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3.

寺元太一は賢かった.賢いだけではなく要領もよく、一流大学へ進学し、大企業へ入社した。入社後は順調に出世を重ね、的確な判断力で部下の信頼を集め、上司からも一目置かれる存在だった。その背後には、常に支えとなる妻の姿があった。互いを理解し合う絆は強く、子供達もまたそんな父と母を誇りに思っていた。


 私は寺元太一に尋ねた。

「あなたは幸せですか?」

「はい、私は幸せです。」


 *


 僕のお父さんは正しい。少なくとも僕の家ではそういうことになっている。家族の大事なことのほとんどはお父さんの判断によって決められていて、そこに僕たちが異論を挟む余地なんてないし、今まではその必要も感じていなかった。今までは、の話だけれど。


「そういうわけで、僕は健と同じ中学にはいけないんだよ。」

「納得いかねえよ、そんなの」

 健は態とらしく眉間に皺を寄せて、声を張った。その動きが大袈裟すぎて、僕は少し笑いそうになる。

「納得いかなくても仕方ないんだよ。僕の家ではお父さんは絶対で、僕の反論なんて机の裏の鼻くそくらいにしか思ってないんだから。」

 なんだよそれと健がぷっと吹き出す。

「でもさ、そんなのおかしいよ。先生だって前に言ってたじゃん。これからは大人たちの言う事だけじゃなくて、自分自身で考えて行動しろって。」

 健は悪ぶっている割に妙に素直なところがあって、そう言うところが僕はけっこう好きだった。「真面目くん」の僕と「問題児」の健が仲良くやれてるのも、その辺のバランス感覚のおかげだと思う。

「でもさ、自分で考えろって言われても、お父さんを説得するのって難しいんだよ。怒らせたら、その、すごく怖いし。」

「怒られるくらいなんだよ、俺なんて父ちゃんにいっつも殴られてんだから。別に喧嘩しろって言ってるわけじゃないんだからさ、自分の気持ちくらい伝えたほうがいいんじゃねえの?」健はそう言って、「お前頭いいんだし」と付け加えた。

 なるほど、確かにそうかもしれない。

 今までは父さんに逆らうのが怖いからって、何も言わずに首を縦に振るばかりだった。嫌だと思っても口にせず、言うことを聞くことで嵐を避けようとしてきた。それは仕方のないことじゃなく、ただ臆病なだけだったんじゃないか。

 ここで一歩踏み出さなければ、僕はきっと一生このままだ。人の顔色をうかがい、黙って従うだけの人間になってしまう。健が言うように、せめて自分の気持ちくらいは伝えられる人間になりたい。たとえ相手が父さんでも。いや、父さんだからこそ。

 健はやっぱりすごいやつだ。いつでも僕に勇気をくれる。

「そうだね、今日話してみるよ」


 夕食の時間に話そうと思っていたけれど、今日はお父さんがいなかった。

「残業だって」とお母さんが言った時、少しほっとしている自分に気がついた。話さずに済むならそれが一番楽で、そのことを自分がちゃんとわかっているのが情けなかった。

 それでもせっかくの決意を無駄にしてしまうのが嫌で、お母さんが麦茶を飲んだタイミングを見計らって、口を開いた。

「健たちと同じ学校に行きたいんだけど。」

「ダメよ、そんなの。」

 お母さんはグラスを置く間もなくそう答えた。

「受験が嫌だからってレベルの低いところに行ったら、後で困るのは諒太なんだからね」

「そうじゃないよ、友達と離れたくないんだ。勉強は公立に行ったってできるでしょ。」

 反論したつもりだったけれど、お母さんの表情は何も変わらなかった。

「友達と離れたくない気持ちはわかるよ、お姉ちゃんもそう言ってたし。でも中学に行くと環境も変わるし、友達だって自然と変わっていくものなの。−−− ねえ真子。」

 そう言ってお母さんは姉の真子の方へ視線を向けた。

「ルコとかサホとか小学校では毎日一緒だったけど、今は全然連絡とってないよ。結局頭の出来が同じくらいの子の方が楽だし、楽しいよ。あんたはまだガキだからわかんないだろうけど。」

