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1.

寺元太一は金持ちだった。持ち前の行動力と、適度な思慮の浅さと、恐ろしいほどの運の良さで、バブル期に莫大な資産を築き上げた。


 私は寺元太一に尋ねた。

「あなたは幸せですか?」

「はい、私は幸せです。」


 *


「どうして私だったの?」

 テーブル越しに座る文田桜がそう口を開いた。

「そうなる運命だったから」

 私が答えると、彼女は少しだけ口角をあげた。

「運命って少し大袈裟すぎるんじゃない? 確かにすごい偶然ではあるけど、駅でばったり会うくらいのこと、この世界のどこかで毎日のように起きてそうじゃない?」

 理屈っぽいことを言いながらも、彼女の声には微かな熱が混じっていた。おそらく彼女自身、内心では「運命」という言葉を信じている。女はみんな、この魔法の言葉が好きなのだ。

「今回はそうだね。」

「今回は?」と彼女が聞き返す。

「そう、僕たちはどんな人生を歩んでいても、必ずどこかで結ばれるようになっているんだ。それで今回は、地元の同級生が東京でばったり再会するっていうストーリーだった、って言うのはどうかな?」

 彼女はふっと小さく笑った。求めていた答えを、ピタリと当てた手応えがあった。

「へえ、太一くんて意外とロマンチックなんだ」

 そういって彼女はグラスを傾ける。「ロマネ・コンティ1990」このレストランで一番高いワインだ。指輪を出すタイミングを図る。内ポケットの厚みに鼓動が伝わっているような気がした。

「じゃあさ、次はどうなるの?」

「次?」

 思いがけない問いに、少し戸惑った。

「どんな人生を歩んでても必ず結ばれるんでしょう? 次の世界では私たち、どう出会うの?」

 彼女の視線はキャンドルの炎の奥で悪戯っぽく揺れている。

「そうだな…次の人生では、 僕は秋沢とお笑いコンビを組んでいる。」

「秋沢って、あの秋沢くん?」

「そう、君も知ってるあの秋沢くんだ」

「嘘、二人とも全然面白いイメージないんだけど」

「今回の世界ではね」

 彼女は手のひらをグラスの足に添えながら、肩をすくめて笑った。

「それでお笑い好きな君は、」

「次回はお笑い好きな私は、ね」

 今度は私が肩をすくめる番だった。

「そうだね、次の世界ではお笑い好きな君は、ある日ふらっと下北沢の劇場に足を運ぶ。そこで偶然、僕たちの漫才を見ることになる。」

「ステージに立つ僕たちをみて君は懐かしさに駆られる。"あれ、もしかして寺元くんと秋沢くん?" ってね。」

 彼女はグラスを置いて、話の続きを待っているようだった。

「漫才は散々な出来で、君は客席からどんどんいなくなる客たちを横目に僕たちを憐れむんだ。そして最終的に客席には君だけが残る。」

「なにそれ、最悪じゃん」

 声を抑えきれず、彼女は喉の奥で小さく笑った。

「でも僕たちは、そうやって、また出会うんだ。」

 私はジャケットの内ポケットから小さな箱を取り出す。

「だから、僕と結婚してくれないか?」

 言い終わると同時に、レストランの照明がフッと落ちた。私たちのテーブルを照らす柔らかい光を残して。

 彼女は眉を上げて、呆れたように口元を緩める。

「やっぱり、それ指輪だったんだ。今日ずっとポケット膨らんでたからおかしくて」

「もしかしてバレバレだった?」

「うん。バレバレだった」

「そうか。だったら次の世界ではもっと上手くやるよ。」


 *


「うん、よく似合ってる」

 シャネルのツイードのセットアップに袖を通した妻に、私はそう言った。姿見の前で軽く身をひねりながら、彼女はわずかに表情を曇らせる。

「なんか派手すぎない?私、もっと普通の服でいいんだけど」

「普通って。これ、十分普通だよ。これ以上ランク下げたら、こっちが恥かいちゃうって」

 妻は小さく息をついて、鏡の前で前髪を直した。その手つきは慣れない仕草のようにも、わざとらしくない控えめな演出のようにも見える。

 初めての人と出会う時、身に着けるものの力は大きい。相手が誰であれ、第一印象を決めるのは言葉じゃない。着ている服、持っているもの、連れている女性、その女性の「ランク」。そういうものが、名刺より先にその人を語る。

 今週末の会食には、それなりに名のある人たちが集まる予定だ。肩書だけじゃなく、妻やパートナーまで含めて一揃えで見られる場だ。見抜かれないように装うのではなく、見せたいものをはっきり提示しておくことが大事だ。

