エンカウント
ぐっと大地を踏みしめる。バネを押さえ込むように力をためる。そして蹴る。
途端、シュウ・ミューラは爆発的に加速した。
流れる、ではない。風景が後ろへ吹っ飛んでいく。
最初の何度かは、ただただ混乱と恐怖だった。
絶叫系が苦手な人間を無理矢理ジェットコースターに乗せたようなものだ。
だが慣れてくると、これが痺れるような快感に一変した。
世界が変わったと言っても過言ではない。
風がやたらと心地よい。次々に開けていく新しい景色は、自分を祝福してくれているようだ。
凄い……これは、とてつもなく……極上だ。
自然とゆるむ口元からは、はしゃぎ声さえ漏れはじめている。
空を飛んでいるような開放感。
風と一体化したような疾走感。
神に選ばれたかのような愉悦感。
――最後のはまんざら大げさでもないか。
笑みが深まる。
なにせ、この力はまさにしく神に与えられたものだ。
邪神クーネカップから授けられた力だ。
それほどに、この〝けもの装備〟の異能は凄まじかった。
なにしろ、走るというよりむしろ滑空である。
トンと地を蹴ると、ぶわっと風に包まれ、数センチ浮いた身体が前方へ飛んでいく。
重力の小さな月面を走ればこんな感覚だろうか。
いや、それ以上の爽快感だろう。
十数メートル進むと、今度は逆の脚で踏み出す。
また身体がすうっと滑るように飛んでいく。
軽く走るだけでクルマ並の速度が出た。
しかもほとんど疲労しない。
これが本気なら。
全力を出したなら。
一体どれだけ凄いことになってしまうのだろう。
考えただけで、脳内麻薬がドバドバ分泌されるのを感じた。
もっとも、スピードに酔えたのは少しの間だけだった。
能力を把握するために道をそれ、そこそこの遠回をしたにも関わらず、もう村へ到着してしまったのだ。
目線の向こう、木々の狭間を通して、突き立てた丸太の外壁がちらちら見え始め、シュウ・ミューラはしぶしぶ減速した。
壁の高さは一・五メートルほど。
低いかわりに、先端がペンのように鋭く尖らせてあった。
なるほど、あれならよじ登って乗り越えるというのは難しいかもしれない。
シュウは森からは完全に出ず、いったん足を止めた。
壁越しに中をのぞき込める高さの大樹を探す。
条件に見合う物見ポイントを見つけると、飛び上がって一気に頂上付近に降り立った。
けもの装備の力があれば、なんと言うことはない。
見下ろした村落は――既に匂いで気づいていたが――所々から煙があがっていた。
火災が発生しているらしい。
だがそれが気にならないほど、村そのものが異様を極めていた。
ぱっと見でもウロつく住人は何人も目に入るが、その姿がまず尋常ではない。
彼らは一人の例外もなく鮮血にまみれていた。
服や肌をべっとりと深紅に染めあげ、虚ろな瞳であたりを徘徊している。
両腕をだらりとさげながら猫背で彷徨う様は、さながら亡者の群れだ。
これ、感染症なんてもんじゃないだろ――
直感だった。
冗談抜きで、不死の怪物化したのか?
こうなると本気で疑いたくなる。
むしろ、そうとしか思えなかった。
ただ現実、その可能性は否定すべきだろう。
村に陰相化の様子がないからだ。
自然現象として、生物がアンデッド化すること自体はある。
だが、それには必ず前触れがあるものだ。
それが場の陰相化だ。
墓場。
夜の寺社やトンネル。
廃屋。
陰鬱で暗く、死の気配が濃厚に漂う場所。
寒気がするような雰囲気を持つのが、陰相に堕ちた空間の特徴だ。
他に、多くの生命が苦痛や怨念を抱きながら失われるなどした場合も、場は急速に陰相へ傾いていく。
その陰相化が一定以上に深まると、眠れる死者が魔物として蘇る。
しかし、この村にはそういった負の雰囲気がない。
念のため、シュウは樹上から墓地を探した。
村はずれにそれはすぐ見つかる。
だがやはり、地中から何かが這い上がってきたような形跡はなかった。
だったら何が起こってる――?