 面倒そうにそう言った真子はさっさと食器を片付けて「ごちそうさま」と二階へ上がって行った。

「ね、お姉ちゃんもそう言ってるんだから、諒太も頑張んなさい。」

 お母さんはテレビの音量を上げて、話はここまでとばかりに言った。

「夏休みから塾に行くんだから、健くんと遊ぶなら今のうちに遊んでおきなさいね」

 こうして僕の初めての意見は、お父さんに届く前にただのワガママとして片付けられた。


 *


 弁当箱を開けると、粉々になったシャー芯がふりかけみたいにご飯にかかっていた。怒りや悔しさの前に、いつどうやって入れたんだろう、という疑問の方が先に来た。

 弁当箱の惨状を見ればわかるように、僕は「頭の出来が同じくらい」の中学で、いじめられていた。

 きっかけは些細なことだった。クラスの中心人物の関田よりもテストでいい点を取ってしまったからだ。ただ、それがここまでひどくなったのにはもっと別の理由があった。お父さんが学校に乗り込んできたのだ。

 最初のきっかけは、何気なくお母さんに「最近クラスであまりうまくいっていない」と漏らしたことだった。別に不満をぶつけたわけでもなく、ただ「そういうことになっている」と伝えただけだった。

 その夜、何がどう父に伝わったのかはわからない。けれど、突然部屋に入ってきた父は、開口一番こう言った。

「お前は自分の意見をはっきり言わないからダメなんだ」

 そして立て続けに、「男ならやられたらやり返せ」「そういうのはビシッと言っておけば引き下がるもんだ」と、的外れなことを次々と並べたて、最後に「明日学校に行って話をつけてやる」と一方的に言って部屋を出ていった。僕が何かを発する隙さえなかった。

 翌日、父は本当に学校へ来て、先生たちと「話をつけた」らしかった。その日のホームルームで、担任がクラス全体に、僕へのいじめをやめるよう通告して、それでこの話は終わった。

 もちろん、そんなことでいじめがなくなるわけがない。僕をいじめていた連中は、僕以上にそれをよくわかっていたはずだ。

 結果として、いじめはより陰湿で、悪質なものに変わった。


 さすがにシャー芯の入った弁当を食べようとは思えず、購買に行こうと席を立ったところで、目の前に関田とその取り巻きが立ちはだかった。関田はニヤニヤと笑みを浮かべ、

「食えよ」と弁当箱を指差して言った。僕は取り巻きにもう一度席に座らされ、目の前に弁当箱を突きつけられる。

 こういう学校ではよくあることなのかもしれないが、ここではクラスカーストは本人の資質ではなく、親のステータスで決まる。この土地で代々続く「お医者様」の家系の関田と、大企業の課長ではあるものの、所詮サラリーマンである僕の父では勝負にすらならない。つまり僕は関田に逆らえないのだ。

 弁当はひどい味だった。


 僕へのいじめは基本的に大人の目の届かない閉鎖的な場所で行われる。だから放課後は比較的安全だ。と言っても、安全なだけで自由なわけじゃない。僕には放課後に遊ぶような友達はいなかったし、うっかりどこかに出掛けて連中に会えば、どうなるかは想像に難くなかったから。

 ただ今日は、あの弁当の味が記憶として口に残っていて、そのまま帰る気になれなかった。少し遠回りになるけど、何かで上書きをしようとコンビニに寄った。

 アイスコーナーの前でどれにしようか悩んでいると、背後で自動ドアが開く。

 振り返ると制服を着崩した男が三人、笑い声をあげて店内に入るところだった。髪は明るく、眉毛は薄い。その姿に体がこわばるのを感じたが、そのうちの一人に見覚えがあるのに気がついた。健だ。

 卒業してからずっと会っていなかったし、ずいぶん雰囲気は変わっていたけれど、顔を見た瞬間に健だとわかった。懐かしさが喉の奥にせり上がって口元がゆるむのを感じた。

 賢も僕に気づいたようで、「お」というように、軽く眉を上げた。僕は思わず手を挙げて「久しぶり」と声をかけた。

 一拍あって、横の男が健を肘で小突いた。

「なに?あの芋ボーイお前の友達?」

 健はそいつを一度睨んで、それから僕の方へ歩いてきた。

 表情を崩さずこちらを見る健とは対照的に、僕は何かを期待するような笑みを、気づけば浮かべていた。もしかしたら今日を機に何かが変わるかもしれないという、淡い希望が胸に膨らみ始めていた。健はいつでも僕に勇気をくれるから。

