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円環の聖女と黒の秘密  作者: 藤瀬京祥
二章 クラカライン屋敷
77/109

74 医師クリストフ・ロートナー ーエリーダ

PV&ブクマ&評価&感想&誤字報告&いいね、ありがとうございます!!

 クリストフがクラカライン屋敷を訪れるのはもう何回目だろう?

 当然毎日のように通い詰めるわけにもいかず決して多くはないけれど、少し慣れて緊張も解けてきていた……はずだった。

 だがこの日は初めて訪れたあの夜以上に緊張していた。


「ここが領主様のお屋敷なんだ!」


 クラカライン家の屋敷は騎士団の隊舎や宿舎と同じウィルライト城内にあるとはいえ、城自体が広大な上、クラカライン屋敷周辺は禁足地である。

 屋敷を取り囲む広い庭ですら不用意に立ち入ることは許されていない。

 クリストフの助手として採用されてまだひと月ほどしか経っていないエリーダは、初めて見るその壮大な屋敷を見てはしゃいでいた。


 そう、今日は助手として一緒に来ているのはグリエルではない。

 彼女は知人と会う約束があるとかで、元々この日は休みを取っていた。

 だからクリストフは一人で往診に行くつもりだったのだが、どこで聞きつけたのか、エリーダが一緒に行くと言いだしたのである。


 もちろんクリストフは即座に断った。

 そのためにこっそりと支度をしたのだ。

 それなのに目ざとく気がついたエリーダはついていくと言い張ってきかず。

 しかもタイミングの悪いことに、そこに迎えの馬車が到着してしまったのである。


 いつものようにマントで全身を覆い、フードを被って顔を隠した長身の男が迎えに来たが、馬車を降りたところでクリストフとエリーダのやり取りを黙って見ていた。

 状況を理解してようといているのか、それとも口出しをするつもりがないのか。

 いずれにしてもなにもするつもりはないらしく、クリストフを馬車に促すことすらせず黙って突っ立っている。

 それこそ置物のようにじっと。

 気の長い性格なのか、二人のやり取りに決着がつくまでそうして待つつもりかもしれない。


 だが相手は領主である。

 クリストフの迎えに来ているのは屋敷の使用人だが、往診依頼は領主から出されているもの。

 診察に領主が立ち会うことはないけれど、約束の時間に遅れるのもよろしくない。

 そのためクリストフが折れてエリーダを連れて行くことになったのだが、馬車に乗り込むエリーダを見ても迎えの男はなにも言わなかった。


 迎えの男にとって、クリストフが助手に誰を連れて行こうと関係ないのだろう。

 それこそ助手を連れず一人でもなにも言わなかったに違いない。

 逆にエリーダのほうが男を見て眉をひそめる。


「まさかと思うけど、魔術師?」

「エリーダ」


 静かにするように言うクリストフを無視してエリーダは続ける。


「え? 先生、本当に魔術師ですか?

 どうして魔術師団が一緒なんですか?」


 魔術師といえば神官か魔術師団、それが一般的に知られている組織なのだろう。

 しかも魔術師団は騎士団と同じく城の中に拠点を構えているため、エリーダにとっては、城に隣接する神殿より身近だったのかもしれない。

 無謀にも行き先を知らないままついて行くことを主張したエリーダは、どうして魔術師が同乗しているのか不思議でならないらしく、狭い車内、向かいにすわる迎えの男を興味深げに眺めていた。

 それは不躾なくらいの直視だったが、男のほうはまるで興味がないらしく、終始無言のまま。

 そうして到着した目的地、クラカライン屋敷を見てエリーダははしゃぐ。


「領主様のお屋敷、初めて見た。

 こっちのほうに来たのも初めて。

 本当にお城の中って広いんですね」

「エリーダ、頼むから静かにしてくれ」

「ちょっと古いけど、大きくて素敵なお屋敷ですね。

 あたしもこんなお屋敷に住んでみたい。

 あ、ひょっとして領主様に会えたりしますっ?

 あたし、まだ領主様見たことないんだけど、初めて会えちゃったりする?