思索にふけりかけたとき、シュウは視界の端に何かをとらえた。
弾かれたようにそちらへ顔を向ける。
右手側のほぼ一番奥。遠目に複数の人影が見えた。
明らかに〝連中〟とは動きの質が違った。
すぐにまともな人間の集団なのだと気づいた。
ダークエルフことブラーインは闇に潜み、日陰の世界で長い年月を過ごしてきた種族だ。
暗視能力は他種族を圧倒する。
一方で、単純な視力は大きく劣る。
よく見ようと、目を細めた。
すると、見ているものがいきなり巨大化した。
焦点距離が変わり、遠くが大きくくっきりと見えているのだ。
驚いたが、すぐに納得した。
もはや疑う余地もない。
けもの仮面の機能だ。
カメラの光学ズームよろしく、望むままに遠くの物を拡大する機能があるに違いなかった。
なんでもありだな、神器。
なかば呆れ半分、女神クーネカップに感謝する。
見えるのは男女三人組だった。
やや年かさの夫婦。
それと、おそらくは娘という組み合わせだ。
どうやら村からの脱出するつもりらしい。
家が外壁に面しているため、いけると判断したのだろう。
しかし、ドアは通り側にしか見当たらない。
出れば〝連中〟に発見される。
そのため、裏手の窓を脱出口に選んだようだ。
シュウが見たとき父親は既に庭に出ており、続く娘を手助けしていた。
最後尾が母親だ。
もっとも手こずったのが、腰回りに脂肪のつけすぎた彼女だった。
三人は〝連中〟の姿が近くにないことを確認すると、忍び足で丸太の外壁へ向かっていく。
壁際で父親が四つん這いになり、踏み台になった。
最初に、一番手間取る母親を片付ける計画らしい。
娘が、母の重たい尻を下から懸命に押し上げようとしていた。
丸太の先端が尖らせてあるのは、ここも同じである。
下手をすれば大怪我につながる。
そうでなくても無防備にすぎた。
彼らの試みは賭けの要素が大きく、無謀に見えた。
シュウのその見立ては、ほどなく確信に変わった。
母親が足をばたつかせる間に、建物の角の向こう側から〝連中〟が二体、ふらふらと姿を見せたのだ。
ゆっくりと。
だが確実に一家へと接近していく。
当の本人たちは背後のそれに気づいていない。
次の瞬間、シュウ・ミューラは枝を蹴っていた。
地上一〇メートル超――実にマンションの地上四階に相当する高さから一気に降下する。
ブラーイン時代なら高い確率で死んでいた暴挙だ。
だが、今はなぜか「いける」という強い確信があった。
事実、けもの装備の肉球クッションは、着地の衝撃をなんなく吸収してくれた。
足に伝わったのは、歩道の縁石をぴょんと飛び越えた程度の感覚でしかなかった。
凄すぎでしょ、これ――!
感嘆するが、浸っている暇はない。
シュウは親子の方へ駆けだし、ものの五秒で彼我の距離を走りつめた。
勢いもそのまま、彼らが越えようとしていた丸太の柵を軽く飛び越える。
目を丸くして仰天している夫妻と娘を尻目に着地。
間髪いれず、すぐそこに迫った〝連中〟と対峙する。
それで親子は、遅まきながら自分たちが五秒後には死ぬ運命であったことに気づいた。
「ヒィ――ッ!」
壁をよじ登りかけていた母親が、体勢を崩し夫の上に落下する。
盛大な悲鳴つきだった。
ばか、と思うがもう遅い。
ライガーのけもの耳は、声に反応してわらわら押し寄せてくる〝連中〟の気配を察知していた。
迷っている暇はない。
シュウは〝連中〟のうち、もっとも近い一体へ間合いをつめた。
相手からすれば、ほとんど瞬間移動だろう。
反応もできない。
なるべく傷つけないように――
自分に言い聞かせながら、がら空きの腹にけものグローブをあてがった。
そして肉球で押し込むように圧をかける。
思った通り、腕力にも神器のブーストがかかっていた。
気持ち的には軽く押した程度。
しかし農作業で鍛えた成人男性の体が、ダンプにはねられたような勢いで吹っ飛んでいく。
すぐ後ろにいたもう一人を巻き込み、仲良く近くの――納屋らしき――掘っ建て小屋の壁を破って消えていった。
「ぇ……あの……」
振り返ると、背後にかばう形になっていた娘が、シュウを見つめていた。
年の頃は一五歳前後か。ぱっちりした大きな鳶色の瞳が、せわしなくあちこちを彷徨っている。
かわいそうなほどの錯乱ぶりだった。
