薬師ワカエ
危険人物を歩かせる場合、監視者は通常、その後ろにつく。
逆だと背後から襲われる危険があるためだ。
だがプルーチェルという女性はそうしなかった。
「じゃ、行きましょ」
軽い口調で言うと、さっさと先にたって歩き出す。
良い人なんだな。
初対面から間もないと言うのに、シュウはもう彼女の本質を見た気がしていた。
ふたりで来た道を逆に辿り、まっすぐ宿屋の屋根上に出た。
「さて。最初に情報共有しとくね」
プロらしい手際で素早く、しかし確実に周辺の安全を確認してから、プルーチェルが切り出した。
まず、今後の行動方針の再確認。
そして村の大まかな地理と、最初の目的地である薬師の自宅座標を教えてくれる。
「まあ、今回は私のバトライアでひとっ飛びなんだけどね」
にっこり宣言すると、彼女は「Victor 1」を口訣した。
現れたのはエイに似た、巨大な飛行生物だ。
「おおっ……」
見るのは二度目である。
今度は距離が近いこともあり、自然と感嘆の声がもれた。
その偉容が、羽ばたきもせず宙空を優雅に泳ぐ姿は、やはり圧巻だった。
やがてバトライアはイルカのような鳴き声を小さくあげると、甘えるように主人へとすり寄っていった。
「いいなぁ、召喚獣」
乗騎の鼻先をなでていたプルーチェルが、その声に振り返った。
「シュウは封貝使いでは――ないのよね?」
自信がないのか、小首を傾げている。
封貝使いの全てが召喚獣を持つわけではない。
だが事実、強力な封貝使いはほぼ例外なく乗騎魔獣と契約している。
「俺が持っている特別なものは、この呪いの〝けもの装備〟だけだよ」
「呪い? その格好は装備が呪われてるからなの?」
「そう。脱げない。引っ張っても取れない」
「えっと、試してみてもいい?」
流石に迷った。
実のところシュウがその気なら、けもの装備は服より簡単に着脱できる。
だが、森で会った子どもたちの証言は「どうやっても外せなかった」だ。
もちろん単に彼女らの力が弱かっただけ、という可能性もある。
だが、シュウには不思議な確信があった。
この装備は、他人には外せない。
譲渡できない。
装備は許されない。
根拠のない直感だ。
しかし、神器に関する勘が外れたことは、まだ一度もなかった。
「えっと――痛くしないでね?」
言いながら、シュウは彼女へ頭を寄せた。
やがて両頬のあたりに、おずおずと手がそえられる。
驚いたことに、マスクの存在を無視して、肌を直接触られた感覚があった。
指先から伝わる彼女の体温すら、ダイレクトに感じる。
心拍数が一気にはねあがった。
「んー」
プルーチェルがマスクを引っ張り始める。
強力な封貝使いは金属製の剣すら、素手で軽くへし折る。
それを考えると相当手加減してくれているのが分かった。
「本当だ。びくともしないね」
彼女はすぐに手を離し、正面から不思議そうにシュウの顔を覗き込んだ。
「それに凄く頑丈そう。鍛えた成人男性の全力くらいは込めたはずなのに、破れそうな気配が全然しなかった」
「簡単に破って取れるなら、もっと早くそうしてるよ」
「そうよね。――ごめんなさい、変なことに付き合わせて。この先どれだけ時間がかかるか分からないし、いい加減出発しないと」
「了解」
間近で見るバトライアの背は、詰めれば四人は乗れそうなほど広い。
まずプルーチェルがそこへ飛び乗る。
慣れた者特有の、まるで躊躇を感じない動きだった。
「どうぞ」と言われ、シュウは腹に力を入れる。
おっかなびっくりに見えないよう、思い切ってあとに続いた。
いざ飛び始めると、乗騎の乗り心地は快適とすら言えるものだった。
まず極めて安定しており、振動の類いは一切ない。
慣性をはじめ、いくつかの物理法則を無視しているとしか思えなかった。
「そう言えば、空を移動できるなら、さっきはなんで屋根の上なんか走ってたわけ?」
「この子、大きいから下方向の見通しはあまり良くないのよね。巡回や探し物にはあまり向かないの」
見逃すことになるのが人命になる今回はちょっとね――、とまで言われてしまえば納得する以外ない。
ともあれ、小さな村などひとっ飛びとは本当だったらしい。
「あ、ねえ。あれじゃない? ほら」
直後、プルーチェルが前方を指さした。
そちらに目をやると、ぽつんと建つ小屋がある。
村はずれと言うより、ほとんど森に飲み込まれつつある位置だ。
あれなら、むしろ空からの方が発見しやすいだろう。
造りも他の木造とは違って、頑丈な赤煉瓦を積み上げている。
尖った屋根には一際高い煙突を備えていた。
着陸してバトライアを送還すると、プルーチェルはすぐ小屋の入口に向った。
シュウも後に続く。
「ごめんください。薬師の方、おられますか」
