4.
寺元太一は平凡だった。生まれた土地の大学に通い、生まれた土地の市役所で働き、生まれた土地の学校の同級生と結婚した。ただその平凡さゆえに、満ち足りることとは何かを知っていた。日々働き、妻を愛し、子を育てた。彼はそれ以上は何も望まなかった。
私は寺本太一に尋ねた。
「あなたは幸せですか?」
「はい、幸せです。」
*
実家のリビングの壁には、モネの「睡蓮」のレプリカが飾ってある。表面は蛍光灯をはね返してやけにテカテカしていて、色もどこか嘘っぽい。
額縁だけが立派なこの絵を見るたび、いつからかこの街のことを思い浮かべるようになった。東京のレプリカみたいでいて、でも何かが違う。何が違うのかはうまく言えないけれど、こういう絵を誇らしげに飾る父のような存在が、その理由の一つかもしれない。
「東京か」
赤ら顔に笑みを携えた父が、ぽつりとつぶやく。私はグラスの縁を指でなぞりながら続きを待ったが、父はそのまま黙ってグラスを傾けた。
「東京のどこなんだっけ?」
代わりに口を開いたのは弟の諒太だった。
「本社は銀座。マンションはもっと落ち着いたところだけど」
「げえ!銀座?やっぱ大企業は違うねえ」
「なんだ、化粧品ってそんなに儲かるのか?」と父が茶化すように口を挟む。
「まあ最近は女性だけじゃなく男性にもスキンケアが広まってきたし、海外にも進出して売れ行きはいいみたいだからね」
父は「ほう」と満足そうに頷き、椅子の軋む音とともに少し身を乗り出した。
「そんな会社の広報に抜擢されたんだから大したもんだな。広報といったら会社の顔だろう。真子はお母さんに似て美人だからな」
「抜擢ってほどじゃないよ。期間限定の出向だし、半年くらいで帰ってくるかもしれないよ。あと、別に顔で選ばれたわけじゃないから。今の時代そんなこと言ってたら問題になるよ」
父は「そうなのか」と笑って肩を揺らし、照れ隠しのようにグラスに口をつけた。
私も口ではそう返しながらも、心の奥では父と同じようなことを考えていた。容姿の優劣は、おそらく能力以上に評価に直結している。父が言うように、私は美人だ。今の職場に、私より容姿の優れた女性はいなかった。
*
「寺元さんって、田舎出身でしょ?」
営業部の角川は、真っ白な皿の上に載っていたメインディッシュをきれいに平らげたあと、ワイングラスを手にしながらそう言った。質問というよりは断定に近い響きがあった。
老舗ホテルのバンケットルームでスーツ姿の社員たちが笑顔でグラスを傾けている。懇親会と聞いて居酒屋か何かを想像していた私は、この場所のあまりの眩しさに、誰かの披露宴にでも迷い込んでしまったのかと思った。
「えー、なんですか急に」
私は笑顔を崩さずに聞き返す。こういう場では、何を言われても笑顔でいることがマナーだと、入社してすぐに教わった。
「いやね、もちろん悪気はないんだけど。なんとなく、育ちって出るなあと思って」
育ちという言葉が、テーブルの上に浮かび上がったように感じられた。私は表情を崩さず、少しだけ首を傾けてその意味を探ろうとする。
「ほら、歯並び」と角川は、ごく自然な動作で私の口元を指さした。
歯並び……?
