第十一話:告白
私は一歩踏み出して唖然とする。これはどういうことなのか。何故私は恋しかったあの森の入り口に立っているのだろうか。
「貴女様であれば目的地は分かると王子からは言付かっております。一人でいらして欲しいとのことですので、私共はこちらでお待ちしております。」
王宮からの使いはそう告げると一礼して下がった。私は慌ててここまでの礼を告げ、少し迷った後に一人森への中へと歩き出した。
この場所で目的地と言われても、あのボロ小屋しか思い浮かばない。レオはそこで待っているのだろうか。何故そんな場所で、と訝しみつつも私は久しぶりの森の空気に思わず微笑んでしまった。またこの森に来れるなど思ってもみなかった。慣れ親しんだ森の香りを感じられることを嬉しく思いながら一歩一歩進んだ。今日も今日とて踵が高い靴を履かされていたが、舞踏会での失敗を経てその高さは随分と控えめになっていた。歩き慣れた道である事も相まって、歩き続けていても足元は気にならなかった。
二ヶ月と少しの間離れていただけだったのに、森はすっかり秋の色に染まっていた。日差しを遮る木の葉は赤や黄色に色づき、心地よい日陰を生み出している。気の早い樹木が落とした木の葉をサクサクと音を立てて踏みながら森の道を進んでいく。そうしていればまるでいつものようにこの森で暮らしているだけのような気がしてくるが、左手に感じるかすかな違和感が私を現実に繋ぎ止めていた。
もうすぐ小屋が見えてくるはず。そう思っていた私の鼻をハーブの香りがくすぐった。林檎に似たこの香りは、カモミールだ。夏の始めに咲いた花を摘んで乾燥させておいたことを思い出す。はじめこそ何故こんな所でと思っていたがボロ小屋が見えてきた頃に確信した。煙突から煙が上がっている。誰かがこの中でカモミールティーを淹れているのだ。
まさか、と思いながら小屋に近付き、扉のドアノブに手をかける。戸締りをしていたはずの扉は抵抗もなく開き、中からはより濃いカモミールの香りがした。狭い小屋の中、暖炉の側に佇んだ人影がこちらを振り向いた。
その人を確かめて私は思わず凍りついた。そこにはあまりに見慣れた姿の、赤い髪をしたレオが立っていた。
「やあアーシェ、久しぶり…というほどでもないか。熱は下がったと聞いたが、大丈夫かい?…おっと。」
思わず足から力が抜け扉の前でへたり込む私に、レオが慌てた様子で駆け寄ってきた。そのまま私の額に手をあてると、熱がないことが分かったのか少し安心した表情を浮かべる。王宮で出会った時の王子然とした態度はなりを潜め、今目の前にいる彼は私が見慣れたいつものレオだった。
「なぜ今日は髪が赤いのよ。」
レオに会ったらまずは貴族令嬢らしく一礼しようと思っていた。その後指輪について問い詰めるつもりだったのに、呆気に取られた私の口から出てきたのは不躾な質問だった。彼はそれを気に留めず、私を助け起こしながら返事をした。
「アーシェに会うならそうしたいと僕が思ったからだ。さあ、こちらに。見よう見まねだが、君に倣ってハーブティーを用意させてもらったよ。」
そう言って彼は私にカップの一つを渡すと、自分はさっさと積まれた薪の上に座り込んでハーブティーを飲み始めた。王子を差し置いて椅子に座ることも出来なければ、王子に差し出されたものを拒むことも出来ない私は、立ったまま渋々とハーブティーを口にした。多少濃い目に入れられてはいたが、飲み慣れた味に思わず安心する。空気が少し落ち着いた所で私は話を切り出した。
「…何故この小屋の中にいらっしゃるのですか。戸締りはしたはずですが。」
「亡くなった管理人夫婦の縁を辿ってね。悪いが合鍵を貸してもらった。」
