邪神クーネカップ
今日この日、自分が死ぬことは知っていた。
極度の疲労。脱水。そして出血。
双剣を握る両腕が鉛のように重い。
喉の深いところで血の味がする。
もう一歩も動けない。
脚は次に踏み出そうとした瞬間、確実に両方とも痙る。
ビクビクと痙攣するふくらはぎの筋肉がその警告だった。
そして今、とどめとばかりに左側が見えなくなった。
ぱっくり割れた額から、顔面を覆い尽くす勢いで鮮血があふれ出ている。
それが目に入り込んだのだ。
血で塞がれると視界は黒く染まると思われがちだ。
しかし、実際は逆だ。白一色になる。
やばい、これまったく見えな――
思うより先に、左の太ももに激痛が走っていた。
潰れた目でそちらは見えない。
だが何が起こったかは分かった。
傷口に熱い吐息が吹きかっている。
何より、そこから聞こえてくる殺気そのものを音声に変えたかのような獣の唸り。
ガデュリンは、古語で〈穿つ影〉の意味を持つ獣だ。
遠目にはオオカミに似ている。
だが、間近で見ると似ても似つかない化物だ。体長は中型犬ほど。
なのに、牙のサイズはおぞましくも軍用ナイフにも匹敵する。
その大牙が二本。
筋繊維を深々と切断し、骨まで達したのが分かった。
まずかったのは、途中に重要な血管が存在したことだ。
破れれば出血死と言われる、大腿動脈だった。
――ああ、これはもう……
そう、死ぬこと自体は、こうなる前から分かっていた。
なにせ、里を襲ったのは三桁におよぶ魔物の群れだ。
族長は、あっさり里の防衛をあきらめた。
反論も出なかった。
人型爬虫類やエキドナの集団を見れば、誰でも同じ結論に至る。
だからこそ――
「お前は残って足止めしろ」
族長から命じられた時点で、運命は決した。
もちろん、拒絶は不可能だった。
奴隷に堕とされた者なら誰もが知ることだ。
「待て」と言われれば、たとえ目の前に食物が置かれていても餓死するまでその場を動けない。
刻まれた〈隷紋〉が意思とは無関係にそうさせる。
「とにかく時間を稼げ。簡単には死ぬなよ? 生き汚くあがくのは得意だろう。一族の役に立てるのだ。光栄に思え、面汚し」
言い捨て、同胞はそそくさと立ち去っていった。
誰一人、一度たりとも振り返らなかった。
それどころか去り際、里に火を放ってさえいった。
――そうか。俺は今日、死ぬのか。
燃えさかる炎。
そして、濃霧のようにもうもうと周囲を覆い尽くし始める白煙。
その向こう側へ消えていく仲間たちの背中。
それらを呆然と眺め、煙にむせながら、ぼんやり理解した。
そうして、当時まだ予感に過ぎなかった死は、たった今、確定事項に変わったというわけだ。
それでも〈隷紋〉はあきらめることを許してくれなかった。
左手の愛剣を手のひらでくるりと一回転させた。逆手に持ち替える。
と同時、太股の魔獣へ突き立てた。
確かに手応え。
すかさずねじ込むように刃を回転させ、速やかに息の根を止めた。
それでもガデュリンの牙は、肉に食い込んだまま離れなかった。
傷口から、びっくりするような勢いで鮮血が溢れ出しているのを感じる。
まるでトイレに間に合わなかった子どもだ。
じゅわじゅわと下半身を血潮の温かな感覚が覆っていく。
といって、死体を引き剥がしている暇はなかった。
そこに刺した剣を抜く余裕も、また。
既に、残りの二匹が疾駆をはじめている。
膝から崩れ落ちながら、その片方へ右手に残った短剣を投げた。
どうせもう握力も死んでいる。
ただ落とすなら、この方が良い。
最後の奇跡といったところか。
愛剣は、吸い込まれるようにガデュリンの喉元に突き刺さった。
魔獣がカクンといきなりつんのめる。
そのまま鼻先から地面に突っ込んだ。
そして永遠に動かなくなる。
残り、一匹。
でもこれでもう――
空っぽの両手。動かない脚。
身体は多分、もう死んでいて〈隷紋〉が命の残りカスを集めて何とか動かしている。
気づくと、最後のガデュリンが宙を舞っていた。
よく聞く話だが、人生最後の光景はスローモーションのようにゆっくりと見えた。
涎を撒き散らしながら、大きく開かれた口蓋が迫ってくる。
あっと思った時には、もう生臭い吐息が感じられる距離だった。
同時、目の前が真っ暗になった。
気が遠くなったのか。反射的に目を閉じたのか。
疲労や貧血や他の何かで視力が限界を迎えたのか。
自分の事なのに分からない。
なんであろうと良い。
どうせ、もう終わりなのだから。
ただ、それにしても――
