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2.

寺元太一は貧乏だった。売れないお笑いコンビを組んでおり、生活はいつもギリギリだった。それでも彼は他人を思いやる優しさを失わなかった。そんな彼の姿に、家族は貧しさ以上の幸福を見ていた。


 私は寺元太一に尋ねた。

「あなたは幸せですか?」

「はい、幸せです。」


 *


「なんでこんなに客にウケねえんだろうな。」

 煙を吐きながらいうと、隣を歩く桜が鼻声で答えた。

「面白くないからでしょ」

 季節の変わり目になると彼女の鼻炎は決まって悪化する。秋も終わりかと思うと、急に風が肌に染みるような気がした。

「袖の芸人たちは笑ってたよ。先輩にもこのままでいいって言われてるし。芸人ウケはする、評価もそれなりにされてる、わかるやつにはちゃんとわかってるんだよ。」

「でもお金払ってるのは袖で笑ってる芸人じゃないでしょ。」

 そのセリフを聞くのは今月だけで四回目だった。しかも四回とも違うやつに。

「でもさ、もしちゃんとした審査の場があったら、俺たちだってそこそこいけると思うんだよ。今みたいに素人を笑わせて終わりの浅い笑いじゃなくて、ちゃんとプロが審査して、順位を決めてくれるような漫才のコンテストがあったら、俺たちだって戦える気がするんだけどな。」

 くだらない言い訳を並べ立てる私を横目に桜が足を止める。コンビニの明かりが彼女の輪郭をくっきりと浮かび上がらせていた。

「なんでもいいけどさ、もうちょっと稼いできてよ。」

 いつもの茶化すような調子ではなく、どこか真摯な響きがあった。

「なんだよ。貧乏でもいいって、ずっと応援してるって言ってくれてたじゃん。」

「私はね、私はそう言ったけど。」

 彼女は自分の腹に手を当てて、少し笑った。

「この子がなんて言うか、だよ」

 ドクンと心臓の音が聞こえた気がした。自分のか、それともまだ形にならない命の気配だろうか。

「マジ?」

「マジ」

「できた?」

「できた。二ヶ月だって、今日病院に行ってきたよ。」

「でかした桜!」

 俺は手に持っていた煙草を投げ捨て、桜を抱き上げた。笑わない客も、売れていく同期も、ムカつくバイト先の店長も、二桁しかない通帳の残高も、今この瞬間はどこか遠くへ消え去っていった。ただ幸福感だけがまっすぐに体を駆け抜けた。

「ちょっと!危ないから降ろして!」

 どこか嬉しそうな声で桜は私の肩を叩いた。俺は彼女を抱えたままゆっくりと一回転した。回っている間は重さも時間もどこかへ消え去っていくような気がした。通り過ぎたサラリーマンが振り返って眉を顰めた。コンビニの前にいた若者がこちらを指さして笑っていた。そんなこと、どうでもよかった。

「あーあ、ホントはちゃんとプロポーズしてほしかったんだけどなあ」

 彼女は俺の腕から逃れるようにしてアスファルトに降り立つと、意地悪そうな笑みを浮かべてそう言った。

「バカやろう、そんなのいくらでもしてやるよ。」

「へえ、じゃあいつしてくれの?」

 俺はわざとらしくポケットの中を探って、こう言った。

「そりゃ、次の人生でだろ。」

  

 *


「残った!残った!」

 ちょうど五コール目で電話に出た桜に、俺は開口一番叫ぶようにそう言った。

「なにこんな時間に。相撲でもしてるわけ?真子が起きちゃうじゃない」

「バカやろう!そうじゃないだろ。M1の決勝だよ!決勝!残ったんだよ俺たち!」

 桜はすぐに返事をしなかった。咳払いのような音が聞こえた後、呆れたような鼻声がした。

「はいはい。おめでとうございます」

 ひどくぞんざいな言い方だったが、言葉の奥には喜びを隠しきれない気配があった。

 今年から始まったM1グランプリという漫才コンテストは、まさに俺たちが待ち望んでいた舞台だった。出場資格は結成十年以内。全国から一六〇四組の漫才コンビがエントリーし、数ヶ月にわたる予選を勝ち抜いた十組だけが、年末に行われる決勝の舞台に立てる。優勝賞金は、一千万円。人生が変わる金額だ。

