【2】犬になります
――――ストロベリーバニラの紅茶は私の好物だ。
いつもとは違う朝の匂いに目蓋を開けて……固まる。
「何……してるの?ヒューゴ」
見慣れた公爵家の執事服にまさかのマッチした首輪とリード。
「ふっ。アリスお嬢さま。執事と言えば朝一番にお嬢さまのためにモーニングティーを入れて待ち構えているものです」
「……それはテレビの見すぎよ」
「え、しないの!?」
「そうよ。と言うかどうして誰も止めないのよ、もう」
侍女たちは構わず着替えの準備をしているし。
「あのね、アンタ。王宮であんたの執事や侍従たちが同じことしてた?」
「……いや。そう考えればそうだな。してないな」
「目を放すと何をし出すか分からないんだから」
何だか放っておけないひとね。
「うう……完璧に決まったと思ったのに」
「まあ画的には決まってると思うわよ。実用執事的には……微妙なところだと思うけど」
「く……っ、なら俺はどうすればっ」
「そうね。それなら朝起きたら王子宮の使用人たちは何をしていたかしら」
「確か朝の支度をしながら今日の予定を簡単に……」
「そう言うこと。私も支度をするからあなたは……」
「手伝おう!」
「私、一応未婚の令嬢なのだけど!?」
「だからこそ支度には使用人が必要だろう!パンツを脱ぎ穿かせするところから始まるんだろう!?任せてくれ!」
「任せるかぁっ!パンツってアンタ……バカ!」
パシンと軽快な音が響き、さすがの侍女たちもヒューゴに怪訝な視線を向ける。
「そこは侍女たちがいるから!」
「だが……俺は執事。犬だからこその忠犬さを見せなければ!」
「いいわよそれは!アンタは忠犬って言うか変態犬よ!?少しはデリカシーってものを持ちなさい!お父さまに言い付けたら減点対象よ!?」
「きゃうんっ!!」
ハアハア……ようやっと大人しくなったわね。でもこれも懐いてきたってことなのかしら?
「だからあなたは家令の元に行って屋敷の仕事を手伝ってきて。朝はみんな忙しいんだから」
「うう……分かった」
その寂しい背中に心が痛む……がデリカシーの大切さを教えるのも大事な躾よ。
「さあアリスお嬢さま」
「お着替えを」
「ええ、お願いね」
「お任せを」
「しかしアリスお嬢さまは下着は自分で派ですのに」
「……そうね」
さすがに前世日本人としては自分で穿きたいわ。そして続きは侍女たちが担当してくれる。
「ですが驚きましたわ」
「あれ、本当に第2王子殿下ですの……?」
「残念ながら本当よ」
『まあ……っ』
「でも忖度とかは必要ないわよ」
「そうですの?」
「ええ。むしろ使用人としてしっかり働いているところを見せないと私との婚約を復活させられないのよ」
「昨晩の婚約破棄騒動、我々の耳にも入りましたわ。アリスお嬢さまになんてことを」
「ですが殿下の今朝の様子。今まで屋敷に来られた時とまるで違い、調子が狂ってしまいますわ」
それでも彼女たちを制していたのは公爵家の使用人と言う矜持や私の面子よね。
「あなたたちは……彼が私に婚約破棄したこと、どう思ってる?」
「……はっきり言って許しがたい裏切りですわ」
「そうよね……」
「アリスお嬢さまは何故お許しになられたのですか?」
「本当の彼と出会えたからかしら」
「本当の……」
「そうね。氷の王子の顔ではない本来の彼の顔よ。それはかつて婚約者だった頃よりもずっと……好きだと思ったのよ」
「アリスお嬢さま……」
「もう一度殿下と婚約される気があると?」
「もちろんよ。今の彼とならって思うわ。だからヒューゴがしっかりと執事の仕事をこなして、今度こそお父さまに認められるように……って応援してるの」
『……』
侍女たちは互いに顔を見合わせる。
「……参りましたわ」
クスクスと侍女が笑う。
「昨晩旦那さまから我々使用人に自ら申し送りがございましたの」
「え、いつの間に!?」
噂は出回るもの。しかし本来は家令が必要な情報を得、必要な情報を申し伝えてくれるものだ。当主自らだなんて。
「旦那さまからは陛下の許可を取っているから、お嬢さまを婚約破棄した怨み辛みで徹底的に虐げよと」
使用人たちになんてことを命じてるのよ。
「家令からは公爵家の使用人として相応しい立ち振舞いをと指示がありましたので静観と相成りましたが」
あ……これ、お父さまが覇王のごとく言っておいて家令に怒られたパターンね。
「しかし内心はお嬢さまのご心痛を鑑みどうしてやろうかと」
「……」
ま、普通はそう言う思考に至るわよね。
「ですがまずはお嬢さまの気持ちを確かめてからですわ」
「だからこそ、今のお気持ちを聞き私たちも取るべき行動を決めましたわ」
「それは……」
『応援いたしますわ!!』
「へぁっ!?」
ワンチャン反対されたり反発されたりと言う可能性もあったのだが。
「当然ではありませんか。お嬢さまがそんなに嬉しそうに殿下のことを話すのですから」
そんなに……嬉しそうだった?
