96 アーガンの願い
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「共鳴感覚……」
緑、赤、白、青。
四つの領地から成るマルクト国には、方向感覚を狂わすだけでなく時に意識も失わせる領地境がある。
目に見えているにもかかわらず、ただ真っ直ぐに進むことすら出来ない。
そんな魔の境界を無事に抜けるために利用される共鳴感覚の所持は、魔力の有無にかかわらない。
だが通常は複数の加護を感知することは出来ないし、日常には利用価値のない能力である。
セイジェルや彼の側仕えたちが緑の魔力に気づいたのは、その共鳴感覚が関係しているのではないかと言われ、ミラーカはアーガンの言葉を口の中で呟く。
「もちろんわたしの考えです。
その……正直なところ、閣下や筆頭殿たちの関心がどういったものなのかよくわからないのですが、以前から他の加護に興味をお持ちなのは間違いないかと」
「それはわたくしも存じております。
ですからラクロワ卿夫人の提言を受け入れ、魔術師団に白以外の魔術師を受け入れる決断をなさったのでしょう」
白の魔術師団団長ランドグルーベ卿ダレルの猛反発を受けながらもセイジェルは領主の権限を最大限に振りかざして断行したのである。
これには魔術師団だけでなく神殿に所属する神官たちの反発もあったが、セイジェルは全てを豪腕で斥け、叔母であるラクロワ卿夫人エルデリアの提言を受け入れたのである。
もちろんセイジェルなりに根拠や理由、目的や効果を示したけれど、排他的な保守派が耳を貸すはずもなく、上辺こそ取り繕っているけれど、きっと今でも白以外の魔術師を追い出す機会を窺っているに違いない。
「わたくしも個人的にはご英断だと思っています。
でも魔術師団や神殿とのあいだに溝が出来たように思われます。
元々神殿は神殿長と神官長とで派閥割れしておりますけど……」
「叔父上にもご苦労なことです。
閣下も、やや強引でしたし」
苦笑いを浮かべるアーガンは 「ですが」 と言葉を継ぐ。
「そう考えますと、閣下は以前に緑の魔力に触れる機会を設けていて、緑の魔力に対しても共鳴感覚を得てることが出来たのかもしれません」
共鳴感覚は日常生活には役に立たないといわれる能力のため、ほとんど研究がされておらず昔から見解にかわりはない。
だからミラーカにはアーガンの話が意外だったのだろう。
実は話しているアーガンにも意外だったから、姉の 「そんなことが出来るのですか?」 という問い掛けに困惑を隠せない。
「もちろん断言は出来ませんが、実際に閣下や筆頭殿たちが緑の魔力に気づかれたのでしたら可能性はあるかと」
するとミラーカは 「そう」 と呟いてしばし思案に耽る。
「……でも、そうねぇ、閣下とあのクソ魔術師ども……」
「姉上、言葉をお慎みください」
「かまいません」
この場合、かまうかまわないかを判断するのはミラーカではないのだが、あまりにもきっぱりと言い切る姉に、アーガンは言い返そうとした言葉を飲み込む。
セイジェルはともかく、ミラーカのこんな発言があの側仕えたちの耳に入ればまた一悶着……というほどの大事にはならないまでも、なにやら難癖をつけてくるのは目に見えているというのに、全く困ったものである。
「……誰も目を向けないからこそ研究のしがいがある……とは言いましても共鳴感覚は……」
「術ではございませんので、なかかな研究も難しいかと」
「あれこそ天賦の才ですわ」
魔術師団、あるいは神殿に所属する神官は、日々の研究を所属機関に報告する義務を負う。