今度も酷い人生だったなあ……
しみじみ思った。
享年、約一七歳。
今生はいわゆるダークエルフとして生を受けた。
古い言葉ではブラーイン。
〈黒き者〉を意味する亜人だった。
一族としては標準的な家庭環境の生まれで、ミューラという名を授かった。
そこまでは良い。
虫や植物になるよりはマシだろう。
だが、そんな慰めも空しくなるほど、ブラーインの文化は最悪だった。
極めて原始的と言うのか。その価値観は獣にすら近しいものがあった。
彼らは「力こそ全て」を地でいく種族だった。
強者が全てを手にし、弱者を従える。
この極めて単純明快なあり方こそブラーインの法であり宗教なのだ。
必然、彼らは倫理や道徳といった枷に縛られない。
人生は、ただ本能的欲望の追求のためだけにあった。
奪い、騙し、裏切り、呑み、喰らい、犯し、殺す。
他人の都合を一切かえりみず、自分の都合を最優先するブラーインは、あらゆるものに対し限りなく残忍になれる種族だった。
当然のように、人間をはじめとする全ての他種族に恐れられ、憎悪されていた。
だが、ミューラは違った。
乳幼児の時点で既に、その狂い方は誰の目から見てもはっきりしていた。
なにせ、略奪に顔をしかめる。
弱者の悲鳴を喜ばない。
他人を破滅させ、自分の力を示すことを名誉としない。
むしろ、ミューラは他人を助けたがった。持たざる者に施した。
邪悪な種族として知られるブラーインに、間違って「優しさ」を持って生まれた特殊異常個体。
それが〈ゾ〉族のミューラ。
ゾ=ミューラだった。
――でも、当たり前なんだよなあ。
日本人の価値観を知ってるんだから。
ミューラ本人に言わせれば、その一言に尽きる。
生まれた時点で、既に自分ではない誰かの記憶があった。
断片的にではあるが、何者かの人生の各シーンが、時々アルバムをめくるように脳裏に浮かんでくるのだ。
それは時に、名前や住所のような単なる情報だった。
だが時には家族動画の上映のようでもあった。
本当に、自分がかつて三浦崇なる異世界人であったのかは分からない。
なんとなく、前世と言われても納得はできる。
一方で彼は赤の他人で、まだ死んですらいないかもしれない。
たまたま何かの波長がぴったり合っただけ。
そのせいで、知識や記憶を電波のように受信しているだけ。
そんなオチでも驚きはない。
むしろそう考える方が自然にも思える。
正解は分からない。
だが、確かなこともあった。
ミウラ・シュウもまた、自分を組織の奴隷と自嘲しながら生きていたこと。
彼の影響を強く受けたせいで、ゾ=ミューラが一族から異端視されたこと。
それが憎悪と排斥に変わるまで、さほど時間はかからなかったこと。
最終的には「面汚し」と呼ばれ、〈隷紋〉を刻まれたこと。
それがまさしく奴隷の証であったこと。
ダークエルフとしての生き方を強制的させるものであったこと――だ。
幸か不幸か、ゾ=ミューラは一族の中でも身体能力に秀でていた。
武器の扱いにも適性があった。
ブラーインとも呼ばれる同胞たちはまるで吸血鬼のように日光を嫌う。
だが、ゾ=ミューラは何故か太陽に強い耐性を持ってさえもいた。
外に出ての狩猟。
人の街での諜報。
破壊工作。
そして暗殺。
何事につけ使い勝手のよい道具だったことは間違いない。
でなければ、幼児のうちに殺されていただろう。
生かされるかわりに、所有者となった族長には便利なコマとして酷使され続けた。
彼は逆らえないミューラに、数々の汚れ仕事を押しつけた。
時には子どもや女性の殺害をも強要された。
どんなに懇願しても許されず、〈隷紋〉を通して命じられれば逆らう術はなかった。
それでも自分なりに、一族のために尽くしてきたつもりだった。
家事や雑用。
警護。
狩り。
やれる範囲のことは、命じられずとも自発的に行った。
馴染もう、理解しようと努力した。したつもりだった。
――その結果が、これだ。
あらゆる善意は踏みにじられ、すべての努力はあざ笑われた。
いつだって、誰かに利用される。
何かあれば真っ先に斬り捨てられる。
食い物にされるだけの存在。
社会の底辺。
負け組。
二度もそんな人生続きだった。
もし、本当に生まれ変わりなんてものがあっても、もう俺はいい。
次なんてなくて。
このまま終わりで――
そこまで考えて、気付いた。
その「終わり」はもう訪れて良いはずではないか。
あれからどれくらい経った?
俺はガデュリンを倒していたのか?
