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朝の支度



 あまりにも寒くて、目が覚めた。

 布団部屋には光が差し込まず、今が何時なのかもよく分からない。

 床を這いずり薄く引き戸を開くと、母屋はしんと静まり返っていた。

 早朝の澄んだ空気が、冷えた体にまとわりついて、私はかじかんだ手のひらに、は、と息を吹きかける。

 わずかにあたたかい。

 まだ湿ったままの襦袢を脱いで、部屋の隅に置いてある新しいものにとりかえた。

 着古した下女の着物に着替えて、エプロンを腰に巻く。

 私が六谷家の娘ではなく、下女となったのは、ここに押し込まれた五歳の頃からだ。

 お給金を払わなければいけない雇人とは違い、私にはお金がかからない。

 だからだろうか、徐々に下女も下男も、人数が減っていっているように思う。

 生活が傾いているというわけでは、ないのだけれど。

 お母様や朱鷺子さんが目を覚ました時に、朝食の準備を終えていないと、また折檻されてしまう。

 昔は、真っ暗な布団部屋に閉じこもっているのが怖かった。

 溜まった闇に、ひとではないものがいる気がして、おそろしくて、体を小さく丸めて震えていた。

 けれど今は、部屋の外に出る方が、よほど怖い。


(闇の中に、ひとではないものがいるとしたら、私の命をうばってくれたら良いのに)


 布団部屋の奥にたまった闇の中からするする手が伸びて、私の背中に触れているような気がする。

 私に行くなと訴えかける優しく穏やかな暗闇の中でうずくまっていたい。

 そう思いながら、私は布団部屋を出た。

 暗い廊下を静かに歩き、裏口から庭に出る。

 井戸水から水をくんで、炊事場に置いてある大きな瓶を満杯にするのが最初の仕事だ。

 昨日朱鷺子さんが庭に水桶をたくさん転がして、それは誰も片付けなかったようで、そのままになっていた。

 水桶を拾いあつめて、井戸の前におくと、ロープに結んであるバケツを井戸の中に落とした。

 バケツが水にぶつかる音が、深いところで聞こえる。

 それはまるで、遠く深い地の底から響いてくる、獣の悲しげな声のように聞こえる。

 ロープをひいて井戸から水を汲み上げる。ギシギシと鈍い音を立てながら滑車が回った。

 昨日縛られたせいで、擦り傷や打撲のあとが残っているのかもしれない。

 ロープをひく腕が、鈍く痛む。

 寒さも痛みも、けれどまるで、他人事のように感じられる。


「水汲みは、あと、十回」


 水桶十一杯分の水で、水瓶がいっぱいになる。

 これは、一番最初に覚えた仕事。小さい頃は力がなくて、よく水をこぼしてしまい、女中頭に頬を叩かれた。

 今は、そんなことはない。

 大きくなるにつれてできることが増えた。できることが増えると、辛いことは減っていくのかと思っていた。

 でも、今も昔も、何も変わらない。

 私はふと顔をあげる。

 葉の落ちた庭木の枝に、蛙が刺さっている。

 蛙は長い手足をばたつかせている。まだ、生きているのだろう。

 昨日鳴いていた百舌鳥が、さしていったのだろうか。

 蛙を助けてあげようかと思ったけれど、多分、枝からひきぬいたとしても、助からないだろうと考えなおした。

 枝に刺さって腹に大きな穴が空いた蛙は、生きているけれど、もう死んでいる。

 柿の木に縛られた私と同じ。

 私は、鬼の子。そして枝にささった蛙だ。

 もがいても、もがいても、逃げることはできない。ここから逃げて、いったいどこに行くのだろう。

 誰からも疎まれる私には、どこにも居場所なんてない。

 生まれてこなければよかったのに。生きている価値なんてないのに。


 水汲みを終えて、かまどに火を入れる。

 お米をといで水につけている間に、お味噌汁を作るために大根を千切りにした。

 よく洗った大根の葉を細かく刻んで、千切りの大根と一緒にお鍋の中に入れる。

 お店からいただいてきてたくさんある、樽に入っている魚醤を入れて、お鍋を火にかけた。

 かまどの炎が赤々と燃えている。

 かまどの前に立っていると、冷えた体が少しづつ温まっていく。

 二つあるかまどの一つでお味噌汁を作り、もう一つでお米を炊いた。

 あとは魚を焼けば、朝食が出来上がる。朱鷺子さんは今日も魚が嫌だと怒るのだろうか。

 売れ残りの魚を、雇人の方々が持ってきてくれるから、塩漬けの魚はたくさんある。食べてしまわないと、腐ってしまう。

 お肉ばかり買っていたら、食事の準備をするために渡されている少しばかりのお金が、すぐに底をついてしまう。

 お金が足りなくなれば、無駄遣いをしているのだろうと折檻される。

 だからなるべく、売れ残りの魚を食べてほしいのだけれど。

 お味噌汁を作りおえて、鍋敷きを敷いたテーブルにうつした。

 かまどに網をのせて、塩漬けの鰯を焼いた。香ばしい魚の香りが漂って、胃がきりりと痛んだ。

 痛いのも苦しいのも少しづつ慣れるのに、空腹には慣れない。

 生きていたいとは思わないのに、どうしてお腹は減るのだろう。馬鹿みたいだ。


 御膳に朝食を乗せていると、背後から私の腹に大きな腕が回った。


「蜜葉、今日は鰯の干物だね。魚は見飽きたけれど、旨そうだ」


 幸次郎さんが、私の背中にぴったりとくっついて、私の手元を見つめている。


「……今日は、帰りが遅い。蜜葉、寝ないでお父様の帰りを待っているんだよ?」


 耳元で囁かれて、嫌悪感に肌が粟立つ。

 気持ち悪い。怖い。


「朱海さんが起きてくる。もう食事は運んで良い」


 幸次郎さんはそう言って、私から離れた。

 御膳を持つ手が、小刻みにかたかたと震える。

 私は唇を噛んだ。「何をしているんだい、奥様とお嬢様が起きるよ」という、富子さんの声が聞こえる。富子さんが炊事場に入ってくるのと入れ替えに、幸次郎さんが出ていった。「おはようございます、旦那様」と声をかけられて「あぁ、おはよう」と何事もないように、幸次郎さんは言葉を返していた。

 富子さんは、かつて私を布団部屋に押し込めた、朱海お母様のお気に入りの女中だった。

 私が幼い頃は女中頭をしていたけれど、ほとんど使用人を雇わなくなった今は、日中だけ通いで働きにきている。

 もうかなりの高齢だと思うのだけれど、背筋がまっすぐに伸びていて、声にも張りがある。

 富子さんは私を叱ると、すぐに炊事場から出ていった。

 朱海お母様の元へいったのだろう。

 お化粧や着替えを手伝うのが、富子さんの仕事だからだ。

 私は御膳の準備を終えると、炊事場から離れたところにある食卓に御膳を運んだ。

 転んだり、こぼしたりしてしまったら、台無しになってしまう。

 できるだけ慎重に、長い廊下を歩いた。



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