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「オイオイ……話がしたいと言う割に、自分の事ばっかじゃん、オッサン」
半ば苦笑交じりで落書き犯は、啓司の胸中へ迸る言葉を堰きとめた。
「じゃ、今度は君が話す番かな?」
若者は、ウ~ンと頭を捻って見せ、
「あのさぁ、言葉で話すのが苦手だから絵を描いてんだぜ、俺」
「ま、そう言わず」
啓司は少し若者との距離を縮めた。今は捕まえると言うより、長く引き籠った失意と、どう戦っているか、知りたい。
「あのさ、やりたい事があっても、世の中が受け入れなかったらアウトじゃん。で、捨てられなきゃ、ど~するよ? 野良犬なら一匹で闇夜に吠えるよな」
「君の落書きは闇夜の遠吠え?」
又、マフラー帽の奥がニヤリと笑う。
肯定、なのだろう。
何とも攻撃的で、憎たらしくて、寂しそうな微笑み。
寂れたアーケードの景色にも似て、錯乱する光の中、掴み所の見えない心の影。
「……ウン、想いや願いがどうしても届かない、そういう時はあると僕も思う」
そう言ってみたものの、啓司にはもう、自分が何を言い出すつもりか判らなくなっていた。
脳ミソのオートマチック機能は、とうにフリーズしてしまっている。
「人の群れからはぐれた僕が、既に前の僕ではありえないように……
絵と言う夢を失い、たとえ君が君で無くなってしまったとしても、尚、前へ進むべき時はある」
「オッサン、何が言いたいの?」
啓司は、意識して思いっきり厳格そうな表情を作った。
「まず何より、な。君がシャッターに絵を描くのは、商店街に迷惑な行為であり、どんな理由でも許されないという事」
「へっ、たりめ~じゃん! つまんねぇ」
「でも、それでも……どうしても踏み出せない一歩を踏み出す為に不可欠と言うなら、僕には理解できる」
又、啓司は口ごもった。
「君の落書きがさ、諦めきれない夢と決別する為の儀式だとしたら、わかるんだ。僕には痛いくらい……」
遂に言葉が途切れてしまう。
若者が、その顔を覗き込み、唖然として何歩か後ずさる。
「お、オッサン、何泣いてんだヨ!?」
「長い旅をして、何時の日かもう一度、夢に巡り合ってくれたら良い。僕が手遅れだから余計、そう思う」
「はぁ!?」
「思わずにいられない」
後は言葉にならなかった。
みっともねぇなぁ。
涙と鼻水が止まらない。
口に出せない言葉の代わり、胸の奥で一度途切れた想いの奔流が、又、止め処なく溢れ始める。
泣いたのは何年振りだろう?
両の掌で顔を覆い、声を潜めて慟哭し、そして……
彼が己を見失っている間、一体、どれ位の時が流れたのか?
ふと目を開け、涙を拭うと、若者はそこにはいない。
だが、代りに目を引くものがある。
とっくに潰れた布団屋の閉め切られたシャッター一面を覆い、真赤なサルビアの花が咲き誇っていた。
絵だ。
ごく僅かな時の狭間を縫い、スプレーインクを操って描いたとは思えない、見事なデッサンの風景画だ。
「オッサン、あっさり手遅れなんて言うんじゃね~よ!」
何時の間に、啓司の背後へ回り込んでいたのだろう?
肩越しに声が聞こえて、振返るとマフラー帽を取った孝が、クシャクシャの笑顔を見せていた。
……ああ、あの時と同じ顔だ。
「オイ、ソレ、許されない迷惑って言っただろ! 早く自分で消さないか」
涙を呑みこんで声を張り上げると、孝は背中を向けて歩きだした。
何か吹っ切れたのだろう。
追いかけっこしていた先程より、余程、力強い足取りで、
「後で消しに来る。でも、それまでアンタ、見ててくンない? 一応、これまでの俺の最高傑作だからさ」
「このサルビアが?」
「もし誰かが、ずっと覚えていてくれたら、きっと俺、それだけで自分を信じて行けそうだ」
「真昼間、部屋から出て来れるかい?」
言葉の代わりに示した返事は、曖昧に両手を広げる仕草だ。
だが、その力強い足取りは何時しか軽いスキップになり、孝はアーケードを抜けた月明かりの先へ走り始めた。
一人残され、しばらくシャッター通りの真っ赤なサルビアを眺めた末、啓司はスマホのカメラで撮影し始める。
一枚……二枚……
さまざまなアングルで捉え、消されてしまう前に、知られざる芸術家の魂を何かの形で残したかった。
世代の違う友達から、思いがけず貰ったエールのようにも思えていたから……
「この画像、紘一に送ってやったら、どう思うかな?」
そう言うと啓司もクシャクシャの笑顔を作って、ゆっくりと月明かりが射す方角へ歩き始めた。
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
この作品と前作は、読み返してみると、創作から離れていた自分自身のリハビリに近い要素を含み、その分、良くも悪くも「生」の声が出た気がします。
エンタ系の作品へ改めて取り組むべきだけれど、こんな方向性の作品も時々は書いていきたいと思う様になりました。
良かったら、又、ご覧下さい。