第十二話:ひと時
拭われたはずの頬にポロポロと新たな涙が伝っていくのを感じた。剥き出しの感情をぶつけた事が恥ずかしくて、私はどうにかなりそうだった。
私の告白を黙って聞いていたレオは、静かに私を抱きしめた。舞踏会以来の彼の温もりに最初は戸惑ったが、不思議と気持ち穏やかになっていくのを感じた。
「ありがとう、アーシェ。君の気持ちが聞けて嬉しい。」
そう言ってレオは私のくすんだ金髪の頭を撫でた。子供扱いされているようだったが、嫌ではない。くすぐったいような気持ちを抱きつつ、すっかり涙が落ち着いた私は彼の胸を押して離れた。名残惜しさを心の内でなだめつつ、彼と向きった。
「出会いも覚えていない、貴族らしくもない。当然王子の妻に相応しいとも思えない。それでも貴方が私を望んでくれるのなら…私も貴方の気持ちに応えたいわ、レオ。」
私が覚悟を決めてそう告げると、彼は一瞬驚いたような顔を浮かべた後に悪戯っぽく微笑んで返事をした。
「そんなに勇ましい態度で決意表明してくれるとはね。僕としてはもう少し君の頭を撫でていても良かったんだけど。」
「わっ、私は貴方とのことを考えて真剣にっ、」
人が真剣だというのにこの男ときたら。そう思って思わず言い返そうとした私の腰をレオはぐっと引き寄せた。驚いている間もなく眼前に彼の瞳が迫る。
「もちろん答えは決まっているよ、アーシェ。君が欲しい。」
「〜っ、」
うっとりするような微笑を浮かべて、間近でそんなことを言われるものだから私はたまったものではなかった。顔に熱が集中するのを感じる。何か言わなければと思うものの、パクパクと口を動かすことしかできなかった。まるで街で見た餌をねだる鯉みたいだな、なんてどうでもいい考えが脳をよぎった。
「ぜっ、全部あげるわよっ!!」
鯉と格闘しながら必死に出てきた言葉に、今度こそレオは驚いた顔を浮かべた。その後は、思わずと言った様子で隠すことなく大声をあげて笑い出したのであった。
――――
それからの私達は二ヶ月前と同じような穏やかなひと時
をボロ小屋で過ごした。
二ヶ月も小屋を空けていたものだからろくな食事の用意もなく、空腹をどう慰めたものかと思っていたが、用意のいいレオが食事の入ったバスケットを用意していた。中身はハムや新鮮な野菜が挟まったサンドイッチだった。食器を取り出すべきか悩んだが、彼はそのまま手掴みで食べ始めたので、私もそれに倣って手掴みで頂くことにした。
レオが入れてくれたカモミールティーは冷め始めていたので、私は新しく飲み物を入れようと例の奮発して購入した良い紅茶の缶を手に取った。そこにレオが話しかけてくる。
「アーシェ、飲み物を用意してくれるのなら紅茶じゃなくてハーブティーにしてくれるかい?」
「もちろん構わないけれど、こんな時くらい良い茶葉を使っても良いのよ。」
そこまで言って私はしまった、と思った。どこかの貴族であるならいざ知らず、王子である彼が日頃飲んでいる紅茶を思えば、私が奮発して購入した紅茶の質などたかが知れているだろう。思わず萎縮しそうになる私に、レオは優しく微笑みながら返事をした。
「どうせなら君が用意したハーブティーが飲みたいんだ。どんな紅茶よりも好きだからね。」
恋する乙女のなんと単純なことか。萎縮しそうだった心が一瞬で高揚するのを感じた。思わずニヤけてしまいそうになる顔を彼から背け、お湯を沸かし始める。勿論淹れるのはハーブティーだった。
そうして食事を終えてお腹が落ち着けば、結婚についての話し合いが始まった。話し合いといってもレオから今後の流れを聞き、私はそれに相槌を打つといったものだ。縫い物の仕事こそしていないものの、私が本邸に連れ帰られる以前と変わらないな、なんて思いながら真剣に彼の話を聞く。
もうすでに私たちは婚約している状態にあると思っていたが、それはあくまで舞踏会でのダンスや指輪の噂によって広まった噂。厳密には王宮と我が家で書状を交わしてから婚約者となるらしい。書状の作成はすでに始まっており、近日中には厳正な手続きを経て我が家に届くだろうとのことだ。我が家は実質的に義母が取り仕切っているため最初に書状を手にするのは彼女だろうが、直筆の署名を求められることを留意しなければならない。
「それとアーシェ、今も身につけてくれているが、その指輪を蝋印にして書類を封緘してほしい。古くからのしきたりでね。婚約者に前もって渡した王族の指輪、その印をもってようやく婚約の書類が成立するんだ。」
