第一話 異世界と私
そっと見上げた時計は21時過ぎを指している。できるだけ音をたてないようにパソコンを閉じ、手早く荷物をまとめた。
「お疲れさまでーす………」
ぽつぽつと残業を続ける同僚たちを横目に退社しようとすると、後ろから声をかけられる。また何か仕事を押し付けられるのかと、恐る恐る振り返ると先輩社員の人が段ボールを抱えてやってきた。
「悪いんだけど、帰る前にこれ、上に持ってってくれる?」
先輩は段ボールを床に降ろしてからそう言うと、私の返事を待たずに自分の席に戻っていった。
まぁそれぐらいなら、とタイムカードを切ってから段ボールを抱える。台車を使うほどではないが、腕力に自信がない私には割とギリギリの重さ。きっと中には過去の実績表などの捨てるに捨てれない紙類がぎっしりと詰め込まれているのだろう。
先輩の言う上、というのは2つ上の階にある物置のこと。置き場に困った物たちは大体そこに詰め込まれる。
腕がつらいのでさっさとエレベーター使ってしまおうと思ったが、エレベーター前に課長の姿を発見し、すぐさまUターンして階段に向かう。
あの課長は何かと嫌味な人で、人のミスや粗探しが好きな人なのだ。こんな、いかにも指摘してくださいと言わんばかりの荷物を抱えて鉢合わせになればその場で中身を検分され、何を言われるか分かったものじゃない。
先輩に言われて運んでいるだけ、けどそう言えば「自分が何を持っているかも把握してないのに運んでるの?」なんてにやついた顔で言ってくるのは火を見るよりも明らか。
社内で最も遭遇したくない人物だ。
腕と足腰はきついが階段を使って上に上がっていく。
階段は薄暗く、とても静かだ。上の階には物置の部屋や普段からあまり使われていない会議室などがあるばかりで人気が無いせいなのだろうが、今日はいやに不気味に感じた。
あまり掃除が行き届いていないようで、ざらつくようなべたつくのが靴の下からでもわかる。
あぁでも、今日は昼間に雨が降っていたから湿気のせいかもしれない。
手足の辛さを誤魔化すため、階段の端に積まれた埃だとか、朝に干してきた洗濯物のことや、今日の夕飯はどうするかなどどうでもいいことを考えながら階段を上っていく。
もう少しで登り切れる、というところで急にバチッと音を立て電灯が点滅する。
驚いて体が揺れた瞬間に足を滑らしてしまい、「あ、やば」と思った時にはもう遅く、私の体は宙に投げ出されていた。
浮遊感に包まれ、体が下に叩きつけられるまでスローモーションのようにゆっくりと、地面が迫ってくるのが見えた。
私の体は何度も叩きつけられるように転がり落ち、階段の踊り場でようやく止まる。
全身が燃えるように熱かった。視界が赤く染まり、頼りない電機の光も、段ボールから飛び出たであろう書類の紙も赤く見える。
指一本動かすことも、声を出すこともできず、静かに、沈むように意識を手放した。
ふっと意識が浮かんでいく。
柔らかなもので包まれた暖かさ、吸う息の冷たさやまぶた越しに光を感じ、私は目を覚ました。
私はまた、私が死んだ日の夢を見たらしい。
心臓の音がうるさくていつもより早く動いているのがわかる。あの浮遊感を思い出すたび冷や汗が止まらない。
体を起こしてあたりを見渡せば少し古びた木造りの部屋。今の私の部屋だ。
大きな鏡に映った青い瞳と目が合う。
銀髪に褐色の肌。日本人だったころの私と似ても似つかないこの容姿が今の私だ。昔はあまりに見慣れなくて、不意に鏡に映った自分を見てはぎょっとしていたけれど今ではそういうこともなくなった。
深呼吸をして肺に冷たい空気を目一杯に吸い込み心臓を落ち着かせてから布団を出る。
窓から外を覗けば、太陽の光が積もった雪に反射し眩しいぐらいだった。ここ最近では珍しく雲が少なく、青空が広がっている。そろそろ雪が溶けてなくなる時期なのかもしれない。
不意に光が遮られ、部屋の中に影が落ちる。赤いドラゴンが顔をのぞかせ、その大きな瞳が私を映した。
「おはよう、リア。朝ごはんにするから降りてらっしゃい」
「―――おはよ、お母さん。すぐ行くね」
赤いドラゴン、もとい私のお母さんは私の返事を聞くと、するりと人へ姿を変え、家の中へ入って行った。
私も手早く身支度を済ませて部屋を出る。
私が死んでどれぐらい時間が経ったのかわからないけれど、私が生まれてもう9年。
私は地球とは全く異なる世界、異なる人種に転生していた。
ゆる~く投稿を続けていこうと思っています。
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