

 だが、なぜそんな彼がこのような場末の安酒場などにいるのか。その理由は一つ。

 彼の一族は没落したのだ。

 男が元は白かったであろう肌を、酒の力で赤くして女に声をかける。

「くだらない。ああ、くだらない。そうは思わんかね?」

 吐く息は酒臭く、瞳は座っている。だらだらと涎をたらし、みるからにアル中の様相を呈していた。

 よく見ると着る物も薄汚れている。

 女はそんな彼に一瞥もくれずに、ただ黙してミルクを傾ける。

 喉を通るたびに艶めかしく首筋が動き、男はそれをみてニヤニヤと笑い始めた。

「ここは本当にくだらない。負け犬。負け犬。負け犬。見渡す限り全て負け犬! 薄汚いこんな店で安酒飲んで満足してる負け犬ばかりだ!」

 男は声を張り上げた瞬間、それまで酒場を満たしていた酒気は鳴りをひそめ、かわりに底冷えのする空気が漂い始める。

 同時に、溜息。それは呆れ。酒場の客達は知っているのだ。この男がただの口だけの男で、いくら痛い目にあわせても懲りぬ人間である事を。

 故に、いくらかの不機嫌さは残ったものの、みなそれぞれの喧騒の中へと帰っていく。

「だが、私は違う。志がある! 俺はこんな店なんて出て行ってあの華やかな世界に戻り、俺の名をこの国に刻み込む!」

 そこで女を見て、その顎を優しくつかんで自分のほうへ向けた。

「そんな私についてくる気はないかね? 美しきお嬢さん」

 それは、口説くにはあまりにもお粗末で。

 そして、幾度もこの酒場で繰り返されていた出来事で。

 故に。店主も、客も。いつものように女が男を張り飛ばして終わるだろうと、それで自分たちの留因も下がるだろうと、そう思っていた。

 しかし。

「あなた、名前は? この国にいずれ刻まれるという、名前を教えてちょうだい」

 女の吐息に熱が含まれていたことに、そこにいた者の全てが気づいていた。

 それほどまでの変化だった。

 雪のように白かった頬が上気している。憂いと無関心だけを映していた瞳が、まるで星を映しているかのように輝いている。

 今度こそ、酒場中が静まり返った。それは、ありえない出来事だった。

 男はその瞳を見つめる。そして、興奮に花を膨らませ、唾を飛ばしながら言った。

「私の名前はシュバイツ。シュバイツ・リリ・アルフォンド。皇帝に仕えし十三貴族が一席、剣の称号たるリリを持つ者である!」

 そう言った男に対し、

「だったの間違いだろ。バーカ」

 というヤジが飛んだ。

 シュバイツが声のした方向をにらみつけ――その瞬間だった。

 彼は熱を感じて女をみやる。彼女はシュバイツにしなだれかかり、首筋に指を這わせた。

 冷たい指先が酒で熱をもった彼の血液をさらに沸騰させる。

 彼は女の瞳を覗き込んだ。

 潤みを帯びている。そこにあるのはもはや憂いや無関心でも輝きでもない。

 シュバイツだ。彼を映している。

 まるで腰が抜けるように隣の席へと座った。近くなった女の口元から熱いと息が吐き出される。それを顔で感じてにやりと笑った。

 これこそ貴族。娘にこの表情をさせることができるのがその証拠よ。

脳内では過去の栄光に一歩近づいた自分に対し、賛辞を送り、だらしなくうごめいていた唇でシュバイツは甘い言葉をささやこうと、小さく口をあけた。

その瞬間だった。

酒場にいた人間全てがその時、何が起こったのか理解できなかった。

ましてや酒と女に酔いしれていたシュバイツ自身はなおさらのことだった。

ガチ……ガチ……ガチ……ガチ……

そんな音が響く。

シュバイツの口元から。

はじめに理解したのは、酒場にいた客のほうだった。

第三者が故に、いち早くその状況に気づき、言葉を失くす。

 そしてその一瞬後。シュバイツもようやくそれを理解した。

 その音が、自らの歯と口にねじ込まれた鉄の塊がぶつかって鳴っているのだと。

「上と下、どちらがお好みかしら?」

 そしてその台詞でもう一つ理解する。

 股間にも同じものが突きつけられているのだと。

 それは圧倒的な存在感を持ってシュバイツの意識に滑り込んでくる。

 そう、と認識してしまったらもはや恐怖を抑えることができない。

 圧倒的な死の存在感。

 すなわち、銃。

 貴族だったシュバイツはそれを嫌というほど知っていた。

 帝国が銃と呼ばれる火薬兵器の開発に成功し、それが確実に死をもたらすための道具だと。

 それも、指先一つで。

 そして、彼が没落した原因でもあった。

 だが、その二丁の銃は不思議なことに、銃底から長い鎖が伸び、彼女のジャケットの袖口の中に続いている。そしてグリップを握る指の隙間からなんらかの模様が見えた。

 しかし、そんなことを気にする余裕もなくシュバイツは震えた。没落してから覚めることがなかった酔いと悪夢が、更なる悪夢によって塗り替えられる。

 冷静さを取り戻す間もなく、ただただ恐慌へとシフトし、頭は考えることを放棄して真っ白になった。

 がたがたと体が打ち震える。

 カチ、カチ、カチリ。

 音が響く。それは女が銃爪を爪ではじく音。少し力が入ってしまっただけでも、銃弾が発射されてしまう、あやういバランス。

 女の熱い吐息が顔にかかる。瞳にはただ爛々と狂気が満ちていた。

 そして、シュバイツの精神が限界を迎え、意識を放棄しそうなった、その瞬間だった。

 ギィと扉が開く音。

「やれやれ。まったくもってやれやれだ」

 男の声が響く。

 呆気にとられるその場に居合わせた人間の真ん中を平然とシュバイツのほうへと歩みを進める。

 長身痩躯。銀色の髪。細い顎。長い手足。優しげな瞳に高い鼻。そしてさわやかな口元。

 色男の粋を集めて作ったような、姿がそこにはあった。

 足取りはただ静かに、いかにも紳士然として、酒場にいた女たちは状況も忘れてその姿にすべからく魅了されていた。

 だが、そんな女性たちをぐるりと見渡し、彼が笑みを浮かべた瞬間、ほとんどの女、いや、男含めて居合わせたすべての人間の背筋に悪寒が走り、心鍛さむからしめたのだった。

 まるで、その形相は悪鬼。

 その笑顔に魅入られたものは、等しくろくでもない未来へとつながることがたやすく予測できるような、そんな表情。

 そして彼は懐から銃を取り出すと、女のこめかみへと銃口を突き付けた。

「……………………」

 女は何も言わずに、横目でその男を睨む。

 それだけでも空気が切り裂かれそうなほどの冷たい目線。

 邪魔をするな、との無言の圧力。

「なあ、論理的に話をしようじゃないか。トリガー」

 トリガーと呼ばれたその女性は、小さく舌打ちをしたのだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