30 不思議な匂い
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思わぬところから飛び火し、ノエルに童貞疑惑を掛けられたアーガン。
セルジュの言葉で難を脱するが……
「アーガンさま、どうてい?」
ノエルが聞きたかったのは 「童貞」 の意味だったのだが、持っている語彙が極めて少ない。
おまけに沢山の言葉を続けて話すのが苦手なためにそうなってしまい、意図せず周囲の大人たちを凍りつかせてしまった。
けれど気づかないノエルは、少しぼんやりとした表情でアーガンを見上げて返事を待っている。
「どっ……」
「そなたにはまだ早い」
らしくないほど言葉に詰まるアーガンを助けたのは、珍しくセルジュである。
「……そうだな、まだ早い」
従兄弟の助けを得て少しばかり落ち着きを取り戻したアーガンは、大きな手でノエルの小さな耳をそっと押さえる。
だがイエルたちも凍りついて会話が中断してしまったためその必要がなくなり、手を離したアーガンは、ノエルが肩から羽織った毛布の前を合わせてやる。
「寒くはないか?
俺たちは平気だが……」
赤の領地には何度も行ったことのあるアーガンだが、生まれ育ったわけではない。
環境が違うことは当然だが、年中を通して気温が高めの赤の領地に寒がりという言葉があるかどうかも疑問なくらいで、赤の領地で生まれ育ったノエルがどの程度で寒いと感じるかわからない。
少なくとも寒いと訴えた今朝より厚着させたが、領都に近づけば近づくほど白の領地では白の季節も進み、気温も下がってくる。
まして今日は野宿である。
姉のミゲーラに、寝台から蹴落とされることは日常茶飯事だったノエルだが、家の外で寝るのは初めてのこと。
目的地に到着するまで風邪を引かせるわけにはいかず、余計に心配するアーガンに、ノエルは少し体を寄せる。
「アーガンさま、ひざ」
「うん? ああ、膝を枕にするか?
そうだな、近くにいてくれたほうが助かる」
アーガンの許しが出たところで、早速アーガンの膝に両手を置き、体を伏せながらその上に小さな頭を乗せる。
そしてほどなく小さな寝息を立て始める。
演習や遠征と違い、この旅中は食事さえ済ませれば夜にすることはない。
むしろ下手に周囲をうろつけば、獣と遭遇してしまう危険がある。
その獣を避けるため、小さくも火を焚き続ける必要があり、火の番を残して思い思いに眠りにつく。
一人、また一人、と……。
そうして眠りについたアーガンが目を覚ましたのは夜明け頃。
ほんの少し空が明るくなって、そろそろ獣たちも巣に帰る頃のことである。
少し前に火が消えたのか、焚き火あとからはまだぐすぐすと煙が上っている。
まだ全員が眠っている……と思ったら、アーガンの膝を枕に眠っていたはずのノエルがいない。
瞬時に眠気を振り払ったアーガンは、反射的に体を起こそうとしてハッとする。
自分のすぐ横に、肩から毛布を被ったままのノエルがすわっていたのである。
「……どうした?
もう目を覚ましたのか?」
小さく息を吐いて心を落ち着けると、潜めた声で話し掛けてみる。
まだ眠いらしいノエルは、しきりに目を擦りながらも答える。
「アーガンさま、お水、くむ?」
家族が使う、一日分の水を汲むのが朝の日課だったノエル。
それがいつから始まったのかわからないが、すっかり習慣となっているのだろう。
どんなに眠くても目が覚めてしまうのかもしれない。
「……ああ、汲まなくていい。
このあたりに水はない」
「お水、ほしい」
出立前に確認した地図では、川はあるが、すでに白の月も一番目が終わりに近い頃。
乾期の真っ只中にあるこのあたりの川は水が干上がっているはず。
幸いにして水位が下がることはあっても井戸水が干上がることはないため、アーガンたちは、途中にある村に寄り、水を分けてもらうことにしている。
そのことを簡単に説明したアーガンは、水筒の水を飲んでもいいが、全部は駄目なことをゆっくりと話す。
いつものようにおとなしく、だが眠そうな表情で聞いていたノエルは、アーガンの話が終わると早速水を飲むのかと思われたが、なぜか不思議そうに首を傾げる。
そしてゆっくりと周囲に首を巡らせ、天を仰いだと思ったら鼻を突き出すように、まるで動物のようにスンスンと匂いを嗅ぎ始める。
なにをしているのかわからないアーガンは、しばらくのあいだ黙ってその様子を見ていたが、やがてノエルはある方向を小さな指で指し示す。
「お水、あっち」
「……あっちは川が……」
記憶した地図とノエルが指さした方向を重ねたアーガンは、確かにそちらの方向に川があることを確認するが、この時期に水は流れていない。
しかしノエルの様子は、まるで水の匂いを嗅ぎ付けた動物のようだった。
あるいは今も水が流れているのだろうか?