神官には後継の育成などに関わる仕事もあるため研究一筋というわけにはいかないが、そういったことを含めて日々の業務を報告する義務がある。
魔術師団に至っては、研究成果だけでなく、日頃の鍛錬も報告する義務を負う。
だから目新しい研究成果や発見があれば知れ渡るのも早いのだが、セイジェル・クラカラインとそのお抱え魔術師の研究については、個人でしていることなので特に報告義務はない。
それこそウィルライト城はクラカライン家の所有だから、城内の施設は自由に使えて当然。
建物の一つや二つ吹っ飛ばしても、周りは苦言を呈するのがせいぜい。
しかもそれらにかかる費用は全て、クラカライン家の莫大な資産で賄われているのである。
だから彼らがなにに興味を持ってどんな研究をしているのか、彼らのほうから発表でもしなければ知る由はないのである。
これに限っては、おそらく親しくしているセルジュですら知らないに違いない。
「こちらのお屋敷には膨大な魔術書が秘蔵されていると聞きますが、なにか記されているものがあるのでしょうか?」
「もしあるとしても、まず図書室に入るお許しが出ないでしょう」
「わかっています。
だからこそ読みたいのではありませんか」
「姉上……」
隠されれば隠されるほど知りたくなる。
そんな人の性に正直すぎるほど正直な姉に、アーガンは小さく息を吐くだけ。
だが彼も魔術師である。
なかなか面白い話だと思ったし、やはりノエルが緑の魔力を持っているかもしれないという話は気になるところでもある。
しかもセイジェルや五人のお抱え魔術師が緑の魔力を感じる能力があるという話はともかく、現在進行形で彼らが緑の魔力に興味を持っているのはノエルが切っ掛けと考えて間違いないだろう。
これも気になるところである。
とりあえず姉に、まかり間違ってもクラカライン家の図書室や領主の書斎に忍び込むようなことはしないようにとうっかり釘を刺してしまい、逆に叱られて再び口を噤んだのだが、ふと思い出したように尋ねてみる。
「そういえば最近、姫様がお怪我をなさるようなことはございませんか?」
「ありません」
きっぱりと言い切ったミラーカだが、すぐに口調を改めて言葉を継ぐ。
「たまに蹴躓かれることはありますけれど……そういえば先日は転ばれたところをみどりちゃんが姫様を庇ってくれたのです」
その様子がミラーカたちにはとても可愛かったのだが、ノエル自身はみどりちゃんをクッション代わりにしてしまったことに大泣きしてみどりちゃんに謝っていたという。
「玩具に、ですか」
「あの子たちは姫様にとってとても大切なお友だちなのですよ」
だから当然だと、なぜか少し誇らしげな様子を見せるミラーカだが、弟のアーガンは、ミラーカが 「姫様、今後、ほっぺたにスリスリするのはしろちゃんたちとだけの特別な挨拶にしましょう」 と言ったのにノエルが 「わかった」 と答えた時の落胆を思い出して気落ちしてしまう。
だがそれでも、ノエルが怪我をするようなことがなくてよかったという安堵はある。
アーガンの手応えでは、ミラーカはノエルに治癒の能力があるということに気づいていない。
これについても安堵したが、ひょっとしたら気づいていて、アーガンが知らないと思って隠している可能性も十分にある。
それこそ十分すぎるほど可能性はあるのだが、箝口令が敷かれている事柄でもある。
今はこれ以上追及せず、久しぶりに会った姉とあれやこれやと会話を交わす。
そんな姉弟の談話を中断したのはマディンである。
「どうかして?」
ミラーカに促されたマディンは、戸口で直立したまま用件を告げる。
「旦那様よりリンデルト公子にご伝言が届きましてございます。
夕食をご一緒に、との仰せでございます」