「それに今朝殿下がお嬢さまの寝室に来られ、朝の準備をしてた私たちに何と仰ったか」
彼女たちの様子から見るに、横柄な態度とかではないだろう。いや、今のヒューゴにはできないはずだわ。
「お嬢さまの好きな紅茶を教えて欲しい……ですわ」
やっぱりあの紅茶は……!ひとまずベッド脇に移動させたティーセットを今一度確かめる。やっぱり広がるのはストロベリーバニラのかおりだ。
「王子殿下なのにティーバッグで入れようとされて……」
あはは……こちらだと貴族の令嬢に出すなら茶葉の方だもの。王子にもそうだったはずなんだけどなあ。
「けれどアリスお嬢さまのためにと言う熱意は感じました。なので入れ方くらいは教授いたしましたら、王子殿下だと言うのに真剣にお茶を入れられて、我々使用人にお礼まで仰って」
ヒューゴったら。
「ですからアリスお嬢さまが再び婚約をされたいと言うのなら……」
「今の王子殿下となら応援するのは当然ですわ」
「……ありがとう、2人とも」
応援してくれるひとがいるのも心強いわ。
「ちょっと飲んでみようかしら」
ティーポッドはまだ温かい。
「ではおつぎいたします」
「ありがとう」
口に含んだ紅茶は甘酸っぱい風味を有していて、まるで今の私の感情を表しているみたいだった。
「さて、朝食に向かいましょうか」
「はい、アリスお嬢さま」
朝食の美味しそうな匂いと共に聞き慣れた声が聞こえてくる。
「たとえアリスお嬢さまの元婚約者であろうと、殿下は我が公爵家の執事服を身に付けているのです」
初老の家令ジェームスは落ち着き払った口調だがもしかしてだがヒューゴに苦言を!?それもあり得なくもない。家令も私を孫娘のように可愛がってくれたのだ。
「お願いです、ジェームスさん。今の俺はお嬢さまの犬。王子だなんて関係ありません!犬に相応しい処遇を望みます」
……違う、ヒューゴが斜め上を行っていた。
「ですが、殿下」
「いいえヒューゴです、ジェームスさん。犬の名前を呼ぶように蔑んだ目で俺を呼ぶべきだ!」
「……ではヒューゴさん」
「ヒューゴでいいのに。むしろペスでもいい。父上から授かった今の俺の名です」
「私は愛犬家なんですよ」
「……ジェームス、さんっ」
「ですから犬に愛情を持って接するのは当然のことですよ」
「ああ……ジェームスさん……俺は、俺はそんなことを言われたのは初めてだ!」
まああなたが犬になることも初めてのことよね。
「俺……ジェームスさんの言うこと聞いて、立派な執事になる!」
「その意気です、ヒューゴさん。ではお嬢さまの給仕のお手伝いを」
「了解であります!」
はあ……何とかまとまったか。
「おはようございます、お父さま」
「ああ、おはよう。アリス。アリスは日に日にフェリスに似てきたな」
「お母さまに……嬉しいです」
今はもう亡きお母さま。いつかは私もお母さまのようなすてきな貴族夫人にと願っていたからその言葉は純粋に嬉しいものだった。
「さて、今日の朝食はお前の好きなものを用意してもらった。存分に食べなさい」
「私の好きなもの……」
そうね。ストロベリーとバニラ紅茶に好物の焼き立てのクロワッサン、エッグベーコンにフルーツサラダ。どれもオーソドックスだけど好きなメニューだわ。
昨日の婚約破棄があって気を遣ってくれたのかしら。
「……」
いや、違うわね。普通に考えてストロベリーバニラの紅茶が被っている。
公爵家の使用人たちは一流よ。朝ヒューゴが私のためにこの紅茶を入れたことくらい把握しているはず。
――――だとしたらこれはお父さまが無理矢理通して用意させた!?