 ね? どうなんですか、先生。

 ひょっとして先生はもう会ったことあるんですか?」

「エリーダ、頼むからおとなしくしていてくれ」


 興奮しているエリーダは早口にまくし立てるばかりで、少しもクリストフの話を聞こうとしない。

 それどころか診察鞄をクリストフに持たせ、なにをしに来たのかもわからない有様である。


 いつものように屋敷内に通されたクリストフとエリーダだが、クリストフは初日の夜以来、真っ直ぐあの子どものいる部屋に通されていたのが、この日はまた、初日と同じあの窓のない狭い部屋に通された。


 古い屋敷は驚くくらい人気がなく昼間でもひっそりとしており、最初ははしゃいでいたエリーダもさすがに気味が悪くなったのか、廊下を進むにつれ口数が少なくなる。

 さらには窓のない狭い部屋に案内されると黙り込んだ。


「あの、先生?」


 相変わらず重い診療鞄をクリストフに持たせたままのエリーダは、部屋を見渡しながらも落ち着かない様子でクリストフにすがりつく。

 この時にクリストフの腕を自分の胸に押しつける。

 無意識なのか故意なのかわからないが、不快さを覚えたクリストフはさりげなく腕を抜き取り、エリーダから離れようとする。

 おそらく日頃からこうやって若い騎士たちに気のある素振りを見せているのだろう。

 ずいぶんと騎士たちのあいだで派手に遊んでいると、つい先日ももう一人の助手グリエルが愚痴をこぼしていた。


 馬車で迎えに着たマントの男は玄関でいなくなり、玄関まで迎えに出て来た別の若い男がここまでを案内し、今も扉の横に控えるように立っている。

 柔らかい金色の髪をした若い男で、整ったその顔を見た瞬間にエリーダが嬉しそうに 「ちょっと格好いい」 と呟いたのをクリストフは聞き逃さなかった。

 とても静かな屋敷なので、ひょっとしたら男にも聞こえていたかもしれない。

 だが男はなんの反応も見せず 「どうぞ、こちらへ」 と穏やかにクリストフとエリーダの足を促し、窓のない部屋に案内したのである。

 そして今も扉の横に黙って立っている。


 少ししてこの屋敷の使用人頭(しようにんがしら)がやって来て、クリストフとグリエルがそうしたように誓約書に署名をさせられる。

 もちろんエリーダだけ。

 すでにクリストフは署名をしているため必要ないのだが、エリーダは自分の前にだけ誓約書が置かれたことを気にする様子もなければ、ろくろく読みもせず署名をしようとしてクリストフを慌てさせる。


「だって先生、こんな細かい文字読んでられません」

「駄目だ、ちゃんと読みなさい。

 そこには……」

「大丈夫、大丈夫、先生ってば心配性なんですから。

 だってただの往診でしょ?」


 そこにはとても重要なことが書かれている。

 そう言おうとしたクリストフの言葉を遮ったエリーダは、なにが問題なのか全くわかっていない様子で笑い、クリストフを不安にさせる。

 けれど改めて説き伏せようとする前にエリーダはさらさらと署名してしまった。


(なんてことをっ!)


 辛うじて声に出すのは堪えたクリストフだったが、エリーダの愚行はこれだけに留まらなかった。


 このあと使用人頭は誓約書を持って退室し、残ったクリストフとエリーダは戸口に立っていたエリーダ好みの男の案内でいつもの部屋に向かう。

 そのあいだも終始そわそわしていたエリーダだったが、気づいているのかいないのか、案内する男は足を止めることもなければ振り返りもせず、黙々といつもの部屋へと二人を案内する。


