ツダとピグの森
最初に気づいたのは草の匂いだった。
それから風に揺られた木々から聞こえる、葉ずれの音。
やわらかい日ざし。そして鳥のさえずり。
ゾ=ミューラは春の午睡から目覚めるように、覚醒した。
そして、またしても跳ね起きた。
そこはどこかの森のようだった。
だが、その景色にはまったく見覚えがない。
――なんだ……どうなった?
里を襲った魔物の大群。
一族に見捨てられ、足止めにされたこと。
致命傷を負って力尽きたこと。
そして、神を見たこと――
記憶はしっかりしていた。
思考もクリアだ。
身体だって動く。
なのに、自分がいる場所が分からない。
「ほんと、どうなったんだ……」
そして、ここはどこだ?
ヒントを求めるように、ふらふらと歩き出す。
見える範囲で気になるのは〈ツダの木〉だ。
世界的に広く分布する広葉樹だから、地域を特定する手がかりにはならない。
だが、人里が近いことは分かった。
根元に木の実と、無数の動物の足跡が見つかったからだ。
特徴から、ゾ=ミューラにはそれが〈ピグ〉のものだと即断できた。
〈ピグ〉は豚によく似た、非常にポピュラーな家畜だ。
そして農村では、ごく一般的な飼育方法として彼らを森へ連れ出す。
のびのびと運動した〈ピグ〉は発育が良くなるし、どんぐりは優れたたんぱく源になるからだ。
大勢を解き放てる空間。無料で手に入る良質のエサ。
加えて糞尿の処理も不要となれば、森を利用しない理由はない。
日本でもスペイン産の〈イベリコ豚〉は高級ブランドとして知られていた。
その最高グレードともなると、餌にどんぐりしか食べさせないとも聞く。
ゾ=ミューラは少し歩き回り、人間の靴跡も見つけた。
間違いなくピグ飼いのものだ。
これを追えば、簡単に最寄りの集落まで辿り着けるだろう。
――いや、とすると変じゃないか?
気づいて、ゾ=ミューラは眉をひそめた。
まだ日は高い。
今の時間帯は、まさに〈ピグ〉を森に放しているべき時間帯だ。
なら、なんでだ――?
不審に思ったが、状況はすぐにそれどころではなくなった。
何気なく足下のどんぐりを拾い上げた時、ゾ=ミューラは〝それ〟に気づいた。
「なんだこれっ」
思わず声が出た。
のけぞり、あわてて自分の両手を凝視した。
「……ッ!」
完全な、けだものの手だった。
ダークエルフ特有の褐色の肌が一ミリも見えない。
そのかわりに腕部を覆い尽くしているのは、やわらかそうな黄色い毛並みだった。
所々、キツネ色の模様がアクセントになっている。
まるでトラ柄だ。
見た目はリアルな動物というより、ぬいぐるみだった。
全体的にぷくぷくと子どものように丸っこく、爪まで丸みを帯びている。
いかにも危険はなさそうで、触ってみると実際やわらかい。
手のひらには薄ピンクの肉球までついていた。
これを獣と言わずになんと言おう。
見れば足下もそうだった。
もともと履いていた皮のブーツは跡形もない。
もふもふした動物っぽい脚絆にすり変えられている。
しかもとんでもなく巨大だった。
靴のサイズに換算すれば、四〇センチ前後。
あるいはそれ以上か。
恐る恐る足の裏を確認すると、ここにもピンクの肉球クッションがついていた。
まるでキグルミだ。歩く度にぴこぴこ音がしても驚かない。
「え、は? なんなの……これ。なにこれ」
呆然とつぶやきつつも、心当たりはあった。
邪神クーネカップだ。
突然現れたあの恐るべき女神に〈神器〉を授けられたことは、当然覚えている。
致命傷が綺麗さっぱり消えて元気に動けていることからも、あれが夢や幻だったとは思えない。
ただ、邪神が「選べ」と差し出してきたのは、漆黒の〈剣〉と〈兜〉だったはずだ。
記憶が確かなら、ゾ=ミューラが選んだのは兜だ。
こんな――幼児用の〝かいじゅう変身パジャマ〟ような装備では断じてなかった。
そこまで考えて、はたと思い出す。
そういえば、俺の望みに合わせた姿になるとか言ってなかったか。
「いやいや……ないから。望んでないよ。こんなの」
それとも、心の深層ではこういうものを求めていた?
ない。
それもない。
あり得ない。
あわてて否定する。
違うだろう。自分に言い聞かせる。
今はそんなことより、これは本物の手なのか。装備なのかだ。
そして、グローブならちゃんと外せるかだ。
はずせる――よね?
不安になって、左側のグローブを脱がしにかかる。
着脱は拍子抜けするほど簡単だった。
なにしろ「はずそう」と意識した瞬間、けものグローブがひとりでに動き出したのだ。
さながら、掃除機のコードをボタン一つで巻き取るようだった。
しゅるんと丸まり、気づけば金色の輪になって手首に収まっている。
ブレスレットかミサンガで通せる形状だった。
試すと、脚の方も同じだった。
形状変化はダイナミックながらも一瞬。
あれよという間に、こちらはアンクレットよろしく足首に収まっていた。
これは……ある意味、便利なのか――?
