第九話 1
「なかなか来ないものだから迎えにきてみたら……人の妹相手に何をやっているの?」
密着する晃と蘭に声をかける麗華の額には青筋が走り、声の後には口の中にあったであろう飴を噛み砕く音が聞こえる。
「いや、なんかお前の妹が話したいって言うからよ、JRICC行くついでに」
「わー!姉ちゃん違う!誤解!!落ち着いて!!」
晃と麗華の仲を修復したい蘭にとって誤解と不和を招きかねない最悪の事態。
例によって状況を理解しきれていない晃は悪気無く現状を話す。
蘭は慌てて体を離し、弁明を始める。
「落ち着いてる」
麗華は努めて冷静さを保とうとしているが、その全身からは不機嫌のオーラが滲み出る。
今さっきまで関係を修復しようと思っていた相手が、どういうわけか大事な妹と距離を近づけてただならぬ関係になっている。そう見える。
妹が唆されたのか、或いは妹が唆したのか。
麗華の胸の苛立ちはどちらの可能性から湧き上がっているのか。
歩み寄って仲直りしようと思っていた気持ちが一気にリセットされてしまった。
「あうう…やらかした〜……」
「おい、こいつは別に悪くねえぞ。お前と仲直りしろって頼み込んできてよ」
弱った顔をした蘭が哀れに見えた晃はどうにか誤解を解こうと二人の間に入る。
自分が渦中のど真ん中であるとも知らずに。
「自分で話すべき事よ、私の不甲斐なさが招いた事だということも理解してる……でも、これは戦いにも関わる事で、戦う人間ではない蘭を巻き込んではいけない」
「うう〜……」
「戦いに巻き込みたくない、あなたの友達のような事はもう起こってほしくない……いつも言っているように、あなたにはずっと平和の中にいてほしいのよ」
その言葉を聞いた蘭は何も言えなくなり、ただ俯く。
かつて蘭の友人に何かあったと思わしき発言からは後悔と決意、そして蘭への慈愛が感じられる。
晃にはその一件の中身はわからないが、麗華と蘭の双方に強いトラウマを残したのだろうという想像だけはできる。
そして麗華の言葉は、かつて晃が立てた賢治や宏を巻き込まないという誓いにもよく似ていた。
麗華が自分を早いうちから信用したのも、こういった部分での共感があったからなのだろうと晃は気がついた。
「しゃあねえ、妹との話はまた今度だな」
「ちょっと、話聞いてた!?私の事は蘭に頼らず、私自身で解決すると言っているのよ!?」
だが、晃は蘭の声を直に聞いた。
自分と麗華を仲直りさせたいと言っていたが、最後に絞り出した「私の事も助けてよ」という願いは、このままでは叶わないと思った。
心の隙間に出来た影が、優しさと思いやりの光にかき消されてしまうように見えた。
「うるせえなあ、話聞くだけだ。お前との事とは別で、話聞くって約束したからよ」
「お兄ちゃ〜ん!気持ちは嬉しいけどそれ火に油ぁ!!……気持ちは、嬉しい、けど……」
蘭の目論見はあくまで麗華の心の健全化だけで、蘭自身の事は考慮していなかった。していなかったはずだった。
しかし目の前のチンピラは女の感情の機微に疎いくせに寂しさだけには敏感で、少しだけ溢したそれを的確に拾ってくる。
晃の言動が姉を苛立たせている事はわかっていても、自分に向けられた思いやりが嬉しくて、顔を赤らめ俯いてしまう。
「……ッ!!とにかく!今は主任の所に行かなければならないの!私の話はその後!いいわね!?」
麗華は、晃と蘭の様子を見ると内側から沸々と湧き上がる苛立ちに戸惑う。
理由も鎮め方もわからないそれを使命で抑え込み、晃の腕を強引に引っ張ってJRICCへと引き返す。
「痛ってえな引っ張んなよ!!……話が違ぇぞ、こいつ全然頭冷えてねえじゃねえか……」
麗華、蘭、そして晃。