「閣下と夕食を……」
もちろん断れる立場ではない。
だが断りたいアーガンは理由を探し、とっさにイエルのことを思い出す。
「折角ではありますが、今日は部下を伴っております。
また別の機会に……」
「旦那様は同伴された騎士殿もご招待したいと仰せにございます」
(詰んだ……)
マディンは 「最近の騎士団のご様子などを伺いたいと……」 といったセイジェルからの言葉を続けていたが、唯一の逃げ道を失ったアーガンは天井を仰ぐ。
決してセイジェルとの食事が嫌なわけではない。
子どもの頃、父の伴をしてクラカライン屋敷を訪れた日には、お茶だけでなく、昼食や夕食に招かれることも少なくなかった。
だがあくまでそれは子どもの頃の話である。
成人した今は近づきすぎず、だがセイジェルの厚意を無下にすることのないように、適度な距離感を保たなければならない。
その難しさは未だ克服出来ず、苦手意識となっている。
剣の相手ならば喜んで務めるのだが……。
正式な食事会ではないから気を楽に……というマディンに訊いてみたところ、ミラーカはもちろんセルジュも同席するらしい。
なにかあればどちらかが助け船を出してくれるだろうと、あまりあてにならない二人を頼みに、結局夕食の席に着くことになった。
「宿舎や我が家ではいただけないような食事でしてよ」
「それはもちろん楽しみなのですが……」
気乗りしない弟を元気づけようとしたのか。
そんなことを言っていたミラーカだが、男性と違って女性は身支度に時間や手間が掛かるもの。
ほどなくイエルとニーナがノエルの部屋に戻って来ると、食事の時間に余裕をもってミラーカは自室に引き取る。
もちろんジョアンとアスリンを引き連れて。
居室でイエルとニーナのエデエ兄妹と三人になったアーガンは、立ったままの二人に話し掛ける。
「ゆっくり話せたか?」
「お陰様で」
「お気遣いありがとうございます」
「礼ならば姉上に。
それよりイエル、ニーナ殿も、掛けてはどうだ?」
一人だけすわっていることに居心地の悪さを覚えたアーガンは二人にもすわることを勧めるが、立っている方が落ち着くからと兄妹揃ってよく似た笑顔で断られてしまう。
だからと言ってアーガンまで立つわけにもいかず、今更感も強い。
そんな居心地の悪さを誤魔化すように話を続ける。
「先程閣下から夕食のご招待をいただいたのだが……」
「伺いました。
どうしても俺も出席しなければならないのでしょうか?」
「俺が断れなかったものをお前が断れるのか?」
「ですよね」
苦笑いを浮かべながら落胆するイエルの隣でニーナが笑う。
「しっかりしてよ兄さん、騎士でしょう」
「お前は宿舎での飯の様子を知らないからそんなことが言えるんだよ」
当然ながら騎士団は男所帯である。
食事の世話や掃除、洗濯などの雑事をする女性もいるにはいるが基本的には男所帯で、自室の掃除はもちろん、洗濯も自分でするのが原則である。
見習い時代に身の回りのことは自分で出来るように叩き込まれているのだが、公式の場で必要なテーブルマナーなども一緒に叩き込まれているはずなのに、日頃はそれこそマナーもへったくれもないと話すイエルは溜息を吐く。
せめてもっと早くに教えておいてくれれば心づもりも出来なのに……と泣き言を続けるイエルに、今度はアーガンが小さく息を吐く。
そして言う。
「あの方は一見生真面目な方だが、時々こういった悪戯のようなことをなさる。
姫様に玩具をお与えになったのも、案外そんな感じだったのかもしれんな」
ここで一度言葉を切り、あることに気づく。
そして今度はニーナに尋ねる。
「そういえばニーナ殿、姫様の着替えはよろしいのか?
