第一話:日常
初投稿です。全文執筆済、全17話+エピローグ。二、三日に一度のペースで投稿予定です。
小鳥の囀る声が聞こえる。薄く瞼を開くと、部屋は朝の日差しを受け入れていた。起床時間だ。しばしベッドの中で伸びをした後、再び落ちそうになる瞼を擦りながら薄い布団を跳ね除けた。
季節は冬を越えて暖かさを増しているが、壁が薄くかつ穴だらけの私の小屋はびゅうびゅうと隙間風が吹きこんできて寒い。寒さに耐えながら窓を開け放つ。朝の日差しは寒さの中でもほのかな温もりを感じさせ、私は手を擦り合わせた後ほっと一息ついた。今日も忙しい日々の始まりだ。
まずは水汲み。底が見えそうな水瓶を見た私は、少しほつれたカーディガンを羽織って寝巻きのままバケツを持って外に出る。森の中をしばし歩くと、湧き水を利用した粗末な井戸が見えてくるので水を汲み、小屋に戻る。元々入っていた水はタライに移し、新しい水を水瓶の中に注ぐ。これを、水瓶がいっぱいになるまで繰り返す。
次に着替え。軋む扉に気持ち程度のボロ鍵を一応かけておく。これでも年頃の娘だしね。水の入ったタライにボロ布を放り込み、寝巻きとカーディガンを脱いだ。冷えた水をたっぷりと吸ったボロ布をかたく絞り、体を拭っていく。
「あぁ、寒い!」
本当は火を起こしてお湯を沸かしたいが、あいにく今日は薪がもう無い。後ほど薪を集めなければなんて考えつつ、清拭を終えた私は、これまたボロの着古したワンピースに着替える。これでも私が持っている服の中では外に出れる程度には綺麗な方だ。さらに自分で縫ったエプロンを上から身につける。ようやく人前に出られる姿になった…と思いたい。年季の入った姿見の前に立ち、自分の姿を改めて確認する。勿忘草色の瞳が見返す中、肩下まで伸びるくすんだ色の金髪をリボンでひとまとめにしたら支度は完了だ。
買い置きしていた硬いパンで軽く朝食を取った後、大きな布袋とタライに入れた洗濯物を手押し車に乗せて川辺へ向かう。川で洗濯をし、木々の間を通した紐を使って洗濯物を干す。その後適当に薪を拾い集めながら、洗濯物の分中身の空いた手押し車に押し込みつつ森の出口へ向かう。時間をかけてようやく道らしい道に出たら、手押し車をその場に放置し布袋だけを背負いさらに歩く。踏み固められた土の道はやがて舗装された道になり、その頃には街が見えてきた。
春を迎えた街の中は、色とりどりの花が綻び始めていた。日が昇り暖かくなった中、人々が春の訪れを喜ぶかのように闊歩している。見知った顔に挨拶しつつ迷うことなく仕立て屋へ向かうと、店前で客引きをしていた主人が声をかけてくる。
「よう嬢ちゃん、おはようさん。いつものやつかい?」
「おはよう。ええ、そうよ。これが縫い終わった分。新しい仕事ある?」
「もちろんさ。嬢ちゃんも腕が上がったよなぁ、いつも頼りにしてるぜ。こっちが次回の分な」
「ありがと。そう思うんなら報酬は上乗せしてよね?」
しれっと本音を交えつつ軽いやり取りを交わし、縫い終わった衣服が入った布袋を渡す。報酬と次の分の縫い物を受け取ったら、期日や報酬などを打ち合わせ、仕立て屋と別れた。財布が重くなるのは良いことだ。冗談混じりの私の本音に応えてか少しだけ色をつけてくれた報酬に、思わず頬が緩む。そのまま上機嫌で食料品などの買い物を済ませると、空のてっぺんに日が昇る前に私は街を出た。
来た道を戻り、森の入り口で手押し車に荷物を乗せる。行きよりも圧倒的に増えた荷物をようやく下ろすことができた。慣れているとはいえ疲労が溜まった肩をぐるぐると回してから家路を辿る。途中川で洗濯物を回収すると、大量の荷物に手押し車はギシギシと音を立てていたが、これくらいで駄目になるほど柔な作りではない。行きと同じだけの時間をかけて歩くと、愛しの我が家が見えてきた。…もう少し壁が厚ければもっと愛おしいんだけどね。
太陽は空の天辺を通り越している。荷物をしまいこみ、硬いパンとハーブティーで少し遅めの昼食をとったらさっそく縫い物を始める。今回は赤子用の衣服が多い。よく汚れ、すぐに成長する子供の衣服は常に一定の需要があるが、赤子の服となると話は別だ。寒かったものの流行り病もなく過ぎた、厳しくも穏やかであった冬の中で育まれてきた多くの新しい命を思う。一人一人無事に育つことを祈りながらひと針ずつ縫っていく。