そんな疑問がアーガンの脳裏に浮かぶ。
「水、ですか?
この時期に?」
少し前まで火の番をしていたファウスと交代し、すわったまま眠ったふりをして周囲に気を配っていたイエルも顔を上げ、あくびをかみ殺しながら呟く。
眠ったばかりのファウスを含めた三人を気遣い、声を潜めている。
だがその口ぶりからも、彼もアーガンと同じ意見なのだろう。
とりあえずノエルに水を飲ませたアーガンは、冷えるからと肩からずれた毛布を直してやる。
まだ移動するには時間が早い。
もう少し明るくなってからの方が安全だし、ファウスも少し眠らせたい。
アーガンは 「もう少し眠っているか?」 などとノエルに話し掛けながら自分の身支度をし、イエルもまた身支度を手早く済ませると、野営の痕跡を消すために焚き火跡を散らす。
そのあいだにセルジュが目を覚ますと、アーガンはノエルの世話をしながら先程のことを話す。
この時期に、こんな支流の川にまだ水が流れている可能性がある、と……。
しかし携帯用毛布の砂を払って荷物をまとめ、続いて一つに束ねた髪を結い直すなどして身支度を調えながら話すセルジュは特に驚く様子は見せない。
「可能性なら無きにしも非あらずだろう。
なにしろ知事があの男だからな」
このシルラスの知事はハウゼン卿アロンだ。
彼の仕事ぶりならば十分にあり得る話だと、セルジュはなんでもないことのように言う。
白の領地の白の季節は乾期で、ほとんど雨が降らない。
まったく降らないわけではないが、ほとんど降らない。
収穫作業はもちろん、刈り取った穀物などを乾燥させるためには丁度いいのだが、川の水量が明らかに減り、領民の生活に影響が出る。
その最たるが、本流を守るために支流の水門を閉めることである。
一行が領地境を越えたあと、途中から街道に沿って流れていた川。
ノエルがセルジュに 「川の水は飲むな」 と叱られたあの川が、このあたりで一番大きな川である。
幸いにして地下水は乾期のあいだも水量を維持できるらしく、水位が下がることはあっても井戸が涸れることはない。
だが井戸水だけでは生活用水が足りない。
そのために川の水が必要になるのだが、大きな川沿いには町が栄え、大きければ大きいほど人が集まる。
特に街道沿いの宿場町には。
乾期は収穫期でもあるため物や人の移動も多く、町を維持するため、下流まで十分な水量を維持する必要がある。
そのため村々の生活を維持するための、広範囲に流れる細い川の水門を閉めるのである。
収穫期に入っているため畑に水をやる必要はないが、村人たちの生活に水は必要である。
それぞれの村や川の恩恵を受けられないような小さな町は貯水池を作り、緑の季節にある雨季を中心に水を確保するのだが、豪雨などに遭って貯水池が決壊することもあれば、赤の季節に干上がることもある。
そのため水門を閉めるに当たっては状況の確認が必要となる。
また場合によっては一時的に水門を開放する必要も出てくるのだが、その決定権を握っているのが知事である。
水の配分や水門の運用を盾に、領民に対して不当な要求する悪徳知事も少なくなく領主を悩ませているが、だいたいはその知事の背後に上級貴族が控えている。
後ろ盾となる代わりになんらかの恩恵を受けているのである。
このシルラスの知事ハウゼン卿アロンの背後にハルバルト卿が控えていたように。
そのために解任も易くはなく、後任人事を巡る争いも起こり領主を悩ませるばかり。
だからといって放任するわけにもいかないのは、それが領主の務めだからである。
そうして貴族間の争いに領主までが巻き込まれ、城が血なまぐさくなってゆく……。
乾期と言っても全く雨が降らないわけではないし、決壊など、なにかしら下流の貯水池に問題があったのかもしれない。
