第十話 3
「えっと、そんな事あったっけ?覚えてない……」
「あんだけ酔っ払ってりゃそうだろうよ!!……あーくそ、あんたのそういうとこ、素直に羨ましいよ」
「ひどーい!それどういう意味!?」
「そのまんまの意味だよ……何やっても余裕あるっつーか、ヒョーヒョーとできるっつーか」
皮肉か嫌味を言われたと感じた陶子は頬を膨らませるが、晃の言葉は素直な本心だった。
「俺も昔みてえにすぐキレちまうの、少しは治ったかと思ったけどよ……ダーメだ、やっぱなんかまだ、余裕足りてねえや」
陶子の吐瀉物と同時に思い出した、心の余裕を欠いた怒りと虚しさばかりの日々。
あの頃から変わったつもりでいても、新たな問題――行き詰まり決定打を出せないヴェノムジェスターとの戦いに四苦八苦し続ける自分を思うと、一年前に出会った陶子の余裕には程遠い。
「……実はね、晃くんの思ってるような人じゃないんだ、私」
何が考えるように一呼吸入れた後に陶子から出た言葉と表情には、今まで晃が見た事のないはっきりとした憂いが表れていた。
一年前に酔っ払った姿から一言だけ出た、破滅願望を滲ませる暗さが明確な形になったようだった。
「余裕……余裕なんて無いよ。仕事でも失敗ばかりで、怒られてばっかりで。強い大人に憧れて、真似っ子して過ごしてるけど……全部見栄なんだよね」
陶子がだらしのない人間で、中西先生のように見る目の厳しい人間からの受けが良く無いことは晃も知っていた。
しかし生徒にナメられても、同僚に疎まれても、まるで気に求めず煙のようにするりと避ける。そんな人間だと思っていた。
「次こそは次こそはー、って頑張ってるつもりなんだけどね。なかなかうまくいかないっていうか、肝心なところで踏ん切りがつかないっていうか……」
よくある悩み、誰の心の中にもあるような大人の悩み。
陶子の中にあってもおかしくないものだが、こうして他人に打ち明けるのは晃が知る限り初めての事だ。
「ごめんね、ちょっと愚痴っぽくなっちゃったかな?」
「いいよ。いつも俺が話聞いてもらってる側だったからな。たまにゃ俺が聞き手に回んのもアリだろ」
弱った自分を助けて来た人間が、今度は自分に弱った姿を見せてくれるのが少しだけ嬉しく感じた。
些細な事でも今までの恩を返せるのなら、いくらでも聞いてやりたい気分になった。
「晃くんは昔に比べて良くなったよ、ずっと見てた私が保証する。晃くんみたいにバシっと行動キメられる秘訣、私が聞きたいくらい」
「あぁ?秘訣って言われてもな……」
聞くだけならば良かったのだが、不意に褒められた上に自分の言葉を求められた晃は戸惑う。
何が陶子の力になれるような事を言おうと、足りない頭を必死に掻き回して言葉を探した。
「……全部そうだってわけじゃねえけど、俺はなんかやる事決める時って、結局最初に頭に浮かんだ事なんだよな」
「ムカついた、殴りてえ、手伝いてえ、恩を返してえ……後からめんどくせえ理屈がついてくるけど、結局やるのは最初に思った、単純な事なんだ」
「……ダーメだこりゃ!こんなもん参考にならねえな!忘れてくれや!」
自分の口から出た言葉がいつもの自分の胸中そのまま過ぎて、陶子の為になるように思えなかった。
期待の眼差しを受けることへの気恥ずかしさと申し訳なさもあり、結局自分の言葉を撤回しようとした。
「ううん、ちょっと元気でたよ。最初の気持ちが一番。単純でいいね」
「あ!?どういう意味だよ!?」
「そのまんまの意味よ。今日はありがとう、背中押してもらっちゃった」
晃自身の認識に反して、陶子は満足したような笑みを浮かべて腰を上げた。
もうすぐ太陽が隠れて夜が来る。今日の談話が終わる時間が来た。
「……あのよ、最後にひとついいか?」
「なーにー?」
「あんたってさ、なんでここに来るようになったんだ?」
初めて屋上で出会った時から、ずっと気になっていた些細な事。
陶子は自分の事をあまり語ろうとしないので、なかなか聞き出せずにいたが珍しく胸中を語った今日なら聞ける気がした。
「言ってなかったっけ?晃くんとだいたい一緒だよ」
晃の方を振り返らず、表情を見せないまま陶子は応えた。
「――どいつもこいつも、鬱陶しくてやってらんないから」
沈む夕陽が、陶子の背中に影を作る。
じわりじわりと空を染める、夜の闇へと歩く姿は晃の脳裏に焼きつくほど美しく見えた。
翌日の放課後。
晃、賢治、宏の三馬鹿に麗華と亜由美が加わったいつもの五人組。
生徒達がそれぞれ部活や帰宅のために教室を出て人気がなくなった三組の教室でなんとなく、ぐだぐだと行われる他愛のない会話。学生生活の一コマ。
「そういえば芽吹くんって、放課後独りの時なにやってるんです?」
「なんでそれをお前に言わなきゃならねえんだよ」
突然振られた亜由美の疑問を、不機嫌を装って避ける。
陶子との密会は、出来ることなら二人だけの秘密にしておきたかった。
「あー、昨日はボクらみんな用事あったからねえ」
「またとーこたんの所行って甘えてたんじゃネーノー?」
「わーバカ!それ言いふらすなって!!」
たが、賢治と宏の二人にはとっくの昔に見透かされている。
彼らが陶子との密会に加わった事はないが、普段の仲の良さからかなり早い段階で気づかれていた。
「えっ……翡翠先生と!?」
「へえ……甘えてたんだ?」
賢治と宏の告発で、女性陣に衝撃が走る。
亜由美は心底驚いた表情を、そして麗華はじわりと不機嫌を露わにした。
「てめえらはまたそういう変な言い方を……!!」
「泣き虫の次は甘えん坊?まるで赤ちゃんみたい――」
慌てる晃へ嫌味を刺す麗華の言葉は、スマホの着信音によって中断される。
発信者の名前を見た瞬間にその表情が強張った。
「ごめんなさい、ちょっと席を外す」
晃にアイコンタクトをして教室を出る。
それが緊急の案件、即ちヴェノムジェスターが動きを見せた知らせである事を場の全員が察した。
〈麗華さん!今から迎えの車がそちらに向かいます!芽吹さんと一緒にすぐ現場に急行してください!〉
「晶獣の出現……今回はなにか特別な緊急性が?」
通話の相手、森川さんの声色には焦りが見える。
今まで何度も森川さんから緊急連絡を受けてきた麗華だが、穏やかながらも冷静な態度で業務を行う森川さんがここまで慌てているのは珍しい事だ。
〈落ち着いて聞いてくださいね……ジェスターが、ヴェノムジェスターか……〉
〈蘭さんを誘拐したんです!!!〉




