第十話 下山と私
真っ白なブラウス。ダークグレーのジャンパースカート。スカートと同色のボレロの上着。臙脂色の紐タイを襟元に飾れば制服の完成だ。
姿見の鏡の前でくるりと回り変なところがないかを確認する。
髪は母にせがんで切ってもらった。肩に付かないぐらい短くなったおかげで頭が軽い。婚儀に必要だとかで一房だけ長いままの髪が右サイドにあるが、それは赤い石がついた髪飾りで留めておく。
入学式は明日で、今日は入寮日となっている。
改めて自分が学校に入れたのだと実感し、制服姿を眺めてはにやにやとしてしまう。
そんなことをしていると、外から私を呼ぶ声が聞こえてきた。
外に父さんたちを待たせていることを思い出し、慌ててカバンを引っ掴み、部屋を飛び出す。次に帰ってくるのは3か月後。この部屋とも8月までお別れだ。
外に出ると、両親とマリ伯母さんとライ兄さんが揃っていた。
「ごめんなさい、待った?」
「時間には余裕があるしまだ平気。制服似合ってるよ」
「えへへ、ありがとう兄さん」
「もう制服を着ていくのか?入学式は明日なんだろ?」
「寮は学校内にあるのよ。なら制服の方がいいわ」
「授業中以外なら私服で校内を歩いていても問題ないけど、ここでの服は学校じゃ、というか王都じゃ浮いてしまうから」
普段来ている服は毛皮や麻布で作られた民族衣装といった感じで、山で暮らす分にはすごしやすいが都会では浮くだろうし、いま着ているノリでパリッとした制服だと山の中じゃ浮いてしまっている。
これから下山するというのに汚れてしまわないだろうか。
「部屋着にするような服はオレの古着とか適当に買ったのを荷物に混ぜておいたけど、出掛ける用の服は向こうに着いたら買っておかないとな」
「お金は足りてるか?準備にいるならもう少し持っといたほうがいいんじゃないか?」
「もう十分だよ父さん。あんまり持ちすぎてトラブルに巻き込まれても嫌だからさ」
「でも、新しい場所で生活していくなら何かと入用でしょう?学校で使うものも多いでしょうし……」
「学校で使うものは学校側が用意してくれているよマリ伯母さん。布団も机も本棚も、寮の部屋に揃っているし、学食や購買は生徒ならただで利用できるから食事の心配はいらない。こっちが用意するのは衣類ぐらいだよ」
私が学校に行くことに反対していた二人は、いざ私の入学が決定すると、私よりもそわそわしだし、学校や寮での生活を心配し始めた。何かと確認の手紙を何通も兄さんや学校に送り、事細かくやり取りをしていたらしい。そういうこともあり、入寮日の前日に帰ってくるつもりだった兄さんは、説明のため長期休暇に入ってすぐに帰ってくるはめになったのだとか。
さっきのやり取りも私が知るだけで3回は繰り返している。兄さんは完全に呆れ顔だ。母さん一人だけが、良かったねー楽しみだねーとのほほんとしている。
「もう行くからね!行くぞ、リア」
「うん、行ってきまーす!」
しびれを切らした兄に手を引かれて歩き出す。後ろを振り返って手を振れば3人とも手を振り返してくれた。
今日までいろいろあったけど、こうやって円満に送り出してもらえて本当に良かったと思う。
「父さんもマリ伯母さんも心配性なんだ。あれ、オレが入学するときもやってたし、コイ兄のときもカイ兄のときも全く同じことしてたらしいぜ」
「もう性分だね」
「心配してくれるのはいいけど、あれにずっと付き合ってたら学校に着くのが夜になってしまう」
「学校までどれぐらいで着くの?」
「山のふもとから、バスっていう乗り物に乗って、王都まで5時間ぐらい」
「5時間……結構かかるね」
「ただ、このまま歩いて下山してふもとに着くのに7時間ほどかかる」
「な、7時間!?」
今から7時間かけて下山し、5時間バスに揺られるとなると、王都に着くころには真夜中になっている。
そりゃ確かに、この山の標高はものすごい高さだろうなとは思っていた。なんせ村がある位置よりもずっと低い位置に雲が通ったりするのだ。
驚く私に、兄はにやりと笑う。
「普通に歩いて下山すれば、な」
「歩かないの?」
この山にロープウェイのようなものはない。下山するには歩くしかないはずだ。