そのため特例として水門が開かれている可能性も十分にある。
気にならないと言えば気にならないのだが、こんなところで上席執政官としての務めが頭をもたげたのか。
少しばかり思案していたセルジュが
「確かめておきたい」
そんなことを言い出した。
もちろんシルラスの知事アロン・ハウゼンの体たらくぶりや、それが領民の生活にどれほどの影響を与えたのかなどを確かめておきたいのだろう。
だがそう言いながらも探るような目でノエルを見ていたから、水の気配を察したという話にも少なからず興味を持っているようだ。
だが相変わらずノエルとは話したくないらしく、アーガンたちを呆れさせる。
「少しくらい相手をしてやれ」
一番最後に目を覚ましたセスが慌ただしく身支度を調えると、一行は予定を変更して川へと向かう。
野営地に選んだ場所からどれほども離れていない場所に、本流とは比べものにならないくらい細いその川は、砂地に埋もれそうになりながらもひっそりと流れていた。
雨季には、水量が増すとともに川幅も広がって行くのだが、逆に、乾期の今は消えてなくなっているのかもしれない。
なんらかの理由で水が流れている今も、やはり通常より水量を減らしているためとても慎ましい流れとなっている。
「アーガンさま、水」
「そうだな」
乗り降りが面倒なセルジュは馬上から流れを確認していたが、アーガンが少しはしゃぐ様子を見せるノエルを下ろしてやる。
するとノエルは流れのそばまで行って水を覗きこんだり、手を浸して水の感触を確かめる。
「顔を洗うぐらいはいいが、飲んだら駄目だぞ」
「かおあらう」
「ああ」
川と言うには心許ない流れに小さな手を浸し、水をすくって顔を洗い出すノエルを見て、アーガンは自分の荷物から手ぬぐいを取り出す。
すわったままのノエルが、肩から提げる鞄から濡れた手で自分の手ぬぐいを取り出そうとするのを見て、隣に屈んだアーガンが有無をいわさずその小さな顔を手ぬぐいで拭ってやる。
ついでに手も拭いてやる。
「今日は痒くないか?」
「かゆくない」
「そうか、薬が効いたようだな。
また休む前に塗ってやる」
そんな話をして再び馬で移動。
流れに沿って下流に進むと少しずつ緑が増え始め、やがて木々のあいだに岩場が見えてくる。
その岩場に池が見えてくる。
貯水池である。
「問題はないな」
「そうだな」
小さな森の中にある貯水池は十分すぎるほどの水を湛えており、その様子をアーガンとセルジュは馬上から確認し合う。
するとまたアーガンの顎下で、鼻を突き出すように空を仰いだノエルがスンスン……と匂いを嗅ぎ始める。
それを見たセスは
「犬か」
などと言って馬鹿にするけれど、すぐにその姿が見えないようにファウスが割り込む。
「また何か匂うか?」
「ひのにおい」
アーガンの問い掛けに、ノエルは貯水池の遙か向こう側を指さす。
顔を見合わせたアーガンとセルジュは、まずはアーガンが手綱を操り、それにイエル、セルジュと続き、ファウスとセスがあとを追って馬を走らせる。
おそらく植樹によって緑地化された森なのだろう。
広くはなく、すぐに抜けると視界いっぱいに金色の草原が広がる。
収穫期真っ只中の畑である。
この耕作地帯もまた、植樹によって小さな森を作り出せたことで開墾できたのだろう。
その見事な金色にノエルも目を見張り、「わぁ!」 と感嘆の声を上げる。
「アーガンさま、きれい!」
「綺麗だな」
生まれ育った赤の領地の村でも毎年同じ風景を見てきたはずのノエルだが、なぜかいつもより綺麗に見えたのである。
しかも違いはそれだけではなかった。
【アプラ・ハウゼンの呟き】
「あいつら、街道を行かずに荒野に出ただと?
領都に戻るんじゃないのか?
クソっ! どこに行くつもりだっ?
絶対に逃がさねぇからな!!」