「夢じゃないよな。桜、俺たちついにここまできたんだ。」

「夢なわけないでしょ。こんなに眠い中わざわざ電話してるんだから」

「なんだよ。もっと喜べよ、決勝だぞ、全国放送なんだぞ。」

 詰めるように言うと、電話の向こうで小さな笑い声と布団が擦れる微かな音が聞こえた。真子が寝返りでも打ったのかもしれない。思わず頬が緩む。

「いつからそんなに器が小さくなったの?まだスタートラインじゃない。一千万取ってくるんでしょ?」

 桜の言葉に、浮き足立っていた心が俄かに現実に戻された。そうだ、浮かれている場合じゃない、勝たなければ意味がない。今まで支えてくれた彼女のためにも、これから大きくなる真子のためにも。

「待ち望んだ舞台なんでしょ。頑張ってきてね。」

「そうだな。優勝したら、三人で旅行にでも行こう。」

「うん。」

「美味しいものも食べに行こう。」

「うん。」

「指輪も買いに行こう。」

「うん。」

「結婚式もあげよう」

「お金なくなっちゃうよ。」

「いいよ、それでも。桜、真子、愛してるよ。」

「うん。」


 *


 二〇〇一年に行われたM1グランプリで、俺たちのコンビ「ツーリスト」は九位のアマチュアコンビに五〇点差をつけられて、ぶっちぎりの最下位になった。それを糧に再起することも、受け入れてネタにすることもできないまま五年の月日が経ち、今では俺たちのネタを笑う人間は誰もいなくなっていた。


 駅前のファミリーレストランで五本目のタバコを灰にすると、入口のベルが鳴った。見ると、汚れた作業着姿の秋沢がいた。待ち合わせの時間から三十分が経っていた。

「悪い、仕事が長引いて。」

 言葉とは裏腹に悪びれもせずそういって、店員に「ハンバーグセット、ライス大盛り。」と告げた。沈み込むようにソファーに腰を下ろし、ポケットからジタンカポラルという珍しいタバコを取り出した。火をつけると、俺の方を向きもせず、ただ黙って煙を吐き出した。

「M1用のネタならまだできてねえぞ。先月やったネタが滑ったからやる気出ねえんだ。」

 視線はまだ、俺の方に向けられてはいない。

「いや、呼び出した理由はネタのことじゃないよ」

 そう返すと、秋沢は言葉を切り、吸い殻を灰皿に潰した。

 やがて、テーブルにハンバーグセットが運ばれてきた。ジュッという音と共に肉汁が目の前に跳ねる。腹の奥でなった音を誤魔化すように俺は口を開いた。

「先月、二人目が生まれたんだ」

「知ってるよ。出産祝いなんて出せねえからな」

「そうじゃねえよ」

 秋沢は黙って、フォークに手を伸ばす。

「上の子も来年は小学生だ。なのに一向にネタはウケないし、もちろん仕事は増えない、生活はギリギリ。少しだけど借金もある。」

「そんなの俺だって同じだよ」

「違うんだよ。俺とお前じゃ。」

 自分でも少し語気が強まっていくのを感じた。

「生活をギリギリまで切り詰めて、借金までして、それなのに俺は娘にランドセル一つ買ってやれねえんだ。飲み屋に消えちまうお前の金とじゃ意味が違うんだよ」

 秋沢は反論しなかった。ただ俺の顔を真っ直ぐに見ていた。

「今、バイト先で社員にならないかって誘われてる。夢はないけど収入は安定する。もしその話を受けたら、今までみたいに自由が効かないし、ネタ合わせの時間も取れない。」

 俺はそこまで続けると、一度言葉を区切り、テーブルの上のコーヒーに口をつけた。すっかり冷め切っていて、苦味だけが口に残った。

「だから、なんだよ。」

 声には、怒りも失望もなかった。ただ何かに対する諦めのようなものがあった。

「解散しよう。」

 秋沢はしばらく何かを考えるように天井を見上げ、手に持っていたフォークをテーブルに置いた。その代わりにタバコに火をつけると、焦げた木材のような甘くて重い香りが鼻をついた。

 なぜそんなタバコを吸っているのか聞かれる度に、秋沢は決まって古い映画の話をした。「最後のシーンだけでも見る価値あるよ。」そう言われた映画を俺はいまだに見ていない。

