12
夜がオポズの人間の時間だ。
エリーは闇夜に紛れて、マルリットが教えてくれた情報をもとに、カナロフ邸に忍び込む。
まず初めに、忍び込んだエリーは自らが調合した睡眠薬をお香のようにあちこちで焚いた。そして暫く経った後、自らの口元をマスクで覆い、主人のカナロフがいる部屋を目指す。
誰もいない廊下を進むと、一番奥の部屋から女が一人出て来た。
それはマリアだった。
エリーはマリアに気づかれないよう身を隠し、彼女が目的の部屋から離れるのを待った。
そして完全に離れたことを確認してから、カナロフの部屋の前にたどり着く。
扉を開け、覗く。
まだ灯りを灯しているが、扉に背を向け、書類仕事をしている為こちらに気づく様子はない。
息を殺して、静かに部屋に入る。
カナロフは気が付かない。
そのまま近づく。
カナロフの真後ろに立つと、ようやく彼は誰かが来たことに気づいた。
しかしそれはマリアだと思っているようで、彼は小さく笑った。
「どうしたんだい、音も立てず入ってきて。びっくりさせようとしたのか」
後ろを振り向くこともなく、呑気なその男の首にエリーは抱きしめるように腕を絡めた。
その細い幼い手に、ようやくカナロフはマリアではないことに気が付いた。
「誰だ!?」
「お母さんを、返して」
持っていた注射針をカナロフに打つ。
そして手袋をはめた手で彼の口を塞ぐ。
そうすると徐々に薬が効いてきて、彼は痙攣し、机に伏せた。
これで仮に司法解剖されたとしても殺しだとは気づかれない。
心臓麻痺で成立する。
完璧だと思ったそのとき、鏡が見えた。
エリーはその鏡を見て、驚きのあまり後退った。
すると、手がたまたま机に置いてあったカップに触れ、カップが床に叩きつけられ割れた。
嫌な音が響く。
「カナロフ様?」
ずっと、今までずっと聞いてきた声が聞こえた。
その愛しい声で名を呼ばれるのは、この男ではない。
「エリー!?」
あぁ、そうだ、私だ、とエリーは口角を上げ、マスクを外し、捨てた。
「あなた、何をして」
マリアはエリーが持つ注射器と、机に伏せているカナロフを見て青ざめた。
「エリー、あなた……何を……」
揺れる目がエリーを見る。
ようやくマリアと目が合ったエリーは満面の笑みを浮かべた。
「帰ろう、お母さん」
「ひっ!」
マリアは部屋の外へ駆け出した。
走りながら叫んでいる言葉がエリーには聞こえた。
「どうして、どうしてこんなこと! あぁっ、カナロフ様!」
「どうしてもこうしてもないじゃん! お母さんが私を置いていくからだよ! ねぇ、帰ろう!」
裾を踏んだマリアが倒れる。
カナロフ邸の庭までマリアは逃げたが、身軽なエリーから逃れることはできなかった。
「嫌、嫌よっ! カナロフ様が愛してくれた、カナロフ様だけが私を愛してくれた! 返して、あの人を返して!!」
エリーはしゃがみ、泣き喚くマリアと視線の位置を合わせた。
涙で濡れたマリアの頬をエリーが撫でる。
化粧をして、髪を結って、豪華な服を身に纏って、本当に綺麗な母親だ。
「私も、愛していたよ」
大事だった、愛していた唯一の家族の首筋に注射器を差す。
中の液体がマリアの中に侵入する。
「……エリー、何を打ったの? エリー!?」
震え、倒れるマリアに膝枕をする。
その頭を優しく撫でる。
「おやすみ、お母さん。良い夢を」




