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幸福の追求

幸福とは一体、どういったものであるか。

 たとえばそれは、母の隣で食べたスイカの味と、網戸を抜けた風が運んでくる蚊取り線香の香り。

 たとえばそれは、苦労して登った岩壁の頂上から友人と眺める、どこまででも続くような水平線。

 たとえばそれは、街灯の下に浮かぶ夜気とカエルの声に包まれながら、荷台に座る彼女の体温が背中にしみ込んでいった、あの夏の夜の自転車の重み。


 これらの全てが、私にとっては間違いなく幸福な瞬間だった。だがそれは、あくまで私にとっての幸福でしかない。

 ではその時、私の幸福の隣人たちはどうだったのか。

 私の幸福の記憶の中にいて、その幸福を成り立たせていた人たちは果たして幸福だっただろうか。


 母は東京の人だった。どういう経緯で東北の田舎町に嫁いできたのか、詳しく知らない。ただ父との結婚を機に仕事を辞め、身寄りもないこの土地に越してきたのは確かだ。

 祖父母は母に厳しかった。旧時代的な価値観を疑うことなく生きていた彼らと、東京でキャリアウーマンとして働いていた母の価値観が合うはずもなく、母は毎日のように小言を言われ、何をしてもケチをつけられていた。父に相談しても、彼は呆れたようにため息をつき「うまくやりなよ」と言うだけで、事態を変えようとはしなかった。

 あの夜、私と母は縁側に並んでスイカを食べていた。網戸の向こうで虫が鳴いていて、蚊取り線香の煙が風にたなびいていた。私は口いっぱいにスイカを頬張り、母はそんな私を見て静かに微笑んでいた。

 そのとき、奥の廊下から祖母の声が響いた。

「こんな時間にスイカなんて食べさせたらダメでしょう。おなかでも壊したらどうするの?」

 母は「すみません」と小さくつぶやいて、食べかけのスイカを私の手から盆に戻した。

「もう食べちゃダメ?」と無邪気に私が聞くと、母はゆっくりとかぶりを振って、私の頭を撫でた。

 その日からひと月も経たないうちに、母は離婚届を置いてどこかへ姿を消した。


 私は、あの日私と並んで縁側に座る母に尋ねた。

「あなたは、幸せですか?」

「いいえ、私は不幸せです。」


 


 小学五年生の頃、私は毎日のように遊ぶ仲の良い友人がいた。

 ある日、冒険がてら自転車で十キロほど先の海沿いへ出かけ、何となく見晴らしの良さそうな岩山に登った。小さな山だったが、ゴツゴツした岩で登りにくく、頂上に着いたときにはそれなりの達成感があった。

 頂上では、友人の母親が作ってくれたサンドイッチを食べ、いつものようにトレーディングカードを交換した。

 強い潮風が吹いて、波立つ海が光っていた。空と海の境で一本の線がどこまでも続いていた。

 翌日、いつものように友人の家を訪ねると、玄関先で彼の母親が出てきた。私の分のサンドイッチまで作ってくれるような、優しい人だった。応対した友人の母親は、

「言いにくいんだけどね」と前置きして、次のように続けた。怒気を孕んだその声色に私は少し身構えた。

「あのね、実はすごく迷惑なの。」

「メイワク…?」

「そう、迷惑。わかるでしょ? あの子はね、危ないところに行くのも、危ないことをするのも、全然好きじゃないし、あなたみたいに乱暴な子のことも全然好きじゃないの。あなたが怖くて断れずに、ずっと悩んでたのよ。昨日だって、大事なカードを取られたって泣いてたの」

「え、いや、と、取ってないです、交換して……」

「取られたの、あなたに。少なくともあの子にとってはそれが事実なの」

 私の言葉を遮って、きっぱりとそう言い放った。

「これからあの子は中学受験があるし、あなたみたいな子と遊ぶ余裕なんてないの。だからうちにはもう来ないで。それからうちの子にも二度と関わらないでちょうだい」

 私は呆然としながら友人の家を後にした。帰り際、友人の部屋を見上げるとカーテンはピッタリと閉められていた。

 それからその友人とは一度も言葉を交わすことなく、彼は私立の中学校へと行った。


 私は、あの日岩山の上で海を眺めていた友人に尋ねた。

「あなたは、幸せですか?」

「いいえ。私は不幸せです。」


 十七歳の夏、初めて恋人ができた。物静かで、どこか品のある女性だった。細かな記憶は曖昧だけれど、母に似ていたような気がする。

 その日は地元で大きな祭りがあった。彼女も私も騒がしい場所が好きではなかったので、私の家で花火の音をBGMに『天使のくれた時間』を観ていた。なぜその映画を選んだのかは覚えていないが、観ていたのがその映画だったのははっきりと覚えている。ニコラス・ケイジがベッドルームでキスをする場面で、私たちも初めて唇を重ねたからだ。

 その夜、私は彼女と初めてセックスをした。

 遠くで上がる花火の音と、彼女の体温と、静かに流れるエンドロールがゆっくりと混ざり合って行く感覚があった。

 背中に温もりを感じながら、自転車を漕いで彼女を家まで送った。祭りの余韻がぽつぽつと路地に散らばり、カエルの鳴き声と涼しい夜風が肌を撫でた。


 次の日、彼女は学校を休んだ。「大丈夫?」とメールを送っても返事はなかった。その翌日も、翌々日も、彼女は学校に来ず、返信もなかった。

 その週の日曜日、悶々としていた私のもとに、彼女から一通のメッセージが届いた。

「今から会えない?」


 指定された公園に着くと、ベンチに彼女が座っていた。その横には、彼女の友人と、友人の彼氏と思われる体格の大きな男がいた。

 私は自転車を降り、戸惑いながら彼女に近づいた。すると、その男に「座れ」と言われた。どこに座ればいいのかわからず、視線を泳がせていると、突然、腹を蹴られた。

 強烈な痛みでうずくまった私に、彼女の友人が言った。

「あんた、自分が何したかわかってる?」

 まったく身に覚えがなかった。私は顔をしかめ、彼女の表情を探るように見上げた。けれど彼女は、顔を伏せたままだった。

「レイプしたくせにとぼけてんじゃねえよ!」

 彼女の友人が怒鳴り、それと同時に男が私の肩を蹴り上げた。肩口に痛みを感じながら、私はどこか冷めた頭で妙に息の合ったプレイだなと思った。まるでよく躾けられた犬みたいだ、と。

 私はその日、息ができなくなるほど殴られて、財布に入っていた二万円と平穏な高校生活を奪われた。


 私は、あの日自転車の荷台に座っていた彼女に尋ねた。

「あなたは、幸せですか?」

「いいえ。私は不幸です。」


 このように、私の幸福は常に誰かの不幸の上に成り立っていた。母、友人、恋人、いずれも私の幸福を幸福たらしめていながら、彼ら彼女らにとってその瞬間が幸福であったとは到底言えない。

 そのような幸福が、他者の痛みや不満の上に築かれた幸福が、果たして本当に幸福と呼べるであろうか。

 私は「本当の幸福」というものが知りたかった。自己完結的なものではなく、自分と「隣人」たちが、それぞれの立場で幸福だと感じられるような、持続的で普遍的な幸福のあり方を。

 その探究の一端として、私は一つの物語を綴ってみようと思う。登場人物全てが幸福でいられるような、欺瞞のない誠実な物語を。

 その物語の先にこそ、私の求めている「幸福の真理」があると、そう信じている。

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