「なに、この臭い?」


 案内された部屋にそこはかとなく漂う異臭は薬の臭いである。

 少しずつ熱は下がってきているものの、患者の子どもは寝たきりでほとんど食事も摂れていない状態である。

 そのためにわざわざ町で材料を調達して作った滋養の薬である。

 なにしろ普段クリストフが相手にしているのは筋肉馬鹿の異名を持つ騎士たち。

 討伐による大怪我を負ってさえ彼らの食欲が減退することはないため、まずは必要のないものだった。


 瘴気に当てられて体が衰弱してさえ……いや、元が頑健すぎて多少の瘴気では気分を害するのがせいぜいで、多少衰弱するようなことがあっても食欲が減退することがない。

 そのため必要がなく騎士団の医務室にはないもので、エリーダは初めて嗅ぐ臭いだったらしい。

 クリストフも町で医者をしていた頃は常に用意していたが、騎士団に来て以来作っていなかったから、久しぶりに調剤した時は嗅いだ臭いに思わず鼻を摘まんでしまったほどである。


 ただこの部屋は換気がよくされているのか、思ったほど臭いがこもっていない。

 それをしているところをクリストフは見たことはないけれど、おそらく魔術師が効率よく換気をしているのだろう。


 そうでなければ締め切った部屋で、これほど臭いが薄くなることはない。

 それほどあの丸薬の臭いは酷いものだった。

 だが鼻が慣れてしまえば気づかないのではないかと思えるほど薄らいだ臭いに、エリーダだけが鼻を押さえ周囲を見回す。

 そして独り言のように呟く。


「なんだかなんにもない部屋」


 すでにクリストフは何度も来ているけれど、貴族の屋敷にしては広いけれど、とても質素な部屋である。

 しかも部屋の主人(あるじ)が子どもだということを考えれば、人形の一つも飾られておらず子ども部屋とは思えない。

 改めて言われて見れば、質素ではなく、エリーダの言うとおりなにもない部屋なのかもしれない。


「ようこそ、ロートナー医師」

「これはリンデルト卿令嬢」


 広い部屋のほぼ中央を、カーテンを引いて寝室と居室に隔てるのは、白の領地(ブランカ)では一般的な貴族屋敷の造りである。

 初めてらしいエリーダは興味深そうにしきりに首を巡らせていたけれど、クリストフと挨拶をする、一見自分と歳の変わらない若い女が 「リンデルト卿令嬢」 と呼ばれたことに 「え?」 と声を上げて反応する。


「リンデルト卿って、リンデルト小隊長の()?」


 その驚いた顔にクリストフはうんざりする。

 現在騎士団にリンデルト卿家の人間は二人いる。

 特別顧問を務めるリンデルト卿フラスグアと、その息子で、小隊を率いるリンデルト卿公子アーガンの二人。

 ここでエリーダが息子のアーガンを真っ先に思い出したのは、やはり彼女の性格だろう。


 若い男が多い騎士団で働きだしてからずっと周りからちやほやされているエリーダだが、彼女自身がお近づきになりたがっている騎士が何人かいる。

 その一人が貴族でもあるアーガン・リンデルトである。

 おまけにリンデルト小隊には騎士団有数の美形男子が揃っていることもあり、彼女はなにかとリンデルト小隊に近づきたがる。

 だが現在までまともに近づけていないのは、もう一人いるクリストフの助手グリエルの邪魔と、リンデル小隊側で彼女を忌避しているかららしい。


 グリエルの邪魔はともかく、小隊側に忌避されていることには気づいていないらしいエリーダだが、たとえ気づいたところで彼女の性格である。

 気にせず接近を目論むだろう。

 そのくらい積極的に仕事も覚えてくれたらいいのだが……というのはクリストフの余計な愚痴である。


 エリーダを一瞥したリンデルト卿家の令嬢は、すぐそばに控えている側仕えに話し掛ける。


「いつもの助手とは違うようね」

「そのようですね」


 ひっそりと話す二人の視線が、人が一人通れるくらい開いたカーテンの側に、並んで立っている二人の男を見る。

 一人はクリストフとエリーダを案内してきたエリーダ好みの男だが、もう一人ははじめから部屋にいた男である。

 同じ衣装を着ているところから推測して、おそらく二人とも魔術師だろう。

 気づいていなかったエリーダは並んだ二人を見て、クリストフの腕をひじで突く。


「先生、先生、領主様のお屋敷っていい男ばっかりですね」


 それこそ顔で選んだのではないかと思わせるが、二人がクリストフの予想通り魔術師なら違うだろう。

 エリーダに余計なことは話さないほうがいいと思ったクリストフは、とりあえず 「エリーダ、いい加減にしなさい」 とだけ注意しておく。

 不満そうに 「はぁい」 と返事をしたエリーダは、クリストフに従って寝室の中央に置かれたベッドに近づく。

 そしてそこに眠る幼い子どもを見る。


「えっ?!