外を出歩く場合、絶対に避けなくてはならないのは、ダークエルフであると知られることだ。
そうなると種族特有の、この褐色の肌は大変なリスクだ。
先住民族系に似ているため、短時間なら誤魔化すこともできるだろうが、安心はできない。
肌、頭髪、瞳の色はなんとしても隠しておかねばならない。
そう考えると、手足をすっぽり覆ってくれるけもの装備はうってつけだった。
しかも、おそろくずんぐりむっくりなくせ、素手と同じように器用に動かせる。
念じて見ると、予想通りグローブとグリーブはパッと元に戻った。
手をぐーぱーと握り開きしてみるが、違和感もまったくない。
なにがどうなっているのか。
どんな仕組みなのか。
まるで理解できないが、着脱可能であることには非常に大きな意味と価値があった。
――うん。
これなら使えそうだ。
というか、自分の手が獣化したんじゃなくて、本当に良かった。本当に。
ゾ=ミューラは安堵の証に、大きく嘆息する。
ちょっと落ち着け、俺。
さっきまでの自分の慌てふためき方を思い出すと、苦笑がもれた。
それで気が緩んだのかもしれない。
不意に、どっと疲れが押し寄せてきた。
思わず近くの〈ツダの木〉に寄りかかる。
気のせいか、吐きだした溜息が少し熱っぽい。
色々ありすぎた。
一度は死にかけてるし。
疲れも、出るか……
認めた瞬間、ますます身体が重くなった気がした。
今まで意識していなかっただけで、体調は相当悪かったのかもしれない。
次の瞬間、くらっと軽くめまいがしたかと思ったら、今度はそれが収まらなくなった。
たちまち立っているのが辛いほどの倦怠感に育っていく。
なんだ……これ――
ヤバイ感じの体調不良な気がする。
ぼやけ始めた頭で思った。
森に〈ピグ〉を放していない。
よく考えれば、それは魔獣が出たせいかもしれなかった。
というより、一番現実的な可能性だ。
だとしたら、弱った今の自分など格好の獲物だろう。
とにかく移動だ。
考えながら、よろよろと歩きはじめた。
飼育員の足跡を追えば道に出るはずだ。
倒れないよう、木から木へと飛び石を渡るように進んだ。
一本進むと、その度に幹にもたれる。
息を整える。
時間はかかったが、やがて狙い通りに道に出た。
とは言っても舗装もなにもない。
人と〈ピグ〉に踏みならされた林道だった。
このまま集落を目指すか。
周囲を探索するか。
コンディションと相談した末、ゾ=ミューラは後者を選んだ。
しばらく彷徨った後、その選択が正しかったことを知る。
欲しかったのは、避難できそうな小屋か、次点で水辺。
幸運なことに、ゾ=ミューラは二つを同時に見つけたのだった。
そこは、人工的に切り開かれた作業場だった。
伐採した木材の保管。加工や乾燥。
あるいは狩猟で得た大物の解体。
放した〈ピグ〉を集合場。
様々に使っているのだろう。
その奥に丸太小屋。
手前にささやかな泉という構図だった。
途中で拾った枝を杖代わりに、まず泉の方へ向かった。
生水だ。
飲めるとは限らない。
それでも、顔を洗えば少しは気分もすっきりするだろう。
そんなことを考えながら、屈んで身を乗り出す。
瞬間、ゾ=ミューラは、あやうく悲鳴をあげかけた。
跳ね上がって尻もちをつく。
うそでしょ……
うそ、だよね。
何度も繰り返しながら、おっかなびっくりもう一度、泉を覗き込んだ。
うそでも幻でもなかった。
水面にさっき見たものが同じように映し出されていた。
それは虎のような獅子のような、なんとも微妙な肉食獣だった。
目を丸くして、驚いたようにこちらを見つめている。
恐怖も脅威もまるで感じないのは、ご当地ゆるキャラにいそうな、害意ゼロのまんまる顔だからだ。
ゾ=ミューラが目をしばたくと、向こうも同じタイミング、同じ回数のまばたきを繰り返した。
くりくりとした、黒く大きな、愛らしい瞳だった。
「神様……うそでしょ」
かすれた小声が、獣の口から漏れる。
ほぼ同時、一際強烈な頭痛が襲ってきた。
殴られらたと錯覚しそうな、ガツンという衝撃が脳を突き抜ける。
ぐるんと世界が高速回転した。
一瞬、空が見えた。
と同時、目の前が真っ黒になる。
典型的ブラックアウト。
あ、これヤバイ。
そう思った時にはもう、ゾ=ミューラは意識を手放していた。
そのまましばらく気を失っていたのか。
あるいは脳震盪に似た虚ろな状態で死体のように横たわっていたのか。
どちらかは分からない。
知る術もない。
ただ、どれくらいしてか、ゾ=ミューラは近づいてくる足音に気がづいた。
身体はぴくりとも動かせない。
それが夢であれ、朦朧とした意識で認識する現実であれ、何者かの接近をただ受け入れるしかなかった。
やがて、足音がとまる。
あの――
その声はどこか遠く聞こえた。
反響し、酷く聞き取りにくい。
水中から外の音を拾っているかのようだった。
ふ…、……こと…ない………な。
あの、そん…に……いたら……
心……ない。動く……はない。
声は二種類だった。
分かるのはそれだけで、酷く歪んで年代も、性別すらはっきりしない。
だが、倒れた自分を見下ろし、検分しているのであろことだけは理解できた。
魔物…すか? 死……る…ですか?
気を失……いるようだ。魔…かは――微妙だな。
怖いけど、なんだ……わいいです。
……くとも村の……とは別物じゃないか?
あの、……するん…すか?
放って…くのもなぁ。小…に運び……よう。
……夫でしょうか?
重そ…だ。毛布を…ってき…くれ。……て引っ…ろう。
…、はい。
また足音がした。今度はぱたぱたと遠ざかっていく。
その人物はすぐに戻ってきて、また会話が再開される。
だが、それは最初よりさらに遠く、歪み、ほとんど聞き取れない。
そのままゾ=ミューラの意識は、更に深い所へ落ちていった。