第十五話:喧嘩
本邸の屋敷の裏には、正面庭園に比べればささやかな裏庭と小さな林が広がっていた。規則だって立ち並ぶ生垣が低い花壇を取り囲んでおり、裏庭の見通しは良い。義妹が裏庭にいないことは一目してすぐにわかる。
人目につかぬよう屈んで裏庭の生垣の影を駆け抜ければ、すぐに林の真ん前に出た。かつて私が暮らしていた頃の思い出の中では明るくよく手入れされていた林だったが、手入れの問題か、あるいは時間帯の問題なのか薄暗い印象の林が広がっていた。
こんな林に、はたして本当に義妹が飛び込むだろうか。林を前に一瞬だけ自分の行動を不安に感じた。今からでも屋敷に戻るべきか。けれども、今戻ったら今度はそれこそ、窓もない部屋に厳重に閉じ込められるかもしれない。捜索のチャンスは今しかない。意を決して林の中へ分け入った。
おそらく最低限の管理しかされていないのだろう林は、地面を藪に覆われていて歩きづらい。ましてや人を探して道なき道を歩んでいるに近い今の状況では、下手をしたら私が迷子になりそうだった。
そんな状況の中で、私は意外にも頭が冷えていくのを感じた。私が長らく暮らしていた森の中とは微妙に異なる、林の中の景色。背の高い木々や背の低い草木によって生み出される、植物のにおい。そういった馴染み深い空気が、まるで顔見知りの家にお邪魔するような気持ちにさせていた。
林の中で立ち止まり、どこか落ち着いた気持ちで考えを巡らせる。
どのような理由によって指輪を盗んだのかは分からないが、いくら衝動的な行動だったとしても暗い林に逃げ込むのは怖いだろう。箱入り娘である義妹が隠れているとしたら、本邸の屋敷が視界に入る位置なのではないか。そう思い、視界の端に本邸を捉えつつ、林の中を駆ける。
林を駆け回っている最中、ふと、視界の端に林の中にしては鮮やかな色合いを見た気がした。咄嗟に立ち止まり、慎重にゆっくりと歩み寄る。はたしてそれは、大きな木の根元で膝を抱えて蹲る義妹だった。義妹もまた足音で察知したのか、顔をあげてこちらを見た。数歩の距離を空けて彼女と向き合う。逃げ出すことを警戒していたが、義妹はどこか諦めの滲んだ顔で皮肉げに笑って話し始めた。
「…よりによって、貴女自身が来るのね。」
「…?」
義妹が何を言いたいのか測りかねた私がゆっくりと距離を詰める。立ち上がる様子のない彼女と視線を合わせるため、私もかがみ込んで尋ねた。
「聞きたいことはたくさんあるけど、一番大事なことを聞くわ。王家の指輪を持ってる?」
私の問いかけに義妹が答えることはなかった。しかし、否定もせず、こんなところに隠れ潜んでいる時点で答えは明白だと感じる。指輪の在り方分かったことで、幾分気が楽になった私は、なるだけ優しい声を意識して義妹に語りかけた。
「指輪を返して。」
「…いや。」
かぶりを振って拒否する義妹を見て、私は静かにため息をついた。本邸中を騒がせるような行動を取ったのだ。はなっから素直に返してくれると思っていない。それでも今ここで譲ることだけはできない。
「返して。私に必要なこと、分かっているでしょう。」
「…貴女は卑怯だわ。」
言い聞かせるようにもう一度声をかけると、予想だにしない返事が飛んできた。
「そうよ、卑怯。突然現れたと思えば、突然王家に輿入れするなんて。」
そこまで言い放った義妹の目には、涙が浮かんでいた。堪えようとしたようだったが、涙はそのままポロポロと彼女の頬を伝って流れていった。
「わ、私は、これまでずっと、努力してきたわ。それなのに、まだ輿入れには早すぎると、機会すら与えられず…。それで、何の努力もせずに暮らしていた、貴女が、これからは王子妃で、敬意を払えなんて!これまで貴族令嬢としてのつとめを果たしてもいない、貴女に!こんなのってないわ!」