「歩いてちゃ時間がかかる。つまり、走る!」
「はしっ、走ってどうこうなる距離じゃなくない!?」
あと歩いて7時間かかる道のりを走り続けられる自信もない。
「オレ一人の時は霧があるところまでは飛んでいくんだけど、リアのアレは相変わらずか?」
「あー、うん………」
空を飛ぶときに翼と一緒に魔法も使うことが多いらしいが、龍人族は自前の翼があるため魔法が使えなくても空を飛ぶとこができる。
けれど、私は空を飛ぶことができなかった。
というのも、転生して前世の記憶を思い出してからこれまで、落ちるということに強い拒否反応を起こすようになった。
落ちそう、落ちるかもしれない。そういう状況に置かれると、痙攣するほど震えあがり、汗や涙が止まらなくなったり、体が硬直して動けなくなったりする。
原因として真っ先に思い当たるのが、前世での死因。階段から落ちて死んだことが、この落下恐怖症の元になっているんじゃないかと考えている。とはいえ、これを家族に言うわけにもいかないので、原因は不明となっている。
ただ、不思議なことに私の心情的には恐怖心は一切ない。体だけが強い拒否反応を起こして、恐怖心や拒否感という自覚症状がないものだから、急に体が動かなくなってびっくりすることがある。
いろいろ試して分かったことは、高所恐怖症ではなく落下恐怖症であるということ。
あくまで“落ちる”ということが駄目で、そういう意識がないときは平気だった。
例えば、2階の窓から外を眺めるとかその場でジャンプするとかは平気。それに対し、細い川を飛び越えるとか木に登るとかは無理で、特に自分で空を飛ぶことがより一層強い拒否反応を起こす。
「オレが抱えて飛ぶのも駄目なんだっけ?」
「自分で飛ぶよりはマシだったはず………でも暴れたりするかもだし」
「それは危ないか。自分で自分の状態がわからないのは大変だな」
「うん……」
自分で自分が分からない。
これがなかなかにやっかいなもので、私に明確な恐怖心がないものだから、その場にならないと自分が平気なのか駄目なのかが判断つかないのだ。
川に落ちた時だって、深さは私の腰ぐらいあったけど、幅は狭かったから飛び越えられると思った。が、飛び越えようとした瞬間に体が硬直し、そのまま川に落ちてしまった。
「じゃあ、やっぱ走っていくしかないだろ」
「私、そんなに早く走れないよ?」
「問題ねぇよ。オレが背負って走るから」
「せおう、って……いくら兄さんでも、それは無茶じゃ………」
「大丈夫だって。ほら」
私の前に背中を向けてしゃがむ兄さん。運動神経が良さそうな印象はあるものの、いくら何でも約30㎏を背負って下山は無茶が過ぎる。
けれど、ほらほらと促してくる兄さんはやる気で、断り切れそうにない。
その背に負ぶさると、兄さんはすぐに立ち上がった。急に視界が変わり、思わず兄さんの肩に力いっぱいしがみついてしまった。
「あれ、おんぶは大丈夫だったよな?」
「あ、いや、大丈夫」
立ち上がった瞬間はびっくりしたけれど、背負われているだけなら問題はない。これまでも何度もしてもらっていたし、これは確認済みだった。
兄さんの力が強くて安定感があるから、落ちそうという意識がないのかもしれない。
「少しずつ速さを上げていくから、ヤバそうなら声かけてくれよな」
「うん」
兄は私を背負ったままゆっくりと歩き出し、徐々にスピードを上げていった。
これなら平気そうだ。しがみつく手は離せそうにないが、変な呼吸になったり、眩暈がしたりということはない。
けど、このまま走るなんて兄さんの方が大丈夫だろうか、なんて心配したりしたが、それが杞憂であることがすぐに分かった。
走る速さが、異常なほど速い。
「に、にいさん!これっ、はやすぎない!?」
「いいかリア。魔力の使い方ってのは、火を吹いたり、水を出したりするだけじゃない。
むしろこっちが龍人族の真骨頂、肉体強化だ!」
ぐんっと速さが増した。車に乗っているような勢いで周りの景色が後ろに流れていく。
がくがく揺れる視界に、別に意味で眩暈がしそうだった。
ちょっと待って!という私の声は兄には届かない。