「わかったよ。元々俺が誘ったんだ。別に引き止めやしねえよ。」

 秋沢はポツリとそう呟くと、吸ったばかりのタバコを灰皿に潰した。

「俺はやめねえからな。泥啜っても、血反吐吐いても、売れるまで絶対やめねえ。」


 *


「四卓三名様入りまーす!いらっしゃいませーい!」

「いらっしゃいませーい!」と厨房の奥からバイトの田中が俺の口調を真似る。ホールでは噛み殺した笑いがあちこちで湧いていた。きちんと咎めるべきだろうことはわかっていたが、今の時代何がパワハラになるかわからない。万が一にもこの仕事を辞めるわけにはいかない俺は、気が付かないふりを続けるほかなかった。

 職場では、陰でMテンと呼ばれていた。おそらくM字ハゲの店長とM1で十位だったことのダブルミーニングだろう。恥ずかしさや情けなさを感じる年齢は、とうに過ぎていた。


 閉店後、カウンターの裏で在庫の確認をしていると、田中と山川がやってきた。二人は同じ大学の三回生で、おそらく恋人同士だ。本人たちから聞いたことはなかったが、そういう雰囲気は意外とわかるものだ。

「店長、僕たち明日バイト休みます。」

 開口一番、田中は悪びれもせずそう言った。

「え?どういうこと? 二人とも?」

「はい。二人ともです。」

「ちょっと困るよ。そういうのは事前に言ってもらわないと。」

「でも仕方なくないですか?法事なんですよ。」田中がそう答えると、山川は口元を押さえて咳払いをした。笑いを堪えているのは丸わかりだった。

「法事って、二人とも法事ってこと?」

「二人とも法事です。言ってなかったっすけど親戚なんすよ。」

「親戚って、君たち出身地全然違うじゃない。」

 俺は履歴書に書かれていた田中と山川の出身地を思い出す。

「遠い親戚なんすよ。」

「それはちょっと、無理があるだろ」

「なんすか?嘘じゃないっすよ。じゃあ世の中に新潟と神奈川の親戚が一人もいないって言い切れるんすか?まじで法事なんすよ。たかがバイトで大好きなじいちゃんの葬式出れないとかやばいっすよ。」

 山川は堪えきれず吹き出してしまい、田中に肘で小突かれていた。

「…わかったよ。じゃあ休んでもいいからせめて代わりの人は探してくれる?」

「それって俺らの仕事ですか?」

「え?」

「シフトの管理って、店長の仕事っすよね?」

「まあ、そうだけど。でも急に休むんだから少しくらい協力してほしいっていうか」

「だから、それをやるのがあんたの仕事でしょ。俺、なんか間違ったこと言ってます?」

 目を閉じて深くため息をつく。

「わかったよ」

 言い負かされたと感じたわけでも、頑とした態度の田中に気圧されたわけでもなく、もうどう返しても徒労になるような気がしたのだ。

「代わりはこっちでなんとかしとくから。じゃあ法事、楽しんできてね。」

 精一杯の皮肉をこめたつもりだったが、二人は揃って「お疲れ様でーす」と笑いながら、さっさと帰って行った。


 バイトの頃から数えたらもう十五年以上、今の職場で働いている。年数が伸びるにつれて責任は重くなっていたが、肝心の給料の方は対して上がってくれなかった。

 帰り際、いつものスーパーに寄った。まっすぐ酒類売り場に向かい、発泡酒の五〇〇缶を二つ手に取ると、視界の隅に秋沢の顔が映った。今度はビールのCMに起用されたらしい。パネルの中で、少し芝居がかった笑みを浮かべていた。

 数年前から、秋沢はテレビに出始めていた。誰にでも噛みつき悪態をばら撒くスタイルで、なぜか若い層にやたらとウケていた。コンビを組んでいた頃の秋沢とも、教室でふざけ合っていた頃の秋沢とも。もうまるで別人のようだった。

 レジを済ませた後、ふと秋沢が話していた古い映画を思い出した。タイトルは思い出せなかったが、アランドロンが出ていた、という記憶だけを頼りに、駅前のツタヤまで引き返す。店員に聞きながら店内を徘徊し、ようやく棚の奥にそれらしきものを見つけた。

