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母と義父



 母屋の奥、物置と並んだ場所にある布団部屋は、布団をしまう用の棚があるばかりであとは何もない。

 大きめの押し入れのようなものなので、明かりとりの窓もない。

 扉を閉めてしまえば、部屋は、目を閉じているのか開いているのかも分からなくなるぐらいの暗闇となる。

 部屋の隅には、洗濯をして畳んである、着古した着物が数着。

 それから下女用のエプロンがあるばかりだ。

 私が布団部屋にいるのは、お父様もお爺様も亡くなって、朱海お母様が幸次郎さんと再婚して少し経ったころ。

 私は二つ年下で、まだ三歳だった妹の朱鷺子さんと、お庭で遊んでいた。

 あのころから私は、よく朱海お母様に「愚鈍」だと言われて、頬を叩かれたり背中を蹴られたりしていたように思う。

 朱鷺子さんは私が転がす鞠玉を拾い上げては、にこにこと笑って、私に転がし返してくれていた。


「ねえね、みつねえね」


 たどたどしく私を呼ぶ声は、愛らしかった。

 姉と慕ってくれる朱鷺子さんが、私みたいに朱海お母様に叱られて、辛い思いをしなければ良いのだけれど。

 そう思っていた。

 鞠を転がして遊んでいると、不意に朱鷺子さんが鞠玉を両手に持って走り出した。

 朱鷺子さんはどういうわけか井戸の前まで走っていくと、鞠玉を井戸に落とそうとした。

 井戸は深く、落ちたら朱鷺子さんが死んでしまう。

 つま先を伸ばして不安定な姿勢で井戸を覗き込もうとする朱鷺子さんに駆け寄って、私はその体に抱きついた。


「朱鷺子!」


 朱海お母様の悲鳴じみた声が聞こえた。

 駆け寄る足音が聞こえたと思ったら、私は朱鷺子さんから引き離されて、庭に驚くほど強い力で突き飛ばされた。

 庭の砂利が、体に擦れる。

 鞠玉が転がっているのが、視界にうつる。

 遅れてやってきた体の痛みに混乱しながら、逆さまになった景色の向こうに、朱鷺子さんを抱きしめる朱海お母様の姿が見えた。


「なんてことをするの、なんてことを……! 鬼子、あんたは、鬼子よ!」


 朱海お母様の金切り声が聞こえたのだろう。

 何事かと、母屋から幸次郎さんがやってきた。

 幸次郎さんは私を助け起こすと、擦りむいた膝から流れる血を見て「可哀想に」と言った。それから、「消毒だよ」と言って、ぺろりと舐めた。


「朱海さん、何があったんだい? そんなに怒鳴り散らして」


「蜜葉が、朱鷺子さんを井戸に突き落とそうとしたのよ!」


 朱海お母様が、燃えるような憎しみに満ちた瞳で、私を睨んでいる。

 お母様から優しく微笑みかけられた記憶なんてないけれど、ここまで苛烈な視線を向けられたのは、はじめてだった。


「怖かったわね、朱鷺子さん。可哀想に。二度と、朱鷺子さんに近づくんじゃいわよ。あんたは私の子なんかじゃない。鬼子よ。鬼がこの家に置いて行った、捨て子なのよ」


「何を言っているんだか。落ち着きなさい、朱海さん」


「幸次郎さん。まさか、その子の味方をするんじゃないでしょうね?」


「嫌だな、まさか。俺は朱海さんの味方だよ。ほら、家に入ろう。落ち着いて」


 大きな声に驚いたのだろうか、泣きじゃくる朱鷺子さんを連れて、朱海お母様と幸次郎さんは母屋に戻って行った。

 地べたに座り込んだままの私は、膝に触れたぬるい舌の感触の気持ち悪さと体の痛みに呆然としながら、お母様の言葉を繰り返した。


「私は、鬼の子。だから、怒られる」


 だから、お母様は私のことが嫌いなのだろうか。

 私は、鬼だから。

 座り込んだままの私の元に、お母様のお気に入りの使用人がやってきた。

 お父様が亡くなってから、若い女性の使用人は家からいなくなっていた。その使用人も、お母様よりもずっと年上の女性で、私はその方が苦手だった。

 その方は私を庭から引きずるようにして布団部屋へと連れていった。


「そこで反省なさいと、奥様からの言伝です。明日の朝まで、ここにいなさい」


 扉が閉められ、外側から鍵をかけられた。

 私は空っぽの布団部屋の中で、寒さと恐怖に震えながら、一夜を過ごした。

 どれだけ扉を叩いても、「ごめんなさい」と謝っても、扉は開くことがなかった。

 それからだ。

 ここは私の部屋になり、私の居場所は、六谷家にはなくなってしまった。


「気持ち悪い……」


 暗闇の中で膝を抱えて、私は呟いた。

 幸次郎さんに足に触れられた感触が、まだ残っている。

 まるで、蛞蝓が足の上を這いずっているようだ。

 だから、嫌なことを思い出してしまった。

 消毒だと言って、触れた舌。何もそれは、あの時だけじゃない。

 幸次郎さんは私に優しい。朱海お母様に見つからないように、私を助けてくれようとする。

 けれど、その声も、手のひらも、私にはおぞましいもののように感じられた。

 多分、朱海お母様は気づいたのだろう。柿の木から私を幸次郎さんが助けたこと。離れに連れて行ったこと。

 でも、もうどうとも思わない。

 恐怖の先にあるのは、諦めだった。

 私は、ここにいる他に、生きていく術を知らない。



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