依頼019
カネぇ…カネが欲しいんじゃあ…
「ーー交渉ってのはな…何も舌戦だけじゃねぇんだよ」
そう告げるのは黒髪と白髪が半々に混じり、一見すれば灰色の頭髪の両側面を短く刈り上げている中年の男だった。
彫りの深い顔、そして青い目は中年の男が西洋人の血を受け継いでいる事が察せられ、その男は椅子へ腰掛けながら眼前の床の上で小銃の分解をしている黒髪の少年を眺めている。
「舌戦だけじゃない? 交渉だろう?」
「まぁ交渉ってのは論理的に進めるのが当然なんだけどな。例外も存在するんだ。……そこら辺は汚れ酷いから良く磨いとけ」
年の頃が10代半ばを過ぎた程度の少年は中年の男から指示されると頷きながらウエスやブラシ、ガンオイルを用いて汚れを丁寧に落として行く。
「で、だ。その例外ってのは…まぁ…こっちを舐め腐ってる野郎との交渉だな。自分よりも大したタマじゃねぇのに上から物を言う奴ってのは我慢ならねぇだろ?」
「…アンタの英語は俗語が多すぎていまいち良く分からないな」
「馴れて貰うしかねぇな。諦めろ」
素っ気なく少年の苦言に返答した中年の男が長年、愛煙しているタバコを銜えてジッポで火を点ける。
金属音を響かせて上蓋を閉じて消火した男はタバコのフィルター部分を指で挟み、唇から離すと緩く紫煙を燻らせた。
「そこで別の交渉術を知っていれば…相手の態度をガラリと変える事が出来るんだ。まるで手のひらを返すように大人しくなるぜ」
「…予想は出来たな。取り敢えず…教えてくれ」
「学習意欲が高ぇのは良い事だぞ坊主」
少年から問われれば嬉しそうに男は唇の端へタバコを銜えながら紫煙を吐き出した。
「まぁ…手段はいくつかある。まずは…これだ」
男は纏っているジャケットの脇から拳銃を取り出して見せると、それを蒸留酒の瓶とグラスが鎮座する机の上へ無造作に置いた。
「そして…これもだな」
次にスラックスを止める牛革のベルトの後ろ腰に付けているナイフを抜き取り、拳銃の横へ置く。
「あとは……まぁ、これかな?」
最後に男は握り拳を作って見せる。
その一部始終を眺めた少年は途端に眉根を寄せた。
「全部、実力行使じゃないか…」
「そう。…まぁ勿論だが…使い時を誤ったら大変な事になるからな。あんまり多用はするなよ?」
そうならないよう俺は正統な舌戦を学ぼう、と少年は分解した小銃の部品に垂らしたガンオイルの効果で浮き上がった汚れをウエスで拭いながら決心したという。
「ーーあまり舐めるなよ…小僧」
そう低い声で警告を発するショウは左手で掴んでいるガルディアと名乗った青年の口元へ力を込めながら告げる。
青年は口を塞がれた上に万力のような力でギリギリと握り潰そうとしてくる彼の腕を空いている左手で掴み、なんとか引き剥がそうとするが微動だにしない。
額から冷や汗が流れる拳ひとつぶんほど背丈が低い青年の耳元へ顔を近付けたショウが囁くような声量で語り始める。
「俺は…まぁそれなりに我慢強い人間だと自負してる。だがなーー」
一層強く両手へ力を込めれば、握った青年の右手と顔面の骨が悲鳴のように軋みを上げ始める。
声が出せず苦悶に耐える事しか出来ない青年へ彼は冷やかな声を浴びせかける。
「ーーいくら畜生の傭兵でも…仕事を選ぶ権利ぐらいあると思わんか? 身元は話せない、報酬もいくらか提示しない。ないない尽くしの上に二重契約を結べと武力を以て脅迫する。いっそ清々しいが…面白くない事この上ない。俺は無礼を詫び、事前に雇用主がいる事を話したというのにその態度なら…いくら俺でも我慢の限界というものがある」