「こっちの子って、小学生のうちにだいたい矯正するんだよ。俺もそうだったし、うちの妹もね。歯並びって、家庭環境とか家柄みたいなのが出ちゃうんだよね。だからさ、あ、寺元さんって田舎の子なのかなって」
その声色に悪意が全く感じられなかった。自分たちが正しい側にいると信じて疑わない人間だけがもつ、無垢な残酷さがあった。
「へえ……そうなんですね」
私の手は、気づかぬうちに口元へ伸びた。
「まあ、別に悪いことじゃないよ? 捕まるわけでもないしさ」
何が可笑しいのか、角川はくぐもったように笑った。白く整った歯列が照明に反射して、光った。
「でもさ」
角川は手元の皿をフォークで軽くつつきながら続けた。
「今、寺元さんって広報でしょ? 顔出しとか取材とか増えてくるだろうし。やっぱり見た目って大事じゃん。そういうとこ整えておくとぜんぜん印象違うと思うよ。今のカメラって、うんざりするくらい細かいとこまで拾うからね」
私が黙っていると、角川は「やば、今のってセクハラ?」と軽く笑いながら肩をすくめた。先ほどまで気にもとめていなかった口元が急に無防備なものに思えて、ほとんど口を閉じたままで「いえ、ありがとうございます」とだけ言った。
ちょうどそのタイミングで、ウェイターがテーブルに近づき、メインの皿を下げていった。私はそれに乗じるようにナプキンを椅子の上に置き「少し失礼します」と席を立ってトイレへ向かった。
誰もいない化粧室に入り、鏡の前で自分の顔をじっと見つめる。メイクは崩れていない。髪も整ったままだ。ただ、口元だけが妙に気になった。誰も入ってこないことを確かめてから、ゆっくりと口を開ける。
鏡に映る私の口元は、たしかにモデルのように整った歯並びではない。前歯のラインは少し波打っていて、左側の八重歯がわずかに飛び出している。これまではそれを気にしたことなど一度もなかったし、八重歯に至っては、友人や恋人に「かわいい」と言われて、むしろ気に入っていた節さえある。
けれど、鏡に映る今の私はもう十代の私ではない。二十代も半ばを過ぎ、あと数年もすれば三十代に差し掛かる。あの頃は「チャームポイント」として通っていた八重歯も、今となっては、そう言い張るには少し無理があるのかもしれない。
歯並びひとつで「育ち」だの「印象」だのと意味づけをされるなら、もういっそ直してしまった方が楽だろうか
ポケットからスマートフォンを取り出し、「歯列矯正 東京」と検索した。表示された検索結果は驚くほど多かった。どのクリニックも、似たような笑顔の女性の写真を載せていて、どれを見ても少し胡散臭かった。そのうちの一つを選んで、料金を確認する。高いな、とは思った。でも、払えない金額ではない。
べつに、損することじゃないしな、と自分に言い聞かせるように、私はスマホの画面を伏せた。
*
軽度の矯正だったこともあり、通院は一年半ほどで済んだ。痛みも違和感も、最初の数日こそあったものの、慣れてしまえば特に気になることはなかった。マウスピースをつけたままだとコーヒーが飲めないのが不満だったけれど、それさえもいつの間にか自然と控えるようになっていた。
もはや月に一、二度の通院は生活の一部になっていて、最後の診察で「今日で終わりですね」と言われたときには、少し拍子抜けしたほどだった。
洗面所の鏡で、毎日見慣れた自分の顔をあらためてじっくりと見て、あごのラインに沿って唇を開く。漫然と眺めていたときには気づかなかった変化が、意外なほどにはっきりと映った。
前歯のラインはまっすぐに整い、左右のバランスも自然になっている。かつて左の犬歯の上に重なるように飛び出していた八重歯もいまではほかの歯ときれいに並んでいて、その違和感がなくなっただけで顔全体がどこか締まって見えた。
スマートフォンを取り出し、矯正前の写真を開いてみる。笑顔を浮かべた自分の顔は、どこか間延びしていて、幼く、ぼんやりと締まりがなかった。少し口元が崩れているだけで、こんなにも印象が変わるのかと驚く。「田舎の子」と評された言葉の意味が、ようやく実感を伴って腑に落ちた。
あのときはムッとしたけれど、いまでは角川に感謝すらしていた。多分あの一言がなければ私はこの顔のままだったかもしれない。
鏡に目を戻す。整った歯。自然に引き締まった輪郭。口元は、何度見ても満足できる仕上がりだった。
ただ、と思う。
斜め横から、そっと角度を変えて自分の横顔を映す。
ただ、私の鼻は少し上を向きすぎてはいないだろうか――
*
ようやく腫れが引いて、シャープになった輪郭と対面することができた。鏡に映る横顔は以前の田舎臭い丸顔とは違って、Eラインがくっきり浮かび上がっていた。
顎を削る手術はこれまでで一番の高額で貯金も退職金も使い切ってしまったけれど、この仕上がりを見るとむしろ安い買い物だったとさえ思う。
術後のダウンタイムは四度目ということもあり慣れたものだったが、骨を削った分腫れは長引き今の仕事も一ヶ月ほど休まなければいけなかったのがキツかった。急いで復帰しなければ急場を凌ぐ金さえも怪しい。
ポン、とスマホが震える。
会社を辞めたのは二ヶ月ほど前のことだ。正確にはクビになったという方が近い。
風俗で働いていたことが直接バレたわけではなかったけれど、それらしい噂が流れていたのは察していたし、人事との面談で「社のブランドイメージもあるから」と遠回しに告げられた中で働けるほど図太くはなかった。それでも会社都合の退職扱いにしてもらえたのはラッキーだった。確固たる証拠がなかったことと、この会社に在籍していたことを口外しないことが条件だったが、おかげで退職金は思っていたよりも多くもらえたので、私はこれでよかったとさえ思っている。
「おーい、病気と聞いたけれど、体調は、大丈夫かな?
