7.
寺元太一は、生きる意味を探求する哲学者だった。
そして、長い思索の末に――生きる意味とはすなわち幸福にある、という結論に辿り着いた。
その幸福とは何か。満腹の腹にさらに高級料理を押し込むこと、それが幸福なのか。いや、きっとそうではない。幸福とは過剰に満たされることなどではない。
では、灼熱の砂漠の果てで掬った一杯の水、それが幸福なのか。いやそれも違うだろう。それは欠乏が演出した対比ゆえの快楽であり、幸福の根幹ではない。
欠乏と飽和、その両極を退けたときに、初めて見えてくるのは、もっと平坦で、しかし確かな感覚だ。
むしろ幸福とは――「不幸ではない」という、ただそれだけの状態なのではないか。
ならば不幸ではないという状態は、果たしてどのような状態だろうか。
私は寺元太一に尋ねた。
「あなたは幸せですか?」
それは何も答えなかった。
*
「文田さん、この条件だと少し厳しいかもしれませんね」
職員は無表情にモニターを見つめながら言った。吊り目を強調するような眼鏡の奥で、視線は私ではなく、あくまで画面に貼り付いている。他人を評価するとき、顔を見ないというのは便利な方法だと思った。
「厳しいって……同じ年収の同年代を希望することが、そんなに難しいですか?」
口では反論したが、胸の奥ではそれもそうだろう、と妙に納得している自分がいた。男と女の市場価値は、同じ秤では量れない。男は年収が値札になり、女は年齢が魅力になる。そんな当たり前のことを知らずに、私はここまで生きてきたわけではない。
大学を出て、大手出版社に入社した。二十代は出世レースから振り落とされないよう、ただ必死で働いた。まともな恋愛のひとつもせず、気づけば仕事に人生を賭けていた。その努力の甲斐あって、課では「エース」と呼ばれるほどの位置まで登った。
潮目が変わったのは三十代に差し掛かったあたりだった。私より能力のない同期の男たちが昇進し始め、私より頭の悪い同期の女たちは「寿退社」という言葉とともにどこかへ消えていった。それでも必死に働くことで何かを勝ち取ろうしたが、それは敗北の別名でもあった。
もっと早く気づけばよかった。どうせ女は年齢で値踏みされるのなら、私も腰掛けのように会社を利用して、どこかで男を捕まえておくべきだった。だが、気づいた時にはもう出産の適齢期は終わっていて、婚活市場では無価値な女に成り果てていた。
「文田さんほどの収入を持つ男性となると、やはり相手に選ぶのは若い女性になります。それに、男性は自分より高収入の女性を避ける傾向が強いんです」
職員の声は機械の読み上げのように平坦だった。私は無意識にその女を睨みつけたが、すぐに視線を逸らした。悪いのは彼女ではない、甲斐性のない男たちの方だ。
「文田さんのご条件に近い方ですと、こういった方々が候補になりますね」
パソコンの画面が回される。並ぶのは癖の強そうな中年男の写真と、年収や趣味の箇条書き。
吐き気が込み上げた。私はこんな男達と同列なのか。
*
結婚相談所で紹介された何人かの男と食事をしたけれど、金と時間をドブに捨てたようなものだった。いや苦痛ではない分ドブに捨てた方がまだマシだったかもしれない。どいつもこいつも虚栄と体裁ばかりで、会話は薄っぺらく、惹かれるものは毛ほどもなかった。
やはり私は一人でいる方が合っているのだろう。そう思いながら、行きつけのバーでグラスを空けていたとき、ふと学生時代に付き合っていた男を思い出した。
――太一くん、今なにをしているんだろう。
酔いのせいか、気がつくとスマートフォンを握り、電話帳の隅に残っていた旧友の番号を押していた。
「もしもし?」
「もしもし、文田桜です」
「ちょっと桜、どうしたの?すごい久しぶりじゃない。五年、いや十年ぶりくらいかな」
「そうかもね。最後に会ったの、カナの結婚式だったから」
「だよね。なに?どうしたの?まさか結婚?」
無神経な問いに一瞬むっとしたが、それでもそういう間柄だったと思い出せばむしろ懐しかった。
「違う違う。ただちょっと聞きたくて、太一くん……寺元太一って今どうしてるのかなって」
「え?桜、知らないの?」
「知らないのって……なにを?」
「寺元くん、死んじゃったよ」
「は……?」
「嘘、本当に知らなかったわけ?いつだっけ、カナの結婚式よりは後だから七年とか八年前かな」
落ち着いた声色の裏に、妙な高揚がにじんでいるように感じた。
「ちょっと待ってよ、死んだって病気?事故?」
「違うよ。自殺だって。」
――自殺?
「ほら、寺元くんってなんかそういうところあったでしょ。ちょっと考え込んじゃうとことか、溜め込んじゃうっていうか」
曖昧で全く具体性のない説明だったが、不思議と腑に落ちた。確かに、太一くんはそういうところがあった。
「寺元くんとなにかあった?」
「いや、なんでもない。なんでもないの」
「そっか。何があったか知らないけど今度こっちに帰っておいでよ。桜、連絡しても返さないんだから」
「うん……そのうち、ね。それじゃ」
そういって、私は通話を一方的に切った。
太一くんが死んだ。しかも自殺だった。驚きはしたが、意外ではなかった。そしてほとんど悲しみは湧かなかった。彼が生きていようと死んでいようと、私の人生にはもう関係がないという事実の方が、むしろ悲しかった。
付き合っていた頃のことを思い出す。映画や小説が好きで、それなのに他人と共有するのを嫌がった。ノートに詩のような言葉を書き連ね、誰にも見せようとしなかった。花が好きだと言っていて、海が嫌いだと言っていた。
そんな彼が死んだ。あの頃の彼のままではないにしても、あの頃から地続きの彼が自殺したのだ。薄くなったウイスキーが喉に落ちていくと同時に、気づけば涙が落ちていた。
――悲しくはない。そう思うのに、涙は止まらなかった。
それは、太一くんの死そのものへの涙ではなかった。もっと違うもの、私の中の「幸せになる可能性」が彼と一緒に永遠に死んでしまったような気がしたのだ。
もしあの時、会社で生き残るために恋愛を切り捨てなければ、もし太一くんの隣に、ずっと私がいたのなら。そんな「もし」に何の意味もないことくらい、痛いほどわかっていた。
女として、誰かの隣で老いていく未来を失った自分と、あの頃の太一くんが、一緒に土の下で腐っていく光景が見えたような気がして、涙はずっと止まらなかった。
*
私は文田桜に尋ねた。
「あなたは幸せですか?」
「いいえ、私は不幸せです。」