それとも、知らないうちにもう死んだのか。
無意識に、まぶたを開いた。
何度かゆっくりまばたきすると、視界がクリアになる。
まどろみから覚めるように、思考も戻りつつあった。
次の瞬間、ミューラは跳ね起きていた。
明らかに異常だった。
完全に潰れていたはずの左目がハッキリ見える。
思わず顔にやった左手には、べったり付着するはずの脂汗や血の感触がない。
そのままぺたぺたと顔や身体を触れ回るが、痛みを全く感じなかった。
あれほど酷かった疲労もない。
それどころか、たっぷり昼まで眠った休日のような爽快感がある。
決定的なのは左脚だった。
致命傷はもちろん、血痕のひとつも見当たらない。
「は……?」
思わず声が出た。
ここは――死後の世界か?
すると、俺はライヴストリームに取り込まれたのか?
いや、だとしたら肉体を失って意識だけの存在になってるはずだ。
一説によれば意識すらなくし、巨大なエネルギィの奔流の一部になるわけだから。
呆然としながら、辺りを見回す。
それで、そこが炎に包まれ崩壊したダークエルフの里ではないことに気付いた。
地面は舞台のスモークのような靄に覆われている。
明らかに火災による白煙とは別物だった。
炎上、倒壊した家屋もない。
死屍累々と横たわる魔物の死骸も見当たらない。
ひやりとした大理石のような平面の大地と、果ての見えない虚無の空間がどこまでも広がっている。
本当にあの世か。
いよいよ焦燥感に胸がざわめく。
その時、突然、男の野太い声が響き渡った。
「おおッ……ぉお!」
振り向くと、五歩ほどの距離に男が立っていた。
種族は人間。
おそらくは移民系だろう。
角張った顔だちは、イースター島のモアイ像さながら。
顔の右半分をびっしりと覆い尽くすグロテスクな黒い刺青が、年齢の推定を難しくしていた。
男は、足首まで伸びる真っ黒い長衣をまとっていた。
ミウラ・シュウの記憶では、地球の神父服がもっともイメージに近い。
身長は日本の成人女性ほど。
しかし華奢な感じはまったくない。
分厚い胸板や丸太のような腕部の筋肉で、服は今にもはち切れそうだった。
男はまるで生き別れの兄弟を見つけたように、滝のような涙を流していた。
よたよたと走り、凍り付くゾ=ミューラに近づいてくる。
気づけば、包み込むように両手を握られていた。
「会いたかったッ」
頬を伝った涙が、あごからぼとぼととしたたり落ちていた。
「おお、魂の同胞よ。あなたが、あなたこそがゾ=ミューラなのですね。いえいえ、あるいはミウラ・シュウとお呼びすべきでしょうか?〈夜の風〉よ、このお導きに感謝いたします」
鳥肌が立った。
呼吸も忘れて、男を見つめた。
日本人としての記憶があることは、誰にも話したことがない。
両親には幼い頃、「前世の記憶がある」程度の告白はした。
が、詳細を語ったことは断じて一度もなかった。
例外は姉だが、それでもミウラ・シュウの名前までは教えていない。
「……なんで、それを」
ようやくそれだけ喉から絞り出した。
相手の口元に、落ち着かせるような微笑が浮かぶ。
「何も恐れることはありません、兄弟よ。なぜか? 我等の神は全てをご存じだからです」
――神?