姉上はさっさとご自分だけ支度に行かれたが……」
「姫様は夕食を召し上がりませんから」
アーガンの気遣いにニーナは申し訳なさそうな顔で返す。
すぐさま 「なぜ」 と返されるアーガンの問いに、正確には食べないわけではないことを話す。
「姫様はいつも、お夕食は皆様より早い時間にお一人で召し上がります。
お休みになる時間が早いものですから」
だが今日はこのまま朝まで眠り続けるだろう。
特に珍しいことではなく、こんな時はセイジェルも無理に起こす必要はないといい、無理にでも夕食の時間を自分たちと合わせる必要もないという。
実際に夕食の席でアーガンたちと顔を合わせたセイジェルは、その場にノエルがいないことを特に気に留めることはなかった。
「アーガン、今日はあれが迷惑を掛けなかったか?」
「迷惑だなんてとんでもございません。
自分も、姫様がどうお過ごしでいらっしゃるか気に掛かっておりましたので、お会い出来て良かったです」
夕食の時間になって昼食と同じ食堂に案内されたアーガンは、昼間はノエルがすわっていた場所にすわる屋敷の主人とゆっくり言葉を交わす。
「思っていた以上にお元気そうで。
それに楽しく過ごされているようで、安心いたしました」
「そうか。
そうだな、屋敷に来た当初に比べればずいぶんましになったか。
今日は夕食を摂らなかったようだが、途中で具合でも悪くなったのか?」
「違いますわ」
アーガンではなくセルジュの隣にすわるミラーカが答える。
「アーガンとお喋りが過ぎて疲れて眠ってしまわれただけです。
でもいつもより昼食を沢山召し上がっておられましたわ」
「あれでいつもより多い……」
思わず呟くアーガンに、広いテーブルを挟んだ斜向かいにすわるミラーカが返す。
「あなたたちと比べるものではなくてよ」
それこそ何から何まで違いすぎると口を尖らせるミラーカに、アーガンは小さく苦笑を浮かべる。
「もちろんそれはわかっていますが……」
「あれのことは任せている。
問題なく過ごしているのならそれでいい」
「閣下、姫様のことをあれとおっしゃるのはおやめください」
即座にミラーカが言い返したためアーガンは口を挟めずにいたが、本当に問題はないのだろうか? ……という疑問を抱く。
もちろんミラーカが話していた緑の魔力を含めた魔術的なことである。
いずれノエルも、魔力の有無にかかわらず魔術について学ぶことになるだろうが、白の領地で教わる基本知識は白の魔術についてである。
やはり心配になるアーガンだが、クラカライン家のことに口出しは無用。
ならばせめて……と考えてセイジェルに申し出る。
「閣下、一つお願いをしてもよろしいでしょうか?」
無言のセイジェルが視線を向けるのを見てアーガンは言葉を継ぐ。
「食事のあと、もう一度姫様にお会いしてもよろしいでしょうか?」
「今日はもう眠っているのだろう?」
「承知しております。
もちろんお起こしするようなことはいたしません。
ただ、お別れのご挨拶をしておりませんでしたので」
「近く、また呼ばれると思うが」
「もちろんいつなりと馳せ参じます」
「好きにしなさい」
「ありがとうございます」
アーガンがテーブルに両手を着いて頭を下げたところで会話が途切れると、いつものようにセイジェルが祈りの言葉を捧げ、食事が始まる。
「日々の糧を恵み給う光と風に感謝を……」
昼間、マディンから 「正式な食事会ではない」 と聞いていたとおり堅苦しさはなかったが、やはり領主が同席すると 「気楽」 とはいかないもの。
食事の内容も昼食よりさらに豪華なものがテーブルに並べられたが、アーガンはともかく、イエルはとても食べた気にはならなかったに違いない。
アーガンと同じ騎士とはいえ、イエルは平民の出身である。
領主のそば近くで声を聴く機会などそうあることではなく、本来ならば同じ食卓に着ける身分でもない。
まして名前を呼ばれたり話し掛けてもらうなんて、あるはずもない。
もともとハンナベレナの町で警備兵をしていたイエルは、警備隊隊長の推薦で騎士となったたたき上げである。
それこそごく短い見習い期間でテーブルマナーまで叩き込まれ、騎士の勲位を受けた。
そんなイエルが騎士になるずっと以前から、セイジェルは執務の合間を縫って騎士団の修錬場を訪れていた。
騎士たちと同じボロボロになった修錬用の防具を身につけ、修錬用に刃を潰した剣を持って騎士たちに混じって剣技を磨いていたのである。