もう一ヶ月も、会えていないから、僕はもちろん、ノアちゃんも、寂しいんじゃないか、と思って、ラインしました(笑)
口開けは、僕が、絶対に予約するから、出勤日が、わかったら、早めに連絡するように!
ノアちゃんも、最初は、僕がいいでしょ?(笑)」
クソ客からのラインだった。内容の確認だけしようと思ったのに、指が滑ってトーク画面を開いてしまった。画面を閉じる気力もなく、スマホを握ったまま深く息をつく。
風俗を選んだ理由は単純だ。お金が必要だった。鼻の整形が終わった時点で、私の貯金は尽きかけていて、この先かかる金額を考えると給料だけじゃ足りなかったし、ちんたら居酒屋で皿洗いなんてしてる暇もなかった。金がなければ美しくなれないし、美しくなければ生きてる意味なんてない。
ポン、と手の中でもう一度スマホが震えた。
数いるクソ客の中でもコイツはまだマシな方だった。金払いはいいし、説教くさいところはあるもののプレイはおおむね紳士的。このキモい連続ラインさえなくなれば、と思うけれど対面してキモいよりはマシかと思って、毎度律儀に返している。
ため息をつきながら画面を見ると差出人はクソ客ではなく、母だった。
「昨日諒太が彼女を連れてきました。年内に結婚するそうです。
今年の正月は帰ってきますか?
渚さんも真子に会いたがっています。
仕事も忙しいでしょうけど、できれば一度帰って来てください。
お父さんも前は言い過ぎたと反省しています。
真子がどんな姿になってもあなたは私たちの自慢の娘に変わりありません。
お身体に気をつけて。連絡待っています。」
写真が一枚添付されていた。諒太が手を伸ばして撮ったであろう歪んだ構図の写真。両親と、弟と、数年前まで私がいた席に座っている女の人、諒太の彼女だろう。
丸顔で、鼻が低く、歯並びも良くない。まるで昔の私のような田舎臭い女だった。いや、この女だけじゃない、父も母も諒太も全員がどっぷりと田舎に染まった顔をしている。
私は鏡を見た。都会的で、洗練されていて、美しい私が映った。
もう一度スマホを見ると、どの顔もこれ以上ないというように幸福そうな顔で笑っているのに気がついた。
鏡を見る、口角を上げる、美しい顔。脳裏にさっき見た写真が浮かぶ、私の方が美しい、頬が引きつる。
写真フォルダを遡る。整形する前の、実家のダイニングで諒太と並んで笑っている写真、確かこれは上京する直前に撮った写真だ。まだらな茶髪、歯並びは悪く、輪郭がぼやけた田舎娘。その顔は、先ほど見た写真の四人と同じように、幸せそうに笑っていた
鏡を見る、私は美しい。スマホを見る、眉間にしわが寄る。
鏡を見る、私は美しい。脳裏に、昔の私が四人と並ぶ姿が映し出される、吐き気がした。
鏡を見る。
私は美しい。
私は美しい。
私は美しい。
私の方が、美しいのに。
ポン、スマホが光る。
「既読が、ついているのに、返信がないよ(笑)
友達同士なら、いいかもしれないけれど、社会人としては、よくないですよ。
信頼関係、というのは、簡単に、崩れて、しまうので、気をつけるように!
なんて(笑)人生の先輩、からの、アドバイスでした(笑)」
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私は寺元真子に尋ねた。
「あなたは幸せですか?」
「いいえ、私は不幸です。」
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