 健は僕の目の前で足を止めると、

「気安く声かけてきてんじゃねえよ」と言って、僕の腹を蹴った。


 *


 窓から見える景色は、いつも変わらない。日の高いうちに眠り、日が落ち始めてから目を覚ます。

 僕の家族は、もう僕のことをすっかり諦めてくれていた。

 僕が学校に行かなくなって、三年が経つ。最初のうちは、両親もなんとか僕をこの部屋から出そうと躍起になっていた。けれど姉の大学受験が近づくうちに、そんな余裕なんてなくなったらしく、僕の部屋の扉は次第に音を立てなくなった。

 姉はたぶん志望していた大学に受かったのだと思う。階下がやけに騒がしい日があったから。


 深夜、家じゅうの灯りが落ちたのを確かめてから、父のクレジットカードを持ってコンビニに向かう。

 今日の買い物は、カップ焼きそばとフライドチキン、それからエナジードリンク。「引きこもりに何がエナジーだよ」と脳内で嘲笑が湧いたが、「ゲームをするにもエネルギーは使うんだ」と僕は毎日律儀に反論する。

 画面の中で敵を殺して、殺して、殺して、それ以上に殺されて、レートはみるみる下がっていった。発散させるはずのストレスはどんどん濃く沈殿していき、何かのラインを超えたあたりで、コントローラーを叩きつけてパソコンの電源を落とした。

「このスペックじゃ、まあ無理だよな」つぶやいた声は小さく、誰にも聞かれないまま部屋の隅に消えた。

 行き場をなくした鬱屈は僕の手に雑誌をとらせて、今をときめくアイドルの水着グラビアを開いた。僕は自分の陰茎を握り、その顔に精液をかける。柔らかい笑みを浮かべた少女の頬に白い液体が垂れていて、ひどく醜悪なものを見たような気がした。

 僕は、射精した後には決まって美しさの意味を考える。

 やることがなくなってしまうと、僕の憂鬱は徐々に形づいてきた。引きこもりの最大の敵は、時間だ。時間があると、人は何かを考えてしまうらしい。取り残されている感覚。誰にも必要とされていないという現実。そういったものが、じわじわと僕の体を侵食していくのを感じた。

 どうせこの先、僕が幸せになることなんてない。両親が僕を見限ったように、僕もそろそろ、自分の人生に見切りをつけるべきなんじゃないか? 生きていくのが苦痛ならいっそ今死んでしまった方がいいんじゃないか?

 結論はいつも同じだ。僕は、一刻も早く死ぬべきだった。

 でも、今日もこうしてのうのうと生きている。

 わかっている。僕は、死ぬことができない人間だ。死を選ぶほどの勇気も、手段も、最後の一歩を踏み出す力もない。未来のないこの人生に、どこかでまだ期待しているのかもしれない。あるいは、この無価値な僕の意志が消えてなくなることに、怯えているだけか。

 そんな僕を見透かすようなセリフを何かの漫画で読んだことがある。

「本当に死にたいなら、今ここで全裸になんなよ。できないなら、死にたいなんて言うな」

 とある掲示板にはこう書かれていた。

「どうせ死ぬなら永田町で爆死しろ。そのほうが日本のためになる」

 どこかの誰かは、こう言った。

「死ぬくらいなら、死ぬ気で何かにぶつかってみろよ」

 どいつもこいつも、何もわかっていなかった。僕らが、死ぬその瞬間までお前らと同じように生きているということを、だ。

 死は、線じゃない。死を決意したからといって、そのまま自動で命が終わるわけじゃない。羞恥も、倫理も、不幸も—— すべてを本当に手放せるのは、すべてが終わった後だけだ。

 死は、どこかへ向かうように一歩ずつ進んでいくものじゃない。何かを捨てて、乗り越えて、成し遂げて、たどり着くような場所でもない。終わりは、扉が開かれるように、唐突に目の前に現れるものだ。

 僕が死ねないのは、僕のせいじゃない。まだ、その時が来ていないだけだ。

 窓の外に、朝日がじわりと滲んでいた。自分の命を救うことも、断つこともできない僕は、今日もまた何かが僕を終わらせてくれるのを待ち続けながら、祈るように目を瞑った。


 *


 私は寺元諒太に尋ねた。

「あなたは幸せですか?」

「いいえ、私は不幸せです。」

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