第四話:変化
新緑の季節は過ぎ去り、夏がやってきた。この森は木の葉が日差しを遮るのでそう暑くはないが、それでも外で動けば汗が滲む。1日の終わりには汗を流すために水浴びが欠かせない。高い気温のため食べ物も腐りやすく、冬と同じく身体の調子を崩さないように気をつけなければならない季節だった。
あの雨の日以来、レオは度々私の元を訪れるようになっていた。レオが来たからといって私の仕事が無くなるわけではないので、私は縫い物をしながら話し相手をする程度だが、それでも彼は飽きずにやってきた。
最初こそもてなしとして紅茶を淹れようとしたが、私の懐事情を察してかレオはかぶりを振ってそれを断った。今ではハーブティーを出している。ハーブは森中で集められるので、それを使ってハーブティーを作ることは私のささやかな趣味だ。これならば負担にならないと言ってレオに押し付けたが、どうやら彼の口にも合ったようで特に文句もなくいつも飲んでくれている。
勿論レオが訪れるのは多くても週に一度ほどで、彼がいない日の方が圧倒的に多い。けれど客人が訪れるということは、私の生活に確かな変化をもたらしていたし、私はその変化を好ましく感じていた。管理人老夫婦が亡くなって以来、会話といえば街の人々との必要最低限の会話や挨拶だけで、こうして誰かとたわいもない会話をすることは久しぶりだった。初めて会った時、レオには寂しくないと言ったし本当にそう思っていたが、本当は寂しかったのかもしれない。なんとなく子供っぽくて恥ずかしいからレオには言わないけど。
最近の私達は都合が良い日をあらかじめ伝え合うことが多かった。とはいっても私の方はせいぜい街に行くか本邸から継母の使いがやってくるかしか予定はない。私が都合のつかない日を教えておけば、直近で来れそうな日をレオが伝えてくる。あとはその日になれば彼がやってくる。彼も貴族ゆえか忙しく暇が見つからない時もあるが、そうした時には真っ白な伝書鳩を使って私に日程を伝えてきた。そのような場合私は文字を読めるが書けないので、都合がつけば拾い集めた木の実を伝書鳩に持たせて返している。都合が悪ければ何も持たせない。この方法はレオが考案してくれたもので、初めてこのやり取りで連絡をした時私は感動したものだった。餌をねだるだけの森に棲む鳩と違って、伝書鳩はなんと賢いのだろう。勿論この方法を思いつくレオも。
そうやって連絡を取り合い、今日はレオが訪れる予定の日だった。彼をもてなすために、私はハーブティーの準備をしていた。近頃は暑いので涼しさを感じられるようにミントを使おう。洗ったミント少し揉み、コップに冷えた水と共に注げば、冷たいミント水になる。暑い時期の私の定番だ。ミントを摘んできてよく洗うと、爽やかな香りが小屋に広がった。あとは彼が来た時に冷たい井戸水を汲んでくればいい。なるべく冷えていた方が美味しいから。
ミント水の準備を終え、手が空いた私が縫い物の続きをしていると足音が近づいてきた。この足音はおそらくレオだろう、そう思って扉を開ければ思った通りにレオがいた。
「こんにちは、アーシェ。今日は君に贈り物があってね。どうか受け取って欲しい。」
少しおどけた様子でそう言った彼は、背後に隠していた手を恭しく私に差し出す。その手には一輪の花が優しく握られていた。花の様子を見ると、糸のように細くやや桃色がかった花弁が、黄色い中心をぐるりと取り囲んでいた。ハルジオンだ。可憐な贈り物を見て私は思わず顔が綻ぶのを感じた。
「ありがとう、きれいね。私、花は好きなの。部屋に飾らせてもらうわ。」
「喜んでもらえて嬉しいよ。」
レオはそう言って整った笑顔を浮かべる。若葉色の目はとても優しくて、私はなんだか気恥ずかしくなって会話を続けることにした。
「けれど必要以上に森の花をつんではだめよ。花だって立派に生きているのだから。」
「もちろん。これはアーシェに渡したくて、一輪だけ分けてもらったんだ。」
「良い心がけね。この花の葉はいざとなったら食べられるんだから、あんまりたくさんつまれたら私が困るわ。」
「はははっ、食用だから大切にしろって?立派に生きている花のことはいいのかい?」
「花の分も私が一生懸命生きるからいいのよ。さ、入って。外は暑いでしょう。」