 なに? この汚い髪っ?!」

「エリーダ!」


 子どもを見て驚きの声をあげるエリーダを、それ以上に大きな声を出して窘めるクリストフ。

 チラリと背後を振り返ってみれば、二人の魔術師と側仕えは特に反応を見せなかったけれど、リンデルト卿令嬢は怒りを隠すことなくエリーダを睨んでいる。

 もちろんエリーダは気づいていない。


「手伝いをしないなら廊下で待っていなさい」

「はぁい」


 リンデルト卿家令嬢に睨まれていることに気づきもしないエリーダだが、一人で廊下に追い出されるのは嫌だったらしい。

 適当な返事をするとようやくのことでクリストフの仕事を手伝い始める。


 子どもの体調は相変わらずだった。

 熱は少しずつ下がりつつあったけれど、とにかく痩せすぎである。

 それに食事も満足に摂れていない。

 だから初めて診た時はどれほども生きられないだろうと思ったのだが、容態そのものは落ち着きつつある。


 あの酷い臭いの薬が効いているのかもしれない。

 だがそれも今は衰弱しきった体を自由に動かせないため、世話をされるまま飲んでいるだけかもしれない。

 だからもう少し回復したら飲むのを嫌がるかもしれないのが心配だった。


 それにどこまで回復出来るかわからない。

 あるいは生涯寝たきりになる可能性もある。

 そのくらい骨と皮ばかりに痩せた子どもは衰弱しきっていた。


 前回の診察時と比べて大きな変化はなかったけれど、急激に悪化していなかっただけいい。

 用意してきた熱冷ましと眠り薬、それに滋養の丸薬をリンデルト卿令嬢の側仕えに手渡す。

 あとは片付けをして帰宅……というところでエリーダがやらかした。

 診察に使った道具を診察鞄に入れ、代わりになぜか鋏を取りだしたのである。


 いつもは包帯や湿布などを切るため診察鞄に入れて持ち歩いているものだが、この往診で使う予定はない。

 それなのにエリーダは鋏を取り出したのである。


 リンデルト卿令嬢の側を離れ、クリストフのところまで薬を取りに来た側仕え。

 エリーダが診察鞄から鋏を取り出したのは調度そのタイミングである。

 側仕えと用法や用量の確認など簡単な会話を交わしていたクリストフは、視界の隅にエリーダの手に握られた鋏を見る。


(何をするつもりだ?)


 そう思って焦った時にはすでに遅く、眠る子どもの髪の一房を手に取ったエリーダは、躊躇うことなく鋏で切り取っていた。


「な……!」


 思いもよらないエリーダの行動に声をあげるクリストフ。

 だがエリーダは、驚きのあまり言葉が続かないクリストフを見てこんなことを言い出したのである。


「ちょっと先生、この紐で括ってくれます?