それぞれがそれぞれを慈しむ心を持っているのに、まるで大きさも形も違う歯車のように噛み合わず、回らず、不快な音を立て続ける。
「麗華さん!上手に仲直りで……き……!?」
麗華の気持ちを応援し、信じて送り出したはずの森川さん。
しかし帰ってきたのは眉間に皺を寄せた仏頂面の麗華。
横には見るからに機嫌の悪い晃。
少し後方には居心地が悪そうに森川さんを見つめる蘭。
何かが決定的にこじれ、仲直りが大失敗したのは誰の目から見ても明らかだ。
「主任の所に向かいます」
和解がまったくうまく行かなかった事に対する後ろめたさがあるのか、少し困った表情になった麗華は森川さんとは目を合わせずに受付横を通り過ぎ、早足でエレベーターの方面へと歩いていく。
「……ウッス」
森川さんに軽く会釈して麗華の後に続く晃は、口数を控えて不機嫌を極力表に出さないように努める。
それでも嘘が苦手で感情が表に出やすい性分は誤魔化しきれず、口はへの字に曲がったままだ。
「これは……一体何が……?」
ダメ女とダメ男が何も言わずに去り、状況が読めないままの森川さんは残された蘭の方に視線を向ける。
瞳を潤ませた蘭は森川さんに駆け寄り、カウンター越しに抱きついて泣き始めた。
「恵ちゃ〜ん!なんとかしてよぉ〜!!」
「落ち着いて、落ち着いて……きっと解決の手段はあるはずだから、まずは落ち着いて話を聞かせて、ね?」
頼るものの居ない蘭を大人のお姉さんの包容力で優しく抱き返し、なんとか話を聞き出して問題の解決を図る森川さん。
しかしこの時森川さんはまだ気づいていなかった。
この問題の解決に理性は全く役に立たないという事に。
地下三階のJRICC本部まで向かうまでの複雑な道筋。
時間の経過と共に麗華の湯だった頭は冷え始め、自分の短気な言動を後悔し始めていた。
毎度の如く会話の進まない、二人きりの道のり。
晃に対して何か言うべきなのだろうが、冷えた頭に対して煮えくり返った腹は未だ収まらない。
自らの生まれに起因する子供じみた強さへの拘りは、易々と変えられない。
話す事で理解してもらうはずだったのに、どうしても言い出す勇気が湧かない。
「妹の事、甘やかし過ぎじゃねえの?」
最悪の空気、二人は横並びに歩いて目も合わせられない。
そんな中で突然口を開いたのは晃だった。
「……は?」
晃が妹の事に言及するだけで、二人が密着していた場面を思い出し頭に血が昇る。
これ以上怒ってはいけないと必死に自分を押さえ込むも、足を止めて晃に向ける視線と言葉にはどうしても棘が出る。
「俺みたいなバカと妹が話してんのが気に入らねえってのはわかるし、戦いに巻き込みたくねえのもわかるけどよ。流石に窮屈そうで見てて可哀想だよアレは」
「余計な心配をしないで。あなたには関係のない事よ、バカである事もね……別に窮屈な思いをさせたいわけでもない」
「だったらもう少し言い方ってもんがあんだろ。あいつお前のために……!!」
「だから!そういう口出しが余計だって言ってるのよ!!」
――お願いだからもう妹の話をしないで。
それが理由のわからない我儘である事は麗華自身もわかっているので表に出せない。
「ならあいつが俺と何話すのもお前にゃ関係ねえだろ!あんまあいつのやる事に口出すなって言ってんだよ!!……お前今日なんかヘンだぞ、落ち着けよ」
「ヘンじゃない!!」
どれだけ自分の行いを後悔しても、どれだけ後から冷静になっても、麗華と晃の胸のマグマはすぐに湧き上がる。
お互いを信頼しているから、共に戦う仲間だからと無用な衝突を避けて冷静さを装っていた晃と麗華だったが、二人の持つ短気な性分は限界に近づいていた……