「さらば友よ」

 そうだ、これだった気がする。


「ただいま」

 家に戻ると、リビングの照明はまだついていた。

「おかえり」

 夏が終わりを迎え、桜はまた鼻声になっていた。鼻炎がぶり返すと決まって淹れる季節のハーブティーの香りは、今や風物詩のように思えていた。

「真子と諒太は?」

「もう寝てるよ」

 時計を見ると十二時を回っていた。

「なんか最近あいつらの顔見てない気がするな。」

「仕方ないでしょ、帰りはいつもこの時間だし、あなたが起きる頃には二人とも学校に行ってるんだから。」

 彼女はカップに口をつけて、それほど多くない中身を一息に飲み干した。もしかしたら私が帰るまでここで待っていてくれたのかもしれないと思い、嬉しさと申し訳なさが同時に湧いた。

「明日は久しぶりにみんなで出かけられるんだからいいじゃない。」

 田中と山川の顔が浮かぶ。苛立ちに顔が歪んだ。

「あ、いや。それなんだけど、ごめん明日も仕事になっちゃって。」

「あ、そうなの。」

 彼女の反応は意外なほどあっさりしたものだった。

「それじゃ真子と二人で買い物に行ってこよっかな。」

「それじゃって…諒太はどうすんだよ。」

「友達と遊ぶんじゃない?さっきも明日友達と遊んじゃダメ?って聞いてきてたんだから。」

 明日はパパとお出かけだから我慢してって言っといたけどね、と彼女は小さく笑った。

「怒ってないのか?」

「何に? 今更四人でお出かけなんて歳じゃないでしょ。私たちも、あの子達もね。」

 ブランケットを畳みながら彼女はそう言って立ち上がった。

「いつまでも子供じゃないんだから、親の目から離れて自分たちのテリトリーで勝手に遊ぶほうが楽しいんでしょ。」

「じゃあ私も寝るね。おやすみ、コップ洗わなくていいから。」

「ああ…おやすみ。」


 静かになったリビングで、発泡酒のプルタブを開けた。プシュと小気味いい音が鳴り、その余韻が消えぬうちに半分ほど胃に流し込んだ。「さらば友よ」のDVDをセットする頃にはもう空きそうで、映画は吹き替えで観ることに決めた。文章を追いながら映像に集中できるほど、今の俺の頭は働かない。二本目のプルタブを開けると、画面の向こうではアランドロンが薄暗い病院の廊下を歩き出していた。


 二本の発泡酒とさらに追加で冷蔵庫の缶チューハイが空き、画面にはエンドロールが流れていた。俺は静かに流れるクレジットを呆然と眺めながら、いい知れない恐怖のようなものを感じていた。退屈な映画ではなかった、話も理解できた、役者も映像も見応えがあった。でも、それだけだった。

 例の「最後のシーン」を見ても俺の心はなんの動きも見せなかった。酒を飲みながら映画を見た、ただそれだけだった。その事実を認めようとすると頭がおかしくなりそうだった。

 四十を過ぎた。仕事は毎日同じことの繰り返しで、バイトには小馬鹿にされている。ろくに子供に会う時間も作れず、子供達はすでに俺の手を離れかけている。何かを強く思うことも、何かに突き動かされることも、もうなかった。

 もし俺があの頃、まだ「ツーリスト」だった頃にこの映画を見ていたら、もう少し何かを感じ取れていたのか。あるいは、何も感じなかった自分に何か意義を与えていただろうか。今はもう、その問いを考える気力もなかった。

 信号が途切れたプレイヤーは電源を落とし、画面が地上波に切り替わった。

「クソでしたよ!マジで!」 

 いきなり飛び込んできた甲高い声に、思わず目を瞬かせる。秋沢の声だった。観客の笑い声がスタジオに響き、深夜番組のMCが大げさに手を叩きながら煽る。

「ほら、今見てるかもしれへん元相方になんか言ったれや。」

「おい寺元!解散してくれてありがとよ!つまんねえお前と別れたおかげで俺は売れたぞ!泥啜って血反吐はいて、俺はやっと売れたぞ!」

 スタジオが拍手に包まれた。秋沢は顔を真っ赤にして更に声を張り上げた。

「ざまあみやがれ!」


 *


 私は寺元太一に尋ねた。

「あなたは幸せですか?」

「いいえ、私は不幸です。」


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