「サイズちょうどだね。丈感もいい」

「うん。着心地も悪くないよ」

「ヒールは今日のよりもう少し高い方がいいかもしれない。そのほうがスラっとして見える。」

「そんなの履いて、歩けるかしら」

「大丈夫、会場に着いたら五分で座るから。」

 私はチラリと妻の顔を見た。そこに不満の色は見えなかった。強いて言えば、わずかに不安そうではあったが、それは私に対するものではなく、週末に控えた会食そのものに対するものだろう。

「じゃあ、これにしようか」

 店員がすぐにレジへ案内してくれる。私は支払いを済ませながら、次の予定を思い出す。

「このあとはエルメスに行こう。黒の30、あれば今日中に押さえておきたい」

「えっ、あれって予約しないと無理じゃないの?」

「普通はね。でも、今日は少し裏口を通すから」

 妻は「ふうん」とだけ返して、紙袋を受け取った。


 *


「おかえりなさい」

「ただいま。まだ起きてたんだ」

 時刻はすでに深夜一時を回っていた。

「うん。今日はあんまり眠くなくて」

 そう言いながら、彼女は少しだけ体をずらして隣にスペースを作った。

「寝不足は体によくないよ」と腰を下ろすと、ハーブティーの匂いがふわりと鼻をかすめた。

「赤ちゃん、最近すごく動くんだよ」

 そう言って、彼女は自分のお腹に私の手をそっと添えさせた。妻の体温とともに柔らかな存在を手のひらに感じた。

「もうすぐだね」

「うん。あとひと月くらい」

 彼女の声は穏やかだったが、どこか遠くを見ているようでもあった。

「……この子が生まれたら、もっと家族の時間って増やせるかな?」

 一瞬だけ、返事に詰まった。

 明日も朝から取引先との会食、そのあとは投資家のパーティ。来週はゴルフ、月末は香港出張。それに他の女との約束もある。ここ数ヶ月、妊娠してからは特に、家にいる時間が極端に減っていた。

「もちろんだよ。家族が一番大事だからね」

 嘘ではなかった。けれど、私の思いと妻の思いが同じ重みを持っているとはどうしても思えなかった。 

「そう、よかった」

 テレビの画面には、赤ちゃんを抱いた夫婦がソファで笑い合うCMが流れていた。私の目にはなぜか、それがひどく空虚でわざとらしいものに見えた。


 *


「今日、何の日かわかってる?」

 ジャケットに腕を通そうとしたとき、妻の声を背中に浴びた。視線は私ではなく、胸に抱いた子どもに向けられていた。

「わかってるよ。真子の誕生日だろ?」

「そう。この子の誕生日」

 彼女は言いながら、キッチンのテーブルに目を移した。そこには、さっき届いたばかりの小さなバースデーケーキが置かれていた。

「そんな日に、あなたはどこへ行くつもり?」

「仕方ないだろ。先方は今日しか空いてなかった。もう一ヶ月も前から決まってたことだ。それに誕生会だってちゃんと予定に入れてある。少し日にちはずれるけど」

「ずれる? 真子の誕生日は今日なの。一年前からわかってたことでしょ」

 妻の声がわずかに上ずった。普段抑えているものが、溢れ出してしまったような声だった。

「君の気持ちはわかるよ。でも真子はまだ一歳だ。誕生日が今日か明後日かなんて、本人に違いなんてわからないだろ?」

 彼女はしばらく黙っていた。唇をきゅっと結び、じっと子どもを見下ろしていた。やがて、小さな声で吐き出すように言った。

「私、あなたのそういうとこ大嫌い」

「おいおい、待ってくれよ」

 私は手にしていたジャケットを椅子にかけ、努めて声を抑えた。

「きっと君は育児で疲れてるんだ。一度どこかで羽を伸ばしてきたらいい。真子のことは、僕がどうにかするから」

「どうにかって? 何ひとつやってないあなたが、どうやってどうにかするのよ」

 一瞬だけ返答に詰まったが、私は軽く肩をすくめて言った。

「優秀なベビーシッターを雇うよ。もしかしたら、君よりうまくあやせるかもしれない」

 私の冗談は、妻には嘲りと捉えられたようだった。場の空気をやわらげる軽口のつもりが、部屋にはより一層重苦しさが増していた。

「もういい」

 彼女は天井を見上げて首を振った。

「会食でも接待でも、なんでもいいからどこかに行って。今は、あなたの顔も見たくない」

 私は何も言わず、椅子にかけたジャケットを羽織り玄関を出た。

 待たせていたタクシーに乗り込み、運転手に女の待つホテルの名を告げる。シートに体を預け、ゆっくりと目を閉じた。


 *


 私は寺元桜に尋ねた。

「あなたは幸せですか?」

「いいえ、私は不幸せです。」

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