 片手だと結べなくて……ああ、こんなことなら切る前に結んでおけばよかったわ」


 片手に切り取った子どもの黒髪を持つエリーダは、もう一方の手に持っていた鋏を置いて、代わりに診察鞄に入っていた紐を持って両手をクリストフに差し出す。


「……にを、しているんだ?」

「なにって、珍しい髪色だからみんなに見せてあげようと思って」


 楽しそうに笑いながら答えるエリーダは、クリストフに早く結んで欲しいと急かす。

 急かされたクリストフはこんなことをしてただで済むわけがないと焦り驚くが、なにかを言う前に割り込む声があった。


「これはなんの真似でしょう?」


 大きな男の手が、黒髪を握るエリーダの手首を掴む。

 クリストフとエリーダがほぼ同時に見上げると、カーテンのそばに立っていたはずの魔術師の手であり、声であった。


「いつのまに……?」

「え?」


 クリストフ、エリーダ、それぞれに声が漏れる。

 あとで落ち着いて考えれば、エリーダの思わぬ行動に驚くあまり気づかなかっただけかもしれない。

 だがこの時はクリストフも冷静さを失っており、突然の接近に驚きを隠せない。

 エリーダも同じく突然のことに驚いていたが、やがておずおずと魔術師の男に話し掛ける。


「あの、痛いので放してもらってもいいですか?」


 この後に及んでまだ状況を理解出来ていないエリーダは、若い騎士たちにしているように、魔術師の男を上目遣いに見上げながら少し甘えるような声を出す。

 だが魔術師の男は平板に返す。


「これはなんの真似かと尋ねているのです。

 答えなさい」

「これは、その、珍しい色だからみんなに見せてあげようと思って……」


 ようやくなにかに気づき、戸惑いつつも答えるエリーダに、魔術師の男は、やはり平板に 「そうですか」 と返す。

 するとなぜかホッとするエリーダに魔術師の男は続ける。


「生憎ですが、それは出来ません」

「出来ないって……あの、とりあえず手を……」

「それ()出来ません」

「出来ないって……」


 魔術師の男は感情のこもらない声で答えると、戸惑うエリーダは男の肩越しにクリストフを見る。


「先生、なんとかして!

 助けて!」

「助けてって……そんな……」


 リンデルト卿家令嬢の側仕えと薬のやり取りをしていた状態で固まっていたクリストフも、この状況で助けを求められても困る。

 困るが、困っているばかりではいられない。

 なんとかしなければと思い、平静を装って男に話し掛けてみる。


「助手が大変失礼いたしました。

 とりあえずその手を放していただけませんか?」

「どうぞ、ロートナー医師はそのままで」

「そのままでと言われましても……」


 感情のこもらない声で平板に返され、これ以上どうしていいのかわらかないクリストフはエリーダを見る。

 すると彼女は今までに見たこともないような表情を浮かべ、声を荒らげる。


「もう! 先生の役立たず!」


 目を、眉を吊り上げ、怒りと不快を顕わにして怒鳴りつけたと思ったら、すぐさまその標的を魔術師の男に移す。


「放せって言ってんでしょ!

 しつこいのよ!

 キモい!」


 ついにはもう一方の手に持っていた紐を捨ててまで男の手を振りほどこうとするエリーダだが、やはり魔術師の男はビクともしない。

 見たところ細見の優男だが意外に力はあるらしい。


「なにを勘違いしているのか知りませんが、もはやあなたに自由などありません。

 おとなしくするのですね」

「うるさい!」

「ついでに、その汚い口も閉じなさい」

「この!」


 なにを思ったのか、足を振り上げて魔術師の男を蹴り飛ばそうとするエリーダだが、直前に突き飛ばされて勢いよく床に転がる。

 すぐさま起き上がって男を睨みつけるが、転げた拍子にめくれ上がったスカートに気づいて慌て直す。


「酷い!

 こんな手荒なまねをするなんて!」

「いい加減、静かになさい」


 魔術師の男は、今も立ったままエリーダを見下ろしている。

 だがその声はエリーダの背後から耳元で囁かれた。

 もう一人男がいたことを今になって思い出すが、エリーダが振り返るより早く、背後から伸びてきた腕が、その手に持っていた銀色の(やいば)をエリーダの鼻先に突きつける。


「暗器っ?!