軽口を言い合いながら私は彼を家に招き入れる。レオに言った通り花は好きだが、うちに洒落た花瓶なんてものはない。ハルジオンはフチの欠けたコップに水を張ってその中に入れ、窓際に飾られることになった。開いた窓から風を受けた花が揺れる中、その光景に満足した私はミント水のために古井戸へ水を汲みに行こうとする。するとレオが声をかけてきた。
「水を汲みに行くのかい、アーシェ?」
「ええ、今日はミント水を出そうと思って。井戸の水は地下水だからよく冷えているのよ。」
「なら僕も一緒に行こう。水を汲んだバケツは重いだろう。」
「外は暑いから無理しなくても良いわよ。」
「無理なんてしてないさ、ただ待っているより君と話せた方が良いしね。さあ、行こう。」
そう言って彼は私の手からバケツを奪い歩き始める。まだ水は入っていないし重たくもないけれど、その自然な振る舞いに言葉を発する機会を失った私はありがたく彼の善意に甘えることにした。
2人で井戸まで歩く間にレオが話し始める。
「アーシェは花を喜んでくれると思ったんだ。」
「ええ、とても嬉しかったです。ありがとうございます。」
「初めはたくさん摘んで驚かせようと思ったんだけどね。そうすると君は喜んでくれない気がして。」
「先ほども言いました通り、花だって生きていますから…人の身勝手な理由で不必要に摘んでは気の毒です。」
「君のその考え方、好ましく思うよ。素敵な生き方だ。」
家の外であるために私は敬語であったが、会話は尽きない。そんな話をしていたらあっという間に古井戸に到着した。バケツを運ぶばかりか、レオは水汲みまで手伝ってくれた。もっとも彼は井戸水の汲み方を知らなかったようで、私が説明すると珍しそうにして熱心に聞いていた。どこかの貴族である彼がそんなことを知らなくても問題ないだろうが、私も彼に何かを与えられているような気がして悪くない気分だった。
その後も2人で小屋に戻り、ミント水を飲みながらいつものように過ごした。時間はあっという間に経過して、彼が帰る時間になる。
「今日も楽しかったよ、アーシェ。」
「私も楽しかったわ。次の予定が分からないのが残念ね。」
「近頃は忙しくてね。また鳩を飛ばすよ。」
「ええ、待ってるわ。それじゃあ気をつけて。」
いつものように別れを告げたが、レオはドアノブに手をかけたまま扉の前から動かなかった。どうかしたのかと声をかけようとすると、彼は私に向き直る。その目は少し迷った様子を見せていたが、真剣な口ぶりで私に話しかけてきた。
「アーシェ。次に来た時には、話がしたい。大事な話だ。…聞いてくれるだろうか。」
彼がそんな風に迷いながら発言することは今までになかったので、私は驚いた。
「大事な話って…私が聞いても良い話なの?」
「君にしか話せないことなんだ。頼む。」
彼がこんなふうに真剣な顔で私に何かをお願いしてくるなんて珍しかった。必死な様子で私に口調を改めるよう頼んできた時でさえ、もう少し余裕があったように思う。それほど大事な要件なのだろう。もしかしたら次で会うのは最後になるのかもしれない。そう思うと少しばかり胸が痛んだが、彼の真剣な願いを断ることはできなかった。
「…分かったわ。次に来た時ね、こっちも覚悟しておくわ。」
「ありがとう。うん、心の準備をしておいてくれたら助かるよ。…ではそれまで、元気で。」
彼はホッとしたような、どこか苦しそうな顔をしながらそう返事をし、燃えるような赤い髪を揺らしながら今度こそ帰って行った。私はそれをぼんやり見送りながら、なんとなく苦しい気持ちを抱えていた。どうしてこんなに苦しいのだろうと考えた後、自分の中のある感情に気がついて愕然とする。
期待してはいけない、彼は貴族なのだから。
どんなに親しみを感じていても、この関係にはいつか終わりが来るのだから。
抱えてはいけない自分の気持ちに気付いた私は、その場で立ち尽くした。しばらくそう過ごした後、火照る頬と滲みそうになる涙を堪えながら扉を閉じる。とにかく仕事をして落ち着こう。そう思い作業机に向かおうとした私だったが、足音を聞いて動きを止めた。レオが戻ってきたのだろうか。いや、違う。この音は。
そう思っていたらノックの音が響いた。
「アーシェ様、本邸からの使いです。直ちに本邸に戻られるようにとのことです。」
扉を開こうとしていた手が思わず止まった。
風がやみ、窓際のハルジオンは音もなく佇んでいた。