「大丈夫。変な格好だと思うだろうけど、俺は敵じゃないよ。徴税官の公女オードリィ・ラームウェンと宿屋の娘ノンノの依頼で村の様子を見に来た者で、名前はシュウ・ミューラ」
シュウは早口に言った。
「逃がしてあげるからちょっと待ってて」
呼びかけるうちに集まってきた〝連中〟の一体が、早速両手をあげて襲いかかってくる。
テルマおばさん。
後ろから、娘が小さくつぶやくのが聞こえた。
ご近所の婦人ということか。
痩せぎすな普通の中年女性だった。
左肩のあたりに、血塗れの大きな噛み傷が見える。
濁った瞳。
血走った白目。
黄色い歯を剥き出しにした口角からは、大量の涎がまきちらされていた。
変わり果てたテルマおばさんは、次の瞬間、喉を張り割かんばかりの絶叫をあげた。
本当に、理性を完全喪失している。
「ごめんっ」
シュウは謝りながら、先ほどと同様、彼女の腹に掌底を置いた。
間髪入れず、ハッと気合いを込める。
その吹っ飛ぶ先を見届ける間すらない。
直後、別方向から二体が同時に襲いかかってきた。
慌てず、横にステップして回避した。
どちらかはテルマおばさんの夫だろうか。
彼ら男性二人にも、即ご退場願った。
ただ、どうやらそれでお終いというわけにはいかないらしい。
普通なら失神か、しばらく動けないダメージを受けているはずだが、〝連中〟は違った。
ゆうに一〇メートルは吹っ飛んだ先で、もう立ち上がろうとしている。
気づけば、一番最初にすっ飛ばした男たちも、納屋の向こうから復活し〝連中〟の最後尾に再び加わろうとしていた。
「キリがない! どこのゾンビ映画だよ、これ」
どうする? どうしたら良い。
少しあせりはじめた時だった。
「そこ、なにしてるの!」
突然、頭上から叱責の声が降ってきた。
〝連中〟を集めないよう声量を落としているが、けもの耳には至近距離で叫ばれたも同然だった。
そちらに顔を向ける。
屋根伝いにぴょんぴょんと跳躍を繰り返して近づいてくる若い娘の姿があった。
驚くべき事に、シュウにも劣らない人間離れした身のこなしだ。
「住人の皆さんには自宅待機をお願いしたはずです。被害の拡大で傷つくのはあなたたちなんですよ」
彼女はシュウの近くに降り立つと、手近な〝連中〟二体の胸ぐらを左右同時に掴んだ。
そのままフィギュアスケートのようにくるりと一回転し、遠心力に任せてぶん投げる。
集積所のゴミ袋あつかいされた人体は、迫りつつあった〝連中〟の群れへ見事に直撃した。
ボーリングのピンよろしく、まとめて豪快に吹っ飛ばされていく。
これにはシュウも思わず感嘆の声をあげていた。
「すごいな。キミ、ただ者じゃないね」
拍手もつける。
もっとも、肉球のせいで音は鳴らなかったが。
「それはこっちのセリフよ。猫人族でもなさそうなのに、なにその可愛い猫ちゃんの顔。住人でもなさそうだし。一体、何なのあなた? どこから入り込んだの?」
女性は警戒半分、好奇心半分、といった様子でシュウの顔を覗き込んでくる。
「なんだチミは?……ってか」
きっとこの流れ、今後も飽きるほど繰り返すんだろうな。
嘆息しつつも、視界の端――回り込んで三人親子の方へ襲いかかろうとしている〝連中〟の動きは見逃さない。
シュウは即座にそちらへ走った。
狂人化した村人の後ろ襟をひっ掴む。
先ほどの女性の真似ではないが、そのまま力任せに放り投げて視界から消えてもらった。
破れて手に残った服の一部をぽいと捨て、シュウは女性に向き直った。
「見ての通り。俺は通りすがりの正義のマスクマンだよ?」
「まるで説明になってないと思うけど――」
「あとでゆっくり説明するよ。少なくとも敵じゃないことは認めてほしい。今はとにかく、この人たちを村の外に逃がしたいんだ」
「それは賛成。――分かりました。ここは私が押しとどめておくから」
襲いかかってきた〝連中〟の顔面を、彼女はがっしと鷲掴みにして続ける。
「あなたは彼らをお願いできる?」
「了解」
ひとつ頷き、シュウは迅速に行動へ移った。
信じて貰えたことがとにかく嬉しい。
ブラーイン時代には決してあり得なかったことだった。
弾む足取りで、まずは半泣きでうろたえている少女に向かう。
「ちょっとごめんね?」
断ると、返事を待たずに横抱きにした。いわゆるお姫様抱っこだ。
「ひあっ」
小さな悲鳴があがるが、無視する。
シュウは軽く地を蹴って、少女ごと飛び上がった。