だがすぐに教練師団の荒くれたちがその存在に気づくと無遠慮に手合わせを挑み、一切の手加減なしに打ち負かすのである。
「まぁ~だまだですなぁ、閣下ぁ~!」
などと、これまた無遠慮に正体を明かすものだから、イエルも何度かそば近くでその姿を見ることはあった。
食事のあいだも、アーガンやイエルに気を遣ってか、セイジェルは騎士団や剣のことを話題にしたが、緊張と興奮で、イエルはアーガンとセイジェルの会話に入ることは出来なかった。
騎士団の宿舎に戻ってからも落ち着かず、おかげでよくその夜は眠れなかったらしい。
なんでもそつなく器用にこなすイエルにしては珍しく、翌朝には目の下に隈を作っていたほどである。
一方のアーガンは、食事を終えるとミラーカの案内で暇の挨拶にノエルの部屋を訪れた。
もちろん部屋の主人であるノエルが眠っていることは承知の上である。
しばらく寝台のそばに立って寝息を立てるノエルの寝顔を見ていたアーガンだったが、おもむろに寝台の上に転がっているももちゃんに手を伸ばす。
そして大きな両手で捧げ持つと、ノエルを起こさないようにひっそりとももちゃんに話し掛ける。
「そなたは焔を加護するものと見受ける。
どうか強く気高き焔とともに、お側にいられないわたしに代わって姫をお守りください。
その熱をもって全ての魔を斥け、厄災を祓い清め給え。
どうか……頼んだぞ、ももちゃん」
決してアーガンの声は大きくなかったが、静かな部屋にその声はよく響く。
イエルを始め、その場に立ち会った誰もが静かにアーガンの祈りをきいていたが、しばらくして、ふと思ったようにアーガンの隣に立っていたミラーカが言う。
弟が、いつまでもももちゃんを持っていたことが気になったらしい。
「アーガン、言っておきますがスリスリは許しませんからね」
「……しません」
思わぬ姉の言葉に、さすがに恥ずかしくなったアーガンはももちゃんをノエルの枕元に座らせて帰ることにした。
そうして無事にノエルと再会を果たしたアーガンだったが、まだ終わりではなかった。
いや、アーガンにとってはとても満足のいく再会として無事に終わったのだが、セイジェルやクラカライン家にとってはまだ終っていなかったのである。
翌朝いつもの時間に家族用の食事室に集まったセイジェルとセルジュだったが、時間を過ぎてもノエルとミラーカがやってこないのである。
以前はジョアンとアスリンがノエルの身支度をしていた都合で、朝からノエルの部屋を訪れていたミラーカが一緒に食事室まで来ていたのだが、今はニーナにノエルの朝の身支度を任せ、ミラーカは部屋まで迎えに来るセルジュと一緒に食事室に来るようになっていた。
だが今朝のセルジュは一人で食事室にやってきたのである。
セイジェルも珍しいと思ったのか、セルジュに尋ねてみる。
「喧嘩でもしたのか?」
すぐさまやや語気を強めて 「まさか」 と返したセルジュは、一呼吸ほどおいて口調を改める。
「……なにか気になることがあるらしい」
それで今朝はノエルの部屋に寄ってから食事室に行くと、ミラーカの側仕えアスリンが報せに来たという。
なにもなければノエルと一緒に来るはずだが……とセルジュが歯切れの悪い返事をしていると、今日のお伴である側仕えのヘルツェンが 「旦那様」 と声を掛ける。
笑いを含んだヘルツェンの声にセイジェルとセルジュが視線を向けた直後、半分ほど開けられたままになっていた扉がゆっくりと大きく開かれ、ミラーカに促されるようにノエルが入ってきたのだが、しっかりとももちゃんを抱きながら大泣きしていたのである。
朝からなにがあったのかと思えば……
「セイジェルさま、いない……ぅ……ひっく……」
【騎士イエル・エデエの呟き】
「まさかこんな間近で閣下を拝見出来るなんて。
修錬場でお見掛けする時とは全く違う。
しかも俺の名前を呼んでくださるだと?
いや、わかってる、どうせすぐにお忘れになるんだ。
とてもお忙しい方だから。
お側近くにいる貴族も多い。
そんなことはわかってる。
俺なんて取るに足らない存在だ。
だが、今、間違いなく閣下はこちらを見て話を……ああ駄目だ、なんと仰っているのかさっぱりわからない。
こんなお近くでご尊顔を拝謁する機会も、こんなお側でお声を伺う機会ももう二度とないというのに、俺は……なんて情けないんだ」