金属製のハンドル型ノッカーを掴み、がんがんと音を鳴らす。
薬師は高齢と聞いているせいだろう。
声と音に容赦がない。
反応はすぐにあった。
軽い足音が聞こえてきて、ドアが開かれる。
出てきたのは十歳くらいの、移民系の幼子だった。
好奇心に輝く目でシュウ達を見つめると、にんまりと笑む。
「どうぞお入り下さい」
来客の応対には慣れているのかもしれない。
見た目からは意外なほど落ち着いた口ぶりだった。
薬師の知識と技術は、田舎の集落が持つ最大の財産のひとつだ。
その継承は常に最優先に取り組まれる。
住み込みの弟子として、子どもが送り込まれることは珍しくない。
「また珍しいのが来たねぇ」
通された居間では、かくしゃくとした老婆が待っていた。
すっかり白くなった髪はオールバックにされ、後ろですっきりと束ねられている。
女性としては上背があり、贅肉のない細身の身体は、姿勢の良さと相まって年齢を感じにくくしている。
双眸には、付き人の少年と遜色ないほどエネルギッシュな光が湛えられており、軽く手玉にとれる相手ではないことを強く印象づけていた。
「なにか、外が騒がしいと思ったが――」
薬師の老婆は、やりかけの刺繍を置いて立ち上がった。
「強い封貝使いと会うのは久しぶりだよ。わざわざアタシの所にくるなんざ、なにか大事があったんだろう?」
シュウ達は、最奥にある小部屋に通された。
なにかの儀式の間と思われ、内部には椅子が一脚も無かった。
床に直接置かれたクッションに座り、老婆と向き合う。
弟子の少年も、部屋のすみにちょこんと陣取っていた。
これから何が起こるか、そわそわと落ち着かない様子だ。
「アタシは、この村で薬師をやってるワカエだよ。用向きを聞かせてもらおうか」
「はい。私はこの村に訪れました徴税官一行の護衛で、プルーチェルと申します。こちらは協力者のシュウ」
「どうも。シュウ・ミューラです。故あってこんな格好してますが、他意はありません」
ぺこりと頭を下げる。
それで、薬師ワカエの視線がじっとシュウに注がれた。
流石に、バレてはない……よな?
それでもなにか見透かされているような気がして、身をよじりたくなる。
「まあ、徴税官としてなぜか公女様がいらしてるって話は聞いてるよ」
ワカエはプルーチェルに視線を戻し、続けた。
「その護衛となると、強い気配にも合点がいくね。ただ、今朝からの村の慌ただしさは尋常じゃない。なにがあったのかね?」
「はい。我々は昨夕ここに到着し、慣例として村長宅で一晩お世話になったのですが、事が起こったのは未明のことで――」
プルーチェルの語る詳細は、非常に整理されたものだった。
途中、いつの間にか離席していた弟子が、お茶を煎れて持ってきてくれた。
それをちびちび飲みながら、シュウは聞き役に徹する。
中には初めて聞くような情報も多々あった。
「つまり、凶暴化は明らかに伝染しているんです。症状自体も異常ですが、短期間での爆発的な伝播も尋常ではありません。原因が分からず、終息に目処がつかないこともあって住人達の不安とパニックは限界に達しつつあります」
「なるほどねえ……」
師がうなるように言うと、釣られるように弟子も声を上げた。
「そんなことになってるんですか。僕、全然気がつかなかった。――あ、気がつかなかったです」
「ご家族とは別に暮らしてるの?」
プルーチェルが少年に優しく問いかける。
「この子は孤児だからね。その意味では家族の心配はないよ」
本人より先に、ワカエ師が答えた。
「それより、緊急のようだから結論からさっさと言ってしまおう。残念ながらアタシに心当たりはないよ。少なくとも風土病として記録されてる中に、似たような事例はないね」
予想していたのだろう。
プルーチェルの顔に落胆の色はなかった。
「呪詛の方はどうでしょう?」
「考えられるとすれば、まあそっちの方だろうねぇ」
薬師は思案顔であごをさする。
「むかし、古い文献で少しだけ似た話を読んだことがある。確か、旧サイフ地方だったかね。あそこで軍が実験したんだよ。秘密裏にね」
「軍……?」
「大戦中、敵が進軍してくると、ウチの国はわざと奥まで攻め込ませる対応を取ったろう? そして戦列が伸びきったところで退路断って、包囲して叩くっていう戦略で成果を挙げた。その中で、軍部がある計画を思いついたのさ。村ひとつ犠牲にして、そこに敵を誘い込む。そこには咒で凶暴化した住人が待ち受けてるって罠さ」
「まさか、オルダ王国がそんなことをしてたんですか?」
「資料によれば、計画は実験段階で頓挫したようだがね」
「えっ、失敗?」
「まあ、呪詛を組み込んだ寄生虫を使って、村人を短時間でバケモノに変えてしまうまでは上手くいったようだよ」
だが、問題は後始末だろう?