 まさか……兇手(きょうしゅ)?」


 てっきり魔術師だと思っていた男が暗器を持っていた。

 それは男が魔術師ではなく兇手だから……と考えたクリストフだが、すぐそばに立つ男も、エリーダの背後に屈む男もなにも答えない。


「こんな小娘を相手に、なにをもたもたしているのです、ウルリヒ」

「ここでは(さわ)りがあるでしょう」


 周囲を無視して二人だけでわかる話を交わすと、エリーダの鼻先に刃を突きつける男が 「障り?」 と疑問を呈したところで、リンデルト卿家令嬢がハッとする。

 そして少し慌てた様子で早口に割って入る。


「アルフォンソ、おやめなさい!」


 どうやらエリーダの鼻先に刃を突きつけている男がアルフォンソで、クリストフのそばに立っている男がウルリヒという名前らしい。


「わたしたちに命令出来るのは旦那様のみ。

 あなたには従えません」

「そうではありません。

 眠っておられるとはいえ、ここには姫様がいらっしゃいます。

 姫様の寝室を血で汚すことは許されません」

「なるほど、確かに障りがありますね」


 ウルリヒの言った 「障り」 の意味を理解したアルフォンソは、口調を変えてエリーダの耳元で囁く。


「立ちなさい」

「あの……なにを……」

「このような真似をして無事に済むとは思わぬことです」

「先生、助けて……」


 先程までの勢いはどこへやら。

 ようやくのことで自分の置かれている状況を理解したエリーダは、震える声でクリストフに助けを求める。


「エリーダ……」

「此度の件について、ロートナー医師の責任は問われないでしょう」

「責任って……」

「先生……お願い……助けて……」

「さっさと立ちなさい」


 自分の身さえどうなるかわからないこの状況で、クリストフにエリーダを助けることは出来ない。

 それでも助けを求めてくるエリーダの震え声に、アルフォンソが無情な声を被せる。

 そんな背後の様子など気に留めることなく、クリストフに話し掛けるウルリヒ。


「すぐに別の者が参ります。

 どうぞ、このままこちらのお部屋でお待ちください。

 玄関までお見送りさせていただきます」


 玄関まで案内してもらえるということは、クリストフはこのまま帰されるということだろう。

 駄目だとわかっていながらも男たちに尋ねてしまう。


「エリーダはっ?

 彼女はどうなるんですかっ?!」

「あなたがそれを訊いてどうするんですか?」


 平然とクリストフの問い掛けに問いを返すウルリヒ。

 答えられず黙り込むクリストフに、さらに続けて言う。


「あなたにはなにも出来ません。

 無駄なことはせず、今日はおとなしくお帰りください。

 次の診察は予定どおり三日後、よろしくお願いいたします」


 ウルリヒはそう言っていつものように恭しくお辞儀をすると踵を返し、エリーダを無理矢理に立たせると、アルフォンソと二人、抵抗するエリーダを部屋の外に連れ出す。


「やめて! 放して!

 どこに連れて行くのよっ?

 先生! 先生、助けて!」


 そんなエリーダの声が廊下を遠ざかってゆく。

 やがてその声が聞こえなくなると、リンデルト卿家令嬢が小さく息を吐く。

 そしてうつむき加減に呟く。


「なんて愚かなことを……」

「お嬢様」


 薬を受け取った侍女が側に戻り、気遣うように声を掛ける。


「大丈夫よ。

 わたくしたちが罰されることはないけれど……そうね、閣下に嫌味の一つも言われるかもしれないわね。

 でも大丈夫よ」


 そう言うとクリストフを見る。


「わたくしにはなにも出来ません。

 クラカライン家の決定です、わたくしにはなにも出来ません。

 ですが先程の者が申しましたとおり、ロートナー医師が責任を問われることはないでしょう。

 これまでどおり、お勤めに励まれますように」


 重い沈黙が室内を淀ませる中、ほどなくして三人目の男が現われる。

 先程の二人と同じ衣装を着た男で、雰囲気も似ている。

 おそらくこの男も魔術師だろう。

 いや、兇手だろうか?

 部屋に入ってくると、静かにクリストフに頭を下げる。


「お待たせいたしました、どうぞこちらへ。

 ご案内いたします」

【側仕えウルリヒの呟き】


「思いもかけず面白いものが手に入った。

 さて、これをどう使ったものか?

 まずは旦那様に知られぬようにせねば……」

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