遂に青年の手が耐久力を越えたのか骨が折れた音が微かに響いた。
途端、激痛へ耐えるように身体を折り曲げるが、ショウはそれすら許さず顔面を掴んだまま姿勢を保持させる。痛みを訴える声すら出すことを許さぬように彼はさらに口元を押さえ付けた。
目の前で繰り広げられる状況を見守っていたジャスミンは恐怖を感じてしまい慌てた様子で背後の壁にいるオルソンへ振り向いた。
壁際で背中を預けながらその光景を眺めるオルソンは我関せずとでも言いたいのか彼女の視線を向けられても肩を竦めるだけだ。
次いで少女が視線を向けたのは素顔を隠した人物である。
その者もどうしたら良いのか分からない様子で腰を僅かに浮かせ、不安や困惑、或いは恐怖を共に感じているのかおろおろとしている。
「ーーシ、ショウさん…!」
震える唇をなんとか開いた少女が彼を呼べば、ショウは視線だけを動かしてジャスミンを見た。
「あの…円満に解決する方法があるんですが…」
勇気を振り絞り、少女が口にしようとする続きを察したオルソンが肩を竦め、苦笑混じりにジャスミンの背中へ投げ掛ける。
「自分の護衛は良いからこいつらを、ってのはナシだぜ?」
「……それにここまでやっておいて…こいつらの護衛なんぞ請け負ったら居心地が宜しくない。具合が悪くなりそうだ」
「…そんなタマだっけ?」
「俺は繊細な人間なんだ」
軽口を叩く二人からは特別気負った雰囲気は感じ取れず、それが逆に異様な姿に映った。
ジャスミンが彼の暴挙を制止させようと腰を上げた刹那の瞬間ーー
「ーーわ、分かりました。無礼をお詫び致します。ですからどうか…」
ーージャスミンより年上と思われる女性の震えた声がショウへ投げ掛けられた。
耳の保養となる心地よい女性らしい高音。
その高音で紡がれた制止と謝罪に彼は両手から僅かに力を抜く。
「……ご婦人の頼みなら。…離すぞ」
ショウは青年を長椅子へ押し付けるように着席させた後、両手を離した。
冷や汗が脂汗に変わっていた青年は両手が自由になると、骨が折れてしまい鈍い痛みが襲う右手へ左手を添えながら歯を食い縛って苦悶の表情を浮かべる。
「…ありがとう…ございます。重ね重ねの無礼…お許し下さい」
「無礼を働いたのはそっちの小僧だろうに…」
やはり女性だったか、と素顔を隠した人物を一瞥すると彼はジャスミンの隣へ腰掛けて脚を組んだ。
「ガルディア…大丈夫ですか?」
「…骨が…折れたようです…」
「おそらく手の甲と指を何本か、だな」
脂汗が額から雫となって滴り落ちながらも負傷した事を告げる青年が、冷静に何処の骨を折ったのかを教えるショウを敵意が籠った視線を向ける。
「今、癒しますね。もう少し我慢して下さい」
青年の傍らに寄り添う人物ーー声や体型からして女性が両手を骨折した彼の右手へ翳すと何事かを呟き始めた。
何をしているんだ、とショウやオルソンが見守っていると女性の両手が白い光を放ち始める。
その光が青年の右手へ吸い込まれるように消えて行くと、あれほど苦痛を顔に浮かべ脂汗が滴っていた表情から険しさが抜けていく。
「…如何ですか?」
「…ありがとうございます。申し訳ありません…お手数を…」
「構いません」
何事もなかったかのように青年が右手の具合を確かめているのか握っては開き、指の曲げ伸ばしを繰り返している様子に流石のショウとオルソンは驚愕で目を剥いた。
間違いなく骨を折っていた筈だ、とショウは砕いた瞬間の感触を思い出しながら自身の右手を見ていたが、ふと気付いた事があった。
(…俺…あそこまで力があったか…?)