思わずハーブティーを吹き出しそうになる。合鍵が存在することすら私は知らなかった。一体どんな縁を辿ったらこのボロ小屋の合鍵なんて手に入れられるのか。貸す方も貸す方だ、いくら王子が相手だからと言って他人の家の合鍵を貸すなんてどうかしている。
私は内心毒付きながらハーブティーを飲み干した。私が飲み終えたカップを作業机に置くのを見ながら、彼は顔を顰めつつ話しかけてきた。
「それよりもアーシャ、ここは小屋の中だ。その改まった口調はやめてくれないか。今日は王子として接するつもりはないんだ。」
「たとえ貴方がそう思われていても、これ以上失礼な態度をとるわけにはいけません。」
「失礼なんて思っていないんだけどね。では王子としての命令だ、いつも通り話してくれ。」
王子として接するつもりはないと言ったそばから、王子としての命令を下してくる彼に苛立つ。
「なら聞かせてもらうわ。この指輪はどういうこと?私はあなたの申し出を断ったはずなのに、なぜ貴方と婚約しているという話になってるのよ。」
「僕も言っただろう、君を諦めきれないと。あんな理由で断られても納得できない。指輪はこうしてもう一度君と会うために渡しておいたんだ。」
問い詰める口調の私に淡々と答えた彼は、カップを作業机の脇に置いて立ち上がる。こちらに歩み寄ってきて、私の目を見つめた。私は少しの間だけ彼の若葉色の瞳を見返したが、気まずくなって視線を逸らしながら言葉を続ける。
「言ったはずよ、貴方なんて嫌いだわ。」
「なら何故あの時、君は涙を流していたんだ。」
「それは…」
思わず動揺して言葉が続かない私の肩に手をおき、彼は無理にも私と視線を合わせた。そうして私を見つめながら苦しそうな顔をして告げる。
「言ったはずだ、本格的に婚約者を探すまでに君に会ってけじめをつけたかったと。今日君に断られたら、僕はもう二度と君と会うつもりはない。」
改めてそう告げられ、突き刺されるような痛みを胸に感じる。二ヶ月以上も前、本邸に連れ戻される前に、この小屋で別れた時、その覚悟はしていたはずなのに。
「だからこそ聞かせてほしい。アーシェ、僕の目を見て答えてくれ。…君は、本当は、僕のことをどう思ってる?」
真剣な表情をしたレオの若葉色の瞳に吸い寄せられる。返事をしようとしても、言葉が出てこなかった。なんとか言葉を探そうとしている間に、私の目からは涙が溢れてきた。
「…ずるいわ。」
言えるはずがないじゃない、貴方の目を見て、別れを意味する言葉なんて。
「…それは、僕に都合のいい解釈をしてもいいのだろうか。」
溢れ出す涙をレオがそっと拭い、囁くように言った。
「私は、貴族の出来損ないだわ。王子の妻の責務は務まらないかもしれない。」
「…では、ただのレオとしては?」
レオが畳み掛けてくる。もう私には逃げ場がなかった。
「…嫌い、じゃない。…いいえ、その…」
なかなか出てこないその言葉をレオはじっと待っていた。彼を見て脳裏にこの小屋での記憶がよぎる。
初めて出会った時、灰まみれの姿を揶揄われたと思って冷たい態度を取った私に、素直に謝ってきたレオ。
雨の日、必死な様子で私に口調を崩して欲しいと願ったレオ。
度々小屋を訪れては、仕事をしながらの私との会話を楽しんでいたレオ。
そしてあの日。ハルジオンを受け取った私に優しく微笑んだレオ。
いつからか、この赤い髪を見ることが楽しみになっていた。若葉色の瞳を見つめ続けることが難しくなっていた。彼が最初から私を知っていたという事実を知ってもなお、気持ちは変わらない。知識として知っていても、自分には無縁だと思っていた感情が溢れ出した。
「レオ、貴方が、好き。…好きなの。」