薬師は皮肉めいた口調でそう続ける。
「敵を片付けたあと、村民に入れた寄生虫を殺してしまうための薬剤もセットで開発されたが、その効きの方がイマイチだったようでね。まあ、企画倒れさ」
呪いを組み込んだ寄生虫――
それをイメージするのは、さほど難しくなかった。
たとえば狂犬病だ。
あれは野犬やコウモリの唾液にウイルスが含まれている。
噛まれると傷口から入り込み、感染が広がる。
そうして精神錯乱を引き起こす。
あるいは攻撃的になる。
興奮状態に陥る。
これらの凶暴化と表現できる症状も、狂犬病の特徴だ。
「噛まれたり引っかかれたりすると、呪詛を組み込まれた小さな寄生虫が傷口から入り込んで、対象を凶暴化させる。村の人たちとの共通点はあるな。少なくとも現象は説明できる」
シュウは考えをまとめるように言った。
「軍が――国家が関わってるってこと?」
プルーチェルは、恋人から別れ話をもちかけられたような顔だった。
「いや、それはまだ全然分からないでしょ」
安心させるように微笑んでみせると、シュウは薬師を見た。
「ワカエ師、あなたが知っている軍の実験とこの村の凶暴化で、逆に違っている点はないんですか?」
「そんな丁重に呼んでくれなくて良いよ。別にあんたの師ってわけじゃないんだからね」
老女は苦笑しながら言った。
「で、共通しない部分だけど、確かにあるね。たとえば、お嬢ちゃんが言っていた上位種がそうだ。昔の軍事実験では、そんな個体が出てきたなんて報告はなかった。襲われてからの凶暴化も、この村の方が早いね。比較にならないくらいに。その意味では明らかに別物だよ」
「原因の特定は、どうすれば可能でしょうか?」
プルーチェルはすっかり生徒の口調だ。
「一番手っ取り早いのは、暴れ出した住人をとっ捕まえてくることだね。病気の場合は無理でも、呪詛が原因なら私が調べられる。判断だけなら、高い確率でつくと思うよ」
「ほんとですか!」
プルーチェルが腰を浮かせた。
「だけど、あれを捕まえるってできるかな?」
シュウの素朴な疑問に、彼女の笑顔が引っ込む。
「言われてみれば……確かに」
連中の膂力なら、シュウがそうしたように縄くらい簡単に引きちぎってしまうだろう。
では鎖ならどうかと言えば、それでも危うい。
そもそも薬師に預けるなら、安全のため指一本動かないような完全な拘束が必要になる。
単に倒す、殺すなどより遥かに難度は高い。
「まだ死者は出てないのかい?」
ワカエが言った。
「最悪、死体からでも分かることはあるかもしれないよ」
「噛まれたり、引っかかれたりした後、凶暴化せずにそのまま死んでしまう例は数件あったみたいです。そういうのでも構いませんか?」
プルーチェルが訊くと、ワカエ師は難しい顔になった。
「まあ、何もないよりマシだが、それだと確かなことは分からないかもしれないねぇ」
「普通なら気絶する威力で殴っても、むっくり起き上がってまた向かってくるからなあ。あの〝連中〟」
シュウは思わず顔をしかめる。
今思い出しても、なかなかにホラーな光景だった。
「私に拘束形の封貝があれば良かったんだけど」
プルーチェルがうつむく。
やはり妙案は出てこないらしい。
「とにかく、可能なら連れておいで。調べるのは手伝おう」
「ありがとうございます。助かります」
「なあに、村の手助けをしてもらってるのはこっちだからね。お礼は本来、アタシらが言うことさ」
「それで、ワカエ師。原因が分かれば、凶暴化した人たちを治療したり解咒することはできますか? 元に戻せる可能性は――」
問いかけるプルーチェルの表情は険しい。
最悪の答えが返るのを半ば予感しているように見えた。
「残念ながら、その見込みは極めて低いと言わざるを得ないね」
案の定、老薬師は首を左右に振る。