リンゴ程度なら片手で握り潰す事は出来ていたが、全力を出さずに軽々とただ握っただけで相手の骨を砕く事は流石の彼も成功させた試しはない。
自身の右手を見詰めるショウを傍らに腰掛けるジャスミンが、何処か痛めたのかと心配して手を伸ばし掛ける刹那、対面から声が掛けられる。
「ーー改めて…重ね重ねの無礼を致しました」
高い声で紡がれた謝罪の言葉にショウは右手を膝の上に置くと対面へ視線を向けた。
「さっきも言ったが…ご婦人に謝られるのは道理に合わん。謝罪をするならそっちの小僧だ」
顎をしゃくり、青年を指す彼だが素顔を隠す女性はゆるゆると首を横に振る。
「従者の無礼は主人の無礼。そう受け取って貰えれば…」
女性の言葉にショウの双眸が細められる。
「なるほど…つまりご婦人が正規の依頼人という訳か」
相手の上下関係がはっきりと分かり、彼は溜め息混じりに頷く。
「ご婦人の依頼を袖にするのは心苦しい限りだが…」
「重複しての雇用は、という事ですね?」
女性はしっかり会話を聞いていた上、理解もしている事を察したショウは頷いて同意する。
「その通りだ」
「…行き先が同じ、でもでしょうか? 申し上げますがこのオアシスから王都へ向かう行路はそれほど多くありません。開拓されている交易路を進みますので道行きは限定されます」
「……つまりこちらとそちらの行路は被る可能性が高い、と?」
ショウが尋ねると素顔を隠した女性が頷く。
確認のため彼は傍らに腰掛けるジャスミンへ視線を向け、本当か、と問い掛ける。
「交易路については…沢山あってあまり詳しくありませんが…私が知っている限りだと…王都へ向かう行路は4つになります。そして近道になる交易路はひとつだけです」
「間違いないか?」
「はい。私が子供の頃に王都からオアシスに引っ越して来た時もその行路を辿りました」
思い出すように告げた少女の返答にショウは考え込んだ。
報酬次第では受けても構わない。それがショウの本音だった。
道中の脅威の度合いや先程の暴力が尾を引いた場合の居心地の悪さを抜きにして考えれば、そして提示される金額如何では受けても構わない。
だがその場合、ジャスミンはどうなるのか。
そう問われた場合についてはショウとオルソンが個々人毎の雇用に契約書を書き直し、継続して仕事を進めるという次善策があった。
先程まで雇用の重複は御法度、と固辞しているものの節操がないかもしれないが「金がない」というのは傭兵である彼等からすると死活問題だ。
ただでさえジャスミンから支払われる予定の金額は世辞抜きに多いとは言えない。
正統な労働に見合う正統な対価、とは断言出来ないのだ。
達成した時の依頼人の笑顔がなによりの報酬ーーそんな青臭い事は頭から抜け落ちているようで考えもしなかった。
脚を組み換えたショウは再び溜め息を吐き出すと対面の女性へ視線を向ける。
「…提示される金額次第では考えなくもない。その場合…ジャスミンはオルソンが護衛し、俺がそちらを護衛する事になるだろうが……まぁその場合はジャスミンに契約書の内容を変える事に承諾してもらわないとならないな……」
「本当ですか? お支払い出来る金額についてはーー」
光明が照らしたかのように嬉々と報酬の話を始めようとする女性を手で制したショウが再び口を開く。
「その前に…ご婦人は顔を見せてくれんか? それと尊名も頂けたら有り難い。相手が誰かも分からずに仕事は出来ん。相互の信用があっての仕事だ」
「無礼な!」
頑なに名乗りや素顔を見せようとしない女性に身元を明かすよう催促したショウに青年の怒声が飛ぶ。
その反応を横目に見た彼の勘が「ヤバい事に首を突っ込み掛けている」と語り掛ける。
間違いなく貴人ーー身分の高い人間であろう、と考えていると対面の女性が青年を制し、顔を覆っていたベールを解き始めた。
やっと尊顔を拝めるのか。
そう感じた彼の眼前でベールが解かれると、幾筋もの銀色の細い糸が零れ落ちた。
隠されていた細い糸が流れ落ちる髪の色だと気付くのに数瞬ほど擁してしまうほど、ショウらしからぬ事だが眼を奪われてしまう。
「……綺麗な髪の色だな。これほど美しい銀髪は初めて見た」
「ーーえ? あ、その…あり…がとう…ございます…」
解いたベールを折り畳んで膝に置いた女性の素顔は鼻筋が通っており、非常に整った顔立ちをしている。
思わず彼が髪の色を褒め称えれば、嬉しさよりも困惑の色が濃く表情に滲み出た女性が形だけでなく色艶も良い唇から高い声で礼を紡いだ。
シャンプーをここ数年使っていない作者の髪は絶対に痛んでる。
石鹸使えば頭だけじゃなく身体も洗えるのじゃ。