吐き出すように義妹は話し出した。彼女がこんなに感情的になっている所を見るのは初めてで、圧倒される。
「馬鹿なことをしたって思うのでしょう?そうよ、分かってるわ。こんなことして何にもならない。お母様は激怒するでしょうね。もしかしたら貴女と同じように追放されるかも。それでも、貴女がこのまま何の困難もなく王家に輿入れするなんて、認めない…!」
伝う涙を拭うこともせず、義妹は狂気じみた笑みを浮かべた。そのまま、ポケットから何かを取り出して私に差し出す。指輪がその小さな手のひらの上に置かれていた。
「奪ってみなさいな…!私から、指輪を!そうよ、貴女は私の人生と引き換えに幸福を得るのよ…!私を蹴落として王家に輿入れする、そのことをよく噛み締めなさいな…!」
煽るように手のひらの中で指輪を揺する。そうしてこちらを憎々しげに睨みつけてきた。その目は、たしかに私の目と同じ勿忘草色だった。
彼女は、たしかに私と血の繋がった腹違いの妹なのだ。聡い彼女はこんなことをしでかした己にこれから待ち受ける厳しい運命を理解している。その上で、私の人生に呪いをかけようとしているのだ。ただで幸福になれると思うなという彼女の強い意志を感じた、私は――
「ふざっけんじゃないわいよ!!」
樹々の上で羽を休めていた鳥たちが、私の声に驚いて一斉に空へと飛び立った。義妹さえ、驚きのあまり毒気を抜かれた表情を浮かべていた。
「貴女はこうすることで自分自身と私の人生に復讐をしたつもりでしょうけどね!おあいにく様、先に人生を奪われたのは私の方だわ!よく思い出しなさい、私だって貴女と同じように生きていてもおかしくなかった、それを奪ったのは貴女の母でしょう!!」
自分でも驚くほどの怒りを感じていた。自分だけが被害者で、世界で一番不幸だとでも言いたげな義妹の様子に腹が立って仕方がなかった。
「周りは好き勝手、人のことを振り回して!こっちは生きるだけで必死だったのよ!冬や夏の森で、1人で暮らす苦労なんて貴女は知らないでしょう!」
爆発するような勢いでそこまでたたみかけた私は、一つ息を吸った。言いたいのはそこじゃない。いや、少しは…というか殆ど本音だった気もするけど。
「…他人の人生なんて知る由もないのは皆同じ。だからこそ自分の人生を必死に生きるしかないの。貴女の人生と引き換えですって?上等よ、私の幸福は私が掴み取るんだから!」
そう吐き捨てて義妹の手を掴み、指輪をひったくる。たしかな重みが手の内に戻ってきたことで、少し冷静さを取り戻す。一番肝心なことをまだ彼女に聞けていない。呆然とした様子の義妹と向き合い、彼女の目を見て語りかける。
「貴女、結局幸せになりたいの?なりたくないの?」
義妹は気まずそうに目を逸らす。私はといえば、逃がさない、そんな意志を込めて彼女の手を強く握った。長すぎるほどの時間をかけて彼女の言葉を待ち、ようやく小さな声が返ってくる。
「…聞くまでもないでしょう、そんなこと。わ、私だって…幸せになりたかった…。」
「何でもう終わった気でいるのよ。」
私がそう返すと、義妹は勿忘草色の濡れた目でこちらを見返してきた。
「貴女の人生はまだ、終わってないの。貴女の言うとおり、追放されたとしても、貴女の人生がそこで終わるわけじゃない。森で生きてきた私が言うのだから、違うとは言わせないわ。幸せになりたいのなら、誰かを思いやること。…忘れないで。」
一番伝えたかったことを話した私は、立ち上がって本邸の屋敷の方を見やる。
「さあ、帰るわよ。」
私には、まだ一仕事残っていた。