「……お父さま」
「どうした、アリス?」
しれっと微笑むお父さま。まさか朝一で私の好物を用意したヒューゴに対抗しようとしている……!?
「ふ……っ」
そしてお父さまは私の背後に向けて愉悦に浸る。
「アリスお嬢さまの好物を教えてくださるなんて……お義父さんっ」
そしてこの挑発にどうして目を輝かせてるのよ。
「誰が『お義父さん』だ!貴様にそう呼ばれる筋合いはないわぁっ!」
ひぃっ!?婿殿VS舅の争いが再び白熱し出したぁっ!
「旦那さま」
ジェームスの声にお父さまが冷静さを取り戻す。
「とにかく……今の貴様は犬だ。それを努努忘れること……」
「お父さま、私付きの執事ですわ」
「……」
「好きにしていいと仰ったのはお父さまでしょう?」
「それは……そうだが」
「なら私が執事にするのも勝手ですわ」
「ぐぅっ」
悔しげなお父さまである。
「あなたもお父さまにアピールするチャンスなんだからそろそろデザートを……」
「はい、アリスお嬢さま!」
「……何を、しているの?」
何故か銀フォークを指の間にずらっとセッティングしたヒューゴが目に入る。
「執事と言えばやはりこれでしょう」
「……聞いたことないわよ」
「けれど執事とフォークと言えばこれがデフォルトのポージングのはずでは?」
「どこのバトル漫画よ。実際の貴族邸でそんなことしている執事がいたら怒られるわよ」
「え……っ」
どんだけ漫画やアニメ脳に浸食されているよ。お父さまなんてこめかみに青筋が浮かんでるわよ!?
「いい?仮に王宮でフォークを8本も指の間に挟んでいる執事が王族に近付いたらどうする?」
「俺の執事、漫画みたいでかっけぇ」
このひと、こんなアホだったかしら。やはり前世の記憶と共に漫画やアニメに浸食されすぎたかしら。向こうで静かなる怒りを発動するお父さまを制しているジェームスの気持ちくらい考えなさいよ~~!
「執事長、分かる?」
向こうにいたジェームスの孫を呼ぶ。
「……王族に刃物を向けた罪で捕まって牢の中に入れられると思いますが」
「……そうかも」
寝返りはっやっ!!やはり中身の根底にあるのは頭脳明晰氷の王子なんだわ。
「ほら、だから王子宮のことを思い出しながらデザートをちょうだい」
「……お待たせいたしました、アリスお嬢さま」
改めてデザートとフォークを用意する所作はきっちりしているんだから。
「ん……美味しい」
それからお父さまは……まあ合格とばかりに落ち着いたようだ。
「だが……」
うん?
「私にもデザートを出せ」
「その、旦那さまは甘いものがお好きではないので用意しておりませんが」
「……ジェームス」
思えばそうよね?お父さまがデザートを欲しがるだなんて。
「いいえ、用意しております」
『えっ!?』
一同驚愕する。
「朝食のメニューを確認している時に料理長にお願いしておいたのです」
「な……何故だ、貴様」
「だって叔父上、昔から王宮でも料理長のデザートをこっそり執務室で食べているじゃないですか」
え……?王宮の会食などでもお父さまがデザートを食べていたことなど見たことがないのだが。
お父さまを見れば俯いてふるふるしている。まさかお父さま、長年スイーツ好きを隠していたの!?もしかしてこれはありがちな展開かしら。スイーツ好きがバレると恥ずかしいと言う男子の心理。
「あの、私はお父さまと同じものを食べられて嬉しいですわ」
「あ……アリス、退かないのか」
「もちろんです」
「……フェリスもそう言ってくれた」
「お母さまが……?」
「2人でデートに行った時にだけ。私だけ食べないと言うのも妙な話だろう」
むしろ周囲はお母さまに合わせているって思うから。
「なら次からは一緒に食べましょう。この屋敷には笑う人間なんて誰もいませんよ」
「……確かにな。だがなかなか勇気が出なかった」
「お父さま」
「だから……これは貸しだ」
執事長が運んできたデザートを前にお父さまがヒューゴを見る。
「ありがたきお言葉です、叔父上」
全くヒューゴったら。ちょっとひやひやはしたけど、肝心なところでいいところを見せてくれるんだから。
やっぱり……見えないところではたくさんフォローしてくれていたのよね。今はそれを知ることごできる。それが何よりも嬉しいのだ。