ゾ=ミューラは、向き合う男が自分を見ていないことに気づいた。
その視線は肩越しに、ミューラの背後へと注がれている。
熱に浮かされたような、恍惚とした表情だった。
自分でも理解できない衝動にかられ、ミューラは弾かれたように振り返った。
一〇メートルほど先。
白いスモークの向こう側に、それはいた。
シルエットだけなら、ネコ科の大型肉食獣のように見えた。
だが、明らかに生物などではなかった。
むしろ生命を冒涜するような、おぞましく、許しがたい何かだった。
黒い水晶を削り出して強引に獣の形にしたかのようなその化物は、意思を持つように動き、音も立てずに歩み寄ってくる。
距離が最初の半分になった頃だった。
唐突に、その背中がぼこぼこと泡立ちはじめた。
まるで融解した金属のように不規則に蠢いている。
そしてチューブからひねり出されるクリームのようにうねりながら、大きく盛り上がっていった。
ゾ=ミューラは、カチカチという奇妙な音を聞きながら、呆然とその様を眺めていた。
異音が自分の奥歯がカチ合うものだと気づくのと、果たしてどちらが早かったか。
黒曜石の獣から生え出た異形の何かは、歪ながらも女性の上半身を形作っていた。
液体金属のようだった見かけは、急速冷凍でもされたように硬化し、獣部分と変わらないクリスタル状に固定されている。
その姿を見た瞬間、ゾ=ミューラは理解した。
自分が今、直面しているものの正体を、知った。
――邪神クーネカップ。
それは、ブラーインことダークエルフの信仰する神の名だった。
一説によれば女神。
だが、ジャガーに似た獣の姿を良くとるというこの絶対者を前に、そもそも性別の概念など意味を成さないとする声も大きい。
世界に現臨した神々の中でもとりわけ強大な力を持つとされる彼女の複雑な神性と脅威は、その数々の二つ名――〈両方の敵〉〈全能者〉〈夜の風〉〈我らを生かす者〉〈高貴なる魔術師〉〈天と地の所有者〉等――にも如実にあらわれている。
そんなクーネカップは、知的生命体の〝精神〟に関心を持つと言われていた。
特に健康でありながら鬱屈した側面を持つ人族を好み、戯れに強大な力や不和の種を授けては、混乱をもたらすという。
そんな大神がなんで――
「同志、ゾ=ミューラ。〈我等を生かす者〉は、あなたに特別な興味をお持ちなのです」
背後からの声に、ゾ=ミューラはびくりとする。
神父もどきの男は、言葉を続けながら歩き出だした。
「なぜか? ここではない世界に根源の一部を持つ者。それ故に慈悲の心をもって生まれたブラーイン。このような者がかつてこのオルビス・ソーの世界にあったでしょうか? そう、あなたは特別な存在なのです」
ゆっくり正面に回り込み、男はにっこりと笑った。
「しかし特別であるが故、愛を知るが故に、あなたは同じブラーインたちに疎まれ、蔑まれ、虐げられました。あなたは彼らの理解につとめ、尽くし、手を差し伸べたのに!
その愛に、彼らは隷紋を刻むことでこたえ、魔物の群れに生け贄としてあなたを捧げました。裏切ったのです! そう、まさに不和」
もはや、「なぜ知っている」というような疑問はなかった。
「我等が神は、霧を! 敵意を! 誘惑を! そして不和を愛し、司るのです。さあ、手を取りなさいブラーインの聖者、ダークエルフの異端者よ」
男は興奮で顔を紅潮させ、両手を天にかかげた。
「あちらの世界も、そしてこの世界オルビス・ソーも! 決して、あなたを認めませんでした。正当な評価をせず、敗者の烙印を押しつけたのです。そう、二度までも!」
不意に、かつて経験にない寒気に全身を襲われた。
ゾ=ミューラはガチガチと震えながら、男から目を逸らす。
そして誘われるように女神クーネカップへと――
視線を向けてしまった。
新しく生まれた女性の上半身部分。
そのちょうど腹の辺りが、また沸騰するように煮立ちはじめていた。
弾けた泡から飛沫が散るのが見えた。
飛び出した黒い破片は、宙空でからみ合い、細胞分裂のように複雑化し、肥大化し、やがて二つの塊になった。
そして意思を持つように、掲げられた男の両手にそれぞれ飛んでいく。
「ゾ=ミューラよ。またはミウラ・シュウよ。あなたは、自分を認めなかった世界が憎くはありませんか? 利用するだけし、食い物にして捨てた同胞に復讐したいとは思いませんか?」
男がやさしく問いかけてくる。
「あなたが理不尽に復讐を望むのなら。世界に敵意を抱くのなら。クーネカップ神はそれを成すための力、異能をあなたに捧げるでしょう。すなわち、そう――神器です」
言葉と共に、男の両手がゆっくりとミューラへ差し出される。
その手のひらに浮かぶ二つの黒い塊は、剣と兜に形を変えていた。
いずれも、女神と同じ黒曜石を思わせる得体の知れない物質で構成されていた。
右の剣は邪悪そのものの短剣。
殺意と怨念をそのまま形に変えたかのような禍々しい刃の形状が特徴的だった。
左の兜は、獣の姿をとった女神の頭部をそのまま斬り落としたような意匠だ。
「さあ、直感のまま、導かれるまま、望む方を手に取りなさい。神器はその願いに感応し、あなたに合わせた姿をとって力となるでしょう。そして蹂躙するのです。不和を撒き散らすのです。あなたを認めなかった、裏切った、捨て去った世界に!」
もう、声は半分耳を素通りしていた。
神器から目を離せない。
意思や思考よりもっと深い部分。
魂の欲求がゾ=ミューラの身体を動かしていた。
自分の震える手が、ゆっくりと神器へ伸ばされていくのをどこか他人事のように見守る。
指先がそれに触れた瞬間。
神器は擬態していた食虫花のようにいきなり形を変え、ゾ=ミューラに飛びかかった。
最後に見たのは、視界いっぱいに広がって自分を飲み込もうとする絶望の漆黒だった。