「伝染性があって、かつ限界以上に身体能力を引き出した上、重度の精神錯乱を起こすような症状が併せて出る場合、それが病気であれ咒術であれ被害者は短時間で壊れてしまう傾向にある。そして、あちこちに生じる器質的な損傷は不可逆であることが多い。つまり、基本的に元には戻らない」
実際そうなんだろうな、とはシュウも思っていた。
ワカエが語ったように、国家的な組織すらかつては後始末――凶暴化を鎮める段階で失敗しているのだ。
「そう、ですか……でも、それだと戦時中の軍の実験では、凶暴化させた被験者たちをどう抑えたんでしょう?」
「文献によれば、アンタのような強力な封貝使いを使ったとあったね。腕っこきを集めて、大火力の封貝の集中砲火で村ごと――」
ボン、と老婆は閉じていた五本の指を広げてみせる。
「俺たちの対応次第ではここも最悪、同じような末路を辿ることになりかねないわけだ」
こりゃ大事になってきたぞ。
今さらながら、シュウは事の重大さを再認識させられる。
「そうね」
プルーチェルはキッと表情を引き締め、勢いよく立ち上がった。
「そうさせないためにも、私たちはやれることをやらないと」
薬師はそれをゆっくりと見上げる。
「で、これからどうするつもりだね?」
「最初に変異したのは、お話ししたとおり村長宅に泊まっていた私たちの仲間です。なぜあそこが始まりの場所になったのか。理由が分かれば、状況も大きく進展するでしょう。なので、あそこを調べてみたいと思っています」
「そうかい。なら、明るいうちに済ませておきたいだろうし、長々と引き留めてはおけないね。すまないが、よろしくお願いするよ」
「はい。こちらこそ、有益なお話を聞かせていただき感謝します。それより貴女とお弟子さんは避難をお考えですか? そのつもりがおありなら、宿屋まで護衛しますけど」
「いいや、私たちはここで構わないよ。色んな意味での備えもそこそこあるしねぇ」
「本当に大丈夫ですか?」
「気にかけてくれてありがとうよ。でも、アタシたちなら大丈夫さ。それより取り残されてる他のを救助してやってくれるかい」
「分かりました。状況が変わったら、どんな方法でも良いので知らせて下さい。私たちもまた様子を見にうかがいます」
「世話かけるね」
では、とプルーチェルが一礼して戸口に向かう。
「あっ、じゃあ僕、お見送りします!」
弟子の少年が跳ねるように立ち上がって駆け出した。
「ああ、ちょっと待ちな。シュウといったかね、けもの姿のあんたにはまだ話があるんだよ」
「えっ?」
辞去しかけていたシュウは、驚いて振り返った。
思わず自分を指さして、薬師に確認する。
見ればプルーチェルと弟子も立ち止まり、意外そうな顔を見せていた。
「俺ですか?」
「そう、あんただよ。もちろん無理強いはしないけどね」
なぜか、ひやり背中に冷たいものが走った。
このワカエ師がただ者でないことはもう明らかだ。
そもそも田舎の薬師が、国家機密である軍部の秘密実験に通じていること自体、異常なのだ。
彼女が過去、その機密――すなわち国家の中枢に近いところにいた重要人物であることは、すでに疑いようがない。
「えっと、じゃあ私は表で待ってるから」
ただならぬ空気を感じ取ったのだろう。
プルーチェルは複雑そうな笑みを浮かべ、弟子と共に去っていく。
ゆっくりとドアが閉じられた。
足音が遠ざかっていき、場に沈黙がおりる。
それからさらに十分な間を置いて、ようやくワカエ師は口を開いた。
「さて。まあ、おかけなさいよ。硬くならずともすぐ済むから。ちょっと確認しておきたいことがあるだけさね」
「あ、はい。……それで、ええっと、確認って?」
座布団に再び腰を落としながら、訊いた。
自然とこちらは正座になっていた。
「そうだね。まず確かめておきたいのは――」
ワカエ師が、シュウと正面から視線を合わせる。
ゆっくりとした口調で続けた。
「あんた最近、神に会わなかったかね?」