夢中になって縫い物をしていたらあっという間に日が傾いていた。眉間を揉んで一つ伸びをする。次は夕飯の支度だ。暖炉で火をおこし、今日買った野菜やベーコンの屑をスープにする。街へ出て買い物をした日特有のいつもより豪華な夕食だ。パンと一緒に温かなスープを飲み干すと、温まった体に一気に眠気が押し寄せてきた。日は沈んだばかりだが、灯り代を惜しんで着替えて早めにベッドに入る。明日は一日縫い物をして、そうだ、森のベリーももう収穫できそうな塩梅だった…そんなことを考えながら眠りにつく。
これが私、アーシェの日常。ささやかで、けれどもそれなりに充実した日常だ。
今は森の中の小屋で一人暮らしている私だが、家族がいないわけではない。といっても義理だけど。
私が暮らしているこの森、実はとある貴族が直接所有しているものである。本来ならば私はこんなボロ小屋ではなく、本邸と呼んでいる豪華な建物でそれなりの貴族令嬢として暮らしていたはずだ。そう、これでも私は由緒正しい貴族の血を引いた娘なのである。そんな私がなぜこのような暮らしをしているかといえば、ひとえに義理の母親との関係のせいだった。
私がまだ幼く本邸で暮らしていた頃、病弱だった母が亡くなった。悲しみにくれていた私だったが、父親はどうやらそうではなかったらしい。一年ほど喪に服した後、すぐにどこからか再婚相手を見つけてきた。よくある話で、その継母がまあとんでもない奴だった。淑女らしい笑顔の裏であれよあれよと実権を握り、父が亡くなった後は我が物で本邸で暮らし始めたのである。すでに父親との間にも娘、即ち私の義理の妹を成していた彼女にとって、私はお払い箱同前だった。病弱な娘の療養という名目で本邸からこの森のボロ小屋に追い出され、ここでの生活を続けているというわけだ。
とはいっても、追い出されてからの生活は穏やかな物だった。もちろん家屋は当時からボロだったし、本邸から支給される財産はごく僅かな物で生活は簡単ではなかった。だが、やり手である継母の冷たい視線から逃れることができ、幼い私は正直ホッとしていたのだ。
なにより大きかったのは、森の管理人であった老夫婦の存在だ。
今となってはほぼ誰も来ないこの森だが、私がもっとずっと幼く、両親が存命だった頃にはよくこの森に遊びにきていた。貴族所有の森ということでしっかりと整えられたこの森には管理人夫婦が暮らしており、私とは顔馴染みだった。母が亡くなってからは疎遠になっていたが、私がこの森で暮らすことになった際に付き添い人としてこの管理人夫婦が私の面倒を見ることになったのである。
1人分の生活空間しかないこのボロ小屋で同居こそ許されなかったが、彼らは私にこの森での生き方を教えてくれた。春は森の恵みを集め、夏は暑さのやり過ごし方。秋には冬への備え方を教わったし、冬の寒さがあまりにも厳しい時には、同じ布団で私が眠りにつくまで温めてくれた。勿論水の汲み方から火の熾し方、料理の仕方まで。今となっては必須の縫い物の技術を教えてくれたのも、街の仕立て屋との縁を作ってくれたのも彼らだった。思えば先が長くない彼らがいなくなっても、私が生活に困ることがないようにしてくれたのだろう。一昨年に相次いで2人とも亡くなってしまった際には、母が亡くなった時と同じかそれ以上に泣いてしまった。
付き添い人である管理人夫婦が亡くなってからは、定期的に本邸からの使いがやってくるようになった。とはいってもこのいけ好かない使いは、僅かばかりの財産を与えたら私が生きていることに心なしかがっかりした様子でさっさと帰っていく。彼の靴が汚れるよう、訪問の先触れが来たら家の前の土に水を撒いて泥を作っておくことが私の今のささやかな生きがいの一つだ。
忙しくも穏やかな、ささやかでそれなりに充実した日常。暮らしの先行きは見通せないが、日々を懸命に生きている中で人としての誇りは失っていない、と思う。病弱な貴族の娘と言う肩書きには似つかわしくないこの生活をこれからも続けていくことになる。私はとくに疑うこともなくそう思っていたのだった。
「君のような可憐で素敵な女性に会えて光栄だ。どうか名前を聞かせてくれないだろうか?」
…どうしてこうなったのだろうか。