第六話:動き
私が本邸に戻ってから二ヶ月が経過した。
この二ヶ月間の間、私の待遇は世間的に見れば決して悪くなかっただろう。だが、私にとってこの二ヶ月間は窮屈で仕方がなかった。
朝起きればメイドが私の部屋を訪れ、着替えを手伝ってくれる。手伝いといっても私はただその場で立ち尽くしているだけで、メイドがくるくると動き回り驚くべき早さで私の服を着せ替える。貴族令嬢は自分で服を着替えたりしない。続いて朝食の時間となり、テーブルについて私にとっては多すぎる朝食をとることになる。ここではマナーの教師がつき、ナイフの握り方一つに至るまで厳しく教え込まれた。朝食後は昼食まで部屋で貴族令嬢として覚えておくべき教養を身につける。朝と同じように昼食を摂ったあとはダンスや歌唱、楽器演奏のレッスン。慣れない所作にクタクタになっても夕食で手を抜くことは許されず、徹底的にマナーを叩き込まれる。夕食後にようやく解放されるかと思いきや、メイドに連れられて入浴をし、そのまま疲労回復や美容効果があるというマッサージを受ける。疲れ切った身体は確かに楽になるが、私の心はより一層疲弊していくのを感じた。ここまで来ることでようやく解放されるも、メイドが部屋を出る際に灯りを落として鍵をかけていくので自由はない。後には眠るためだけの時間が残されるばかりであった。
教養の一環として、教師からは文字の書き方も学んだ。一瞬手紙を書いてレオと連絡が取れないだろうかと考えたが、彼がどこかの貴族だということ以外、私は彼について何も知らない。彼の名前が本名かすら確かではないのだ。当然不可能だという結論に至り、私は唇を噛むことしかできなかった。
森での生活と比べ毎日多くの人々と接するが、教師やメイドは私が話しかけても必要最低限の返事しかしない。やがて私も彼らに話しかけることはなくなった。黙々と与えられた責務を果たすだけの日々。貴族令嬢とはこんなにも窮屈で孤独な日々に耐えなければならないのだろうか。
貴族令嬢といえば、屋敷内では時折腹違いの妹を見かけることがあった。私が幼い頃にはまだ赤子だった彼女は、十歳かそこらであるはずなのに貴族然とした振る舞いを完璧に身につけていた。勿論彼女は私になど目もくれず、私も彼女に話しかけることはなかった。ただ私は、年齢に似つかわしくない彼女の白い肌を見てなんとなく哀しみを感じた。私自身も遊びたい盛りの頃には生きていくことで精一杯だったが、彼女もまた立場が違うだけで貴族としての人生に精一杯なのだろう。一度だけ歌唱のレッスンを同時に受けたことがあるが、細い彼女の声は澄んでいるのにどこかもの悲しさを覚えた。
こうした生活の中での唯一の幸いは、見合いが遅々として進まなかったことであろう。十年近く森の別荘地にて療養していたことになっている私はよほど病弱だと思われているらしく、そのような娘を娶りたがる貴族はなかなか現れなかった。それゆえに二ヶ月間変わらぬ日々を過ごし続ける羽目になっているのだが、いきなり湧いてでてきた見合い話がなかなか進展せず、私は正直ホッとしていた。
そのような日常を送っていたある日、教養として国の歴史を学んでいた私のもとに義母が訪れてきた。
「王宮からの御触れです。貴女には舞踏会に出てもらうことになりました。」
「舞踏会?」
寝耳に水の話に思わず鸚鵡返しをしてしまう。義母は苛立った様子で返事をした。
「舞踏会と言っても皆が踊るわけではありません。王子の婚約者候補として貴族令嬢が一人ずつ謁見をし、見そめられた者のみが王子と踊るのです。年頃の貴族令嬢は全て参加するようにとのことでしたので貴女も参加しなければなりませんが、貴女が踊ることは間違ってもないと考えて良いでしょう。」
踊ることはないという失礼な意見に僅かに安心する。確かに義母の言う通り王子様に見そめられるなんてことは起こらないだろう。なにしろこっちは見合いを断られ続けている病弱令嬢なわけだし。
「舞踏会は今夜開催されるとのことです。今やっている勉強はひとまず終了しなさい。これから舞踏会に向けた社交の勉強をしてもらいます。時間がありませんが励むように。失礼な態度を取ってこの家に迷惑をかけることは許しませんからね。」
今夜ですって!?
寝耳に水を通り越して熱湯をぶちまけられたような気分だった。
呆気にとられる私を置いて義母が立ち去る。義母が見えなくなった途端、教師やメイドが慌ただしく動き始めた。私の前に広げられていた歴史の資料は社交用の資料に改められ、主要貴族の名前や関係を改めて叩き込まれた。正直付け焼き刃だとは思うが、何もしないよりは何かしている方が私も落ち着いていられた。昼食は立食形式の食事を学ぶ場になり、食事を終えたら挨拶の仕方に始まって歩き方や姿勢、美しい所作についての勉強が始まる。それにダンスの練習も。義母はああ言っていたが、万が一ということも考えられる。私の腕前を理解して教育の時間を設けてくれた教師に、今回ばかりは感謝した。
身体を動かしての練習を終えたら風呂場へと案内され、徹底的に全身を磨き上げられた。入浴後は慌ただしくドレスを着付けられ、全身を飾り立てられる。ドレスは私の母がかつて着ていたもので、いささか古いデザインではないかと思ったが口を出せる雰囲気ではなかった。くすんだ金髪は結い上げられ、頭上にまとめられる。肌には白粉を叩かれ、唇には紅をさされた。そうしてなんとか見た目だけは貴族令嬢になったが、私はまだ慣れていない踵の高い靴が気になって仕方がなかった。万が一、億が一にも無いと思うが…ダンスに誘われたとして、踊っている最中にでも脱げたりしたらどうしよう。
そんな風に上の空になりながら本邸の正面玄関へと向かっている最中、義妹とすれ違う。いつも済ました顔でこちらに見向きもしない彼女にしては珍しく、鋭い視線を投げつけられる。義妹の態度には多少驚いたが、今の私にはそれに構っている余裕がなかった。頭の中では貴族の名前と関係、社交マナーにダンスと靴がぐるぐると回っていた。
夕刻になり、正面玄関にはすでに王宮からの馬車が待ち構えていた。見たことがないような豪奢な馬車に怯えそうになる心を叱咤し、出来る限り堂々と乗り込む。何しろ義母が正面玄関で淑女らしく微笑みながら見送りをしているのだ。付け焼き刃で叩き込まれた優雅な動きを心掛けて動くことにする。
馬車が動き出し、本邸が遠ざかってゆく。王宮からの駿馬は素晴らしい速度で王宮へと駆ける。私はというと、本邸に戻ってくる時に乗った馬車よりも圧倒的に乗り心地が良く広い馬車に揺られながら、王宮とはどんな所なんだろうと思いを馳せていた。
やがて馬車は王都へに辿り着く。窓から見える景色だけを取っても、私が慣れ親しんだ街とは規模が違う。馬車が走る道沿いには見るからに質のいい建材で建てられた家屋が建ち並び、花壇には色とりどりの花が咲いている。時折通りがかる広場には美しい噴水が設えられ、ごく近くを通りがかった際には、丸々と太った鯉が人々から餌を貰う姿が窓から見えた。整い、満ち足りた街並みに呆気に取られているうちに馬車はどんどん進み、日が沈み切った頃、頃王宮へと辿り着いた。