そのまま丸太の柵を軽々と越える。
そして、ふわりと完璧な着地を決めた。
気づいていないのか、腕の中の少女はぎゅっと両目を閉じて固まっていた。
放っておくと、しばらくそうしていそうな気配だ。
軽く苦笑しつつ、ゆっくり立たせてやる。
それでもたっぷり三秒はかけて、娘はようやく目を開けた。
「怖かった? ごめんね。すぐ、ご両親も連れてきてあげるから。少しだけ待ってて」
肉球で頭をぽんぽんしながら言うと、少女はぽかんとしながらも小さく頷いてくれた。
それを確認し、ひょいと再び丸太の外壁を越える。
あとは、すぐそこで仲良く腰を抜かしている夫妻だけである。
シュウは彼らがしょっている背嚢のベルトをそれぞれ左右の手でむんずと掴み、また向こう側へ戻った。
今度は〝連中〟を適当にあしらった女性戦士もあとについてきた。
「〝連中〟は壁を越えては来ないみたいだね。とりあえず、ケガは?」
安全を再確認し、シュウは一家にたずねた。
「私たちなら何とか大丈夫です。噛まれたりはしてません。――あの、助けて下さってありがとうございました! あなたが少しでも遅かったら、私たちは今頃どうなっていたか……」
父親らしき中年が、涙ながらに深々と頭を下げてくる。
「あなたがた三人だけで壁を乗り越えて逃げようとしたんですか? どうしてそんな無謀なまねを」
横から女性戦士が嘆息まじりに言う。危機を脱したせいか、その声にはもう先ほどまでの険はない。
むしろ、やわらかさすら感じる口調だった。
「すみません。もう、とにかく怖くって。なにが起ってるのか、わけ分からないし。それで混乱してしまって」
口元をおさえながら、娘がこたえる。
その声は徐々に湿り気を帯びていった。
「近所の……仲の良かった……本当に普通の人たちが、いきなりあんなふうになるなんて……なんで」
最後は嗚咽まじりだった。
「とにかく〝連中〟がうじゃうじゃウロついてるし、今は家に戻してあげられる余裕はないかな。三人とも、森にある小屋は知ってますよね? 当面はあそこに隠れてると良いと思う。さっき言った、徴税官の公女様と宿屋の娘さんがいるから、一緒に」
シュウが言うと、女性戦士が驚いたような声を上げた。
「あなた、彼女たちに会ったの?」
「うん。まあ、偶然ね。それで、村の様子を見てくるように頼まれたんだけど……」
「オードリィ様はどうされてた?」
「心労でやつれ果てて、すっかりスリムな体型になってたよ」
にやりとしながら冗談で返す。すると相手も意図を察し、安堵に口元をほころばせた。
「まあ、あの人のずぶとさなら死んでも死なないとは思ってたけど」
「キミは、彼女の知り合い?」
「ええ、まあね。オードリィ様に雇われてる護衛のひとりよ」
「あ、あの――それでは、足手まといでしょうし、私たちはこれで。おっしゃるように、森の小屋に行ってみます」
夫人が小太りの身体を窮屈そうに縮めて、ぺこりと頭を下げていた。
「あ、はい。気をつけて」
ミウラ・シュウの習性のせいか、思わず会釈を返す。
「なにかお礼をしたいのですが、あいにくとこんな状態では……」
「いや、ほんとに通りすがったついでだし。あ、そうだ。食べ物とかは持ってます?」
シュウが訊くと、彼らは背負ったリュックサックに備えてあると答えた。
「なら、宿屋のノンノちゃんにも分けてあげてください。それで貸し借りなしってことでいいですよ。一緒にいるラーメン公の所の娘さんにはあげなくて良いです。あれは三日くらいメシを抜いた方がむしろ身体に良さそうだ」
「冗談抜きでそうしてください」
意外にも、護衛の女性が同調してきた。
「相手は大貴族の令嬢ですが、食糧を要求されても決して渡してはいけません。背負ったその荷物の中身が食べ物でいっぱいだとしても、彼女はひとりであっというまに消化してしまいますから」
驚いたような顔をしつつも、一家は「そうしてみる」と返した。
それから数歩いく度に振り返って頭を下げつつ、森の方へと去っていった。
「キミは行かなくて良いの? 護衛なんでしょ」
「良いの。まだ頼まれた仕事が残ってるし」
「そっか」
「あなたも、オードリィ様に村の様子を見てくるように言われたんでしょう? 良かったらついてくる? 状況を説明してあげられると思うけど」
もちろん、シュウに断る理由はなかった。