「ちょっと待ちなさい、そんなに重要な指輪だったの、これ?」
それまで素直に話を聞いていたが、思わず声をあげてしまった。急に左手に感じる重みが増した気がする。
「よくもまあ、そんなに大事な指輪を人が気を失っている間に渡してくれたわね!」
「言っただろう、けじめをつけたかったと。あれで逃げられてはたまったものではないからね、賭けに出させてもらったよ。もちろん勝算あってのことだけれどね。」
そう言っていたずらっぽく微笑むとレオはこちらにウインクした。返す言葉もなく、お手本のように美しいウインクに無性に腹が立った私は、次にハーブティーを淹れる機会があれば思い切り苦いものにしてやろうと画策するのだった。
――――
ひと通りの話が済んだ頃には日が傾いていた。来るまでにかかった時間を考え、今日中に帰宅できるだろうかと私は不安を感じる。しかしレオによれば、行きにあれほど時間をかけて森の入り口に到着したのは、彼が先にボロ小屋で私を待つために遠回りをしていたことが理由らしい。思えば二ヶ月前に急遽森から本邸に戻された時にも、今日の行きほど時間はかからなかったように思う。その時点でおかしいと思うべきだったのかと自分の鈍さを反省した。
「この森から君の邸宅までと、君の邸宅から王宮まで。馬車を使えば必要時間はそう変わらないからね。君の義母殿には今日は王宮で過ごしたと言えばいい。」
「助かるわ。近頃は婚約のおかげで機嫌がいいけど、また森で誰かと会っていたことが知られたら今度はどんな目にあうか分からないから。」
「帰りは同じ馬車で移動しよう。それを見れば君の義母殿の機嫌も保たれるだろう。」
レオの言葉に安心した私は帰り支度を始めた。戸締りを終わらせてふと窓際に目をやると、ハルジオンはすっかり枯れた状態でフチの欠けたコップにおさまっていた。ごめんなさい、と心の中で侘びながらそっと枯れた花を指で撫でる。そんな私を見てレオが声をかけてきた。
「…あの時のハルジオンだね。」
「ええ。…ごめんなさい、せっかくの贈り物だったのに。本邸に持っていくわけにもいかなくて、随分と寂しい思いをさせてしまったわ。」
「花だって生きている、か。…君にそう思って貰えるならこの花も報われるんじゃないかな。」
「…ありがとう。」
たかが花ひとつ、と笑われないことが有り難かった。花を慈しむ間がろくになかったこともそうだが、初めてレオから手渡しで貰った贈り物を無為に枯らしてしまったことにも悲しみを感じていた。枯れてしまったという事実は変わらなくても、贈り主である彼自身が私の気持ちに寄り添ってくれることで、気持ちが楽になるのを感じた。
改めて彼に感謝を伝えようと振り向いた私は、目にした光景に驚いて思わず後ずさりした。
「…その反応には少なからずショックを受けるなぁ。」
苦笑いする彼の手には、私にとっては見慣れた赤毛。そこには鬘を取った黒髪のレオがいた。
「ご、ごめんなさい。急だったものだから。」
「この鬘はお忍び用なんでね。赤毛のまま馬車に戻っては今後に支障をきたすから。」
そういって彼は自身の荷物に鬘を仕舞い込んだ。自分の片付けが終わっているのをいいことに、私は黒い頭の彼をしげしげと眺める。私の視線に気付いた彼は再び苦笑いを浮かべて向き直った。
「舞踏会以来か。やはりアーシェは赤い髪のほうがお気に入りかい?」
「見慣れているかで言えばそうだけど…黒い髪も素敵よ。」
「僕としては君に気にってもらえないなら、髪を赤く染めるのもやぶさかではないよ。」
「そんな、とんでもない!」
思えば明るい時間に黒髪の彼を見るのは初めてだ。陽光に照らされた部分の黒髪はかすかに茶色く透け、舞踏会の王子然とした印象とは異なり柔らかな印象を受ける。
「どんな髪の色であってもレオであることに変わりはないわ。生まれ持った色を大事にしてちょうだい。」
「本当に?染めなくても?」
冗談めかして彼がイタズラっぽく笑かけてくる。見慣れたその笑顔を見て、私は自分のとある気持ちに気が付き、それをそのまま口にした。
「たとえどんな髪のあなたであっても…その、きっと好きになれるわ。」
後半にはだいぶ照れが混じってしまったが、最後まで言い切った勇気を自分で褒めたい。そのおかげで、珍しく顔を赤らめて照れるレオが見られたのだから。