9話 一輪の小さな花
夕刻を過ぎ、太陽は大地に少しだけ姿を隠し始めていた。
エヴェリンは細かい時間の約束をしていなかったため、いつでも出掛けられるようにと早いうちに支度を終わらせ、自室で本を読みながら時間を潰そうと思っていた。
けれども、どうしても集中することが出来ず、本を閉じては鏡を見つめ、また本を開くといった無駄な動作を繰り返していた。
エヴェリンは支度をしている段階で、散々迷った挙句背中の半ばまである髪を下ろして出掛けることに決めていた。
纏め髪は色が隠せる半面、老けて見えることが難点だった。図書館勤務には丁度良い髪型も、ノルベルトとの三歳という年の差を考えるとやはり迷いが生じた。
エヴェリン自身が年相応の外見をしていることと、ノルベルトが落ち着いていて実年齢より上に見られることは何となく理解はしている。けれど、ノルベルトが連れて歩くのに自分は相応しいのかを考えると、どうしても不安な気持ちが胸に巣食う。
結局、髪は解いて行くことにして、化粧を薄く施して準備を終わらせた。
ノルベルトはこの肌と髪の色を気にしないでいてくれるだろうか。
大好きな父親から譲り受けたものだとしても、一緒にいることで彼まで奇異の目に晒されることになるのだけは耐え難い。
エヴェリンはそんなことが起きた時のために、持っていくバッグの中に髪留めを忍ばせた。肌の色は変えることは出来ないものの、髪は多少なりとも誤魔化すことが出来るだろう。
一度は決めて準備を終えたものの、それでもおかしなところがないかと不安に駆られ、ついつい確認してしまう。
エヴェリンは机と鏡の前を何度も往復し、ようやく諦めたように椅子に腰を下ろした。
納得した訳では決してない。時間が迫ってきたからだ。
まだ太陽は完全に沈みきっていない。そろそろ通りに出て待っていようか。
そう思って、椅子から立ち上がったその時だった。
「エヴェリ~ン!お迎えだよ!」
「えっ」
沈んだ頃と聞いて、もう少し遅い時間を想定していたエヴェリンは、驚きながらも急いで一階へと駆け下りた。
そこには、普段の騎士団指定の服とは違い、白いシャツに薄いブラウン色の麻のズボンというシンプルな出で立ちのノルベルトが立っていて、エヴェリンはいつもと違う雰囲気に少しだけ頬を赤らめた。
ノルベルトとて同様で、エヴェリンの髪を下ろした白のドレス姿に、目を見開き固まっていた。
「ほら、二人ともそんなところでつっ立ってないで早くお行き」
「はい」
エヴェリンよりも先に我に返ったノルベルトが返事をして、店内のお客さんの注目を振り切るようにして二人揃って表通りに向かう。
「エヴェリン、日が暮れきるまではなるべく日陰を歩くんだよ!」
途中、背後からのアンネッテの言葉に大きく頷き返しながら、行ってきますと一言伝えて店をあとにした。
建国祭で湧き上がる王都クラインリートを訪れる人々の数はエヴェリンが思っていた以上に多く、特に表通りでは人にぶつからずに前に進むだけでも相当な苦労がいった。
それでも、キョロキョロと物珍しさに視線を彷徨わせる彼女に、とりあえず落ち着ける場所に移動しましょうとノルベルトが提案し、二人は中央広場に移動した。
空いている日陰のベンチに二人で腰掛け、ようやく一息つく。
ノルベルトは、いまだに辺りを見回す落ち着かない様子のエヴェリンに、柔らかく微笑みながら問い掛けた。
「帰りは何時までに戻ればいいですか?」
「今日は食堂を手伝わなくてもいいって言ってくれたので、あまり遅くならなければ」
「分りました。エヴェリンさん、どこか見たいところはありますか?」
「あの、建国祭は初めてで……」
「では、まず露店でも見て回りましょう」
「はい」
「ああ、その前に」
そう言って、ノルベルトはシャツのポケットに手を入れ、大事そうに何かを取り出した。
「それ……」
「ええ、ヴィースヴァルトの花です。知り合いが枯れにくいように手を加えてくれたんです。だからエヴェリンさんが家に帰るまではもつかと」
ノルベルトが取り出したのは一輪のヴィースヴァルトの花だった。
茎の端に小さな白い球の様なものが付いている。そこが加工されたところなのだろう。
「失礼します」
一言そう言ってから、ノルベルトはその花を丁寧にエヴェリンの髪に差し込んだ。そして少しだけ身体を離し、まじまじとエヴェリンを見やると満足そうに微笑んだ。
「あ、あの、ありがとうございます。すごく嬉しいです」
思いがけない贈り物に、エヴェリンは嬉しさと恥ずかしさで頬を真っ赤に染めながらお礼の言葉を口にした。
今日が誕生日だということを憶えていてくれたのだろう。ノルベルトの気遣いに胸の奥がじわりと温かくなる。
「いいんです。私は家の近くに咲いていた花を一輪摘んだだけですから」
そう言って笑ったあと、ノルベルトは立ち上がってエヴェリンを見下ろした。
「さあ、行きましょう。案内します。建国祭は毎年参加していますから結構詳しいんですよ」
「はい。お願いします」
言われて立ち上がったエヴェリンに、ノルベルトは一瞬躊躇するような仕草を見せたあと、おもむろに手を差し出した。
それが何を意味するのか理解できず、呆けたように手とノルベルトの顔を交互に見ていると、ノルベルトは僅かにはにかんだような笑顔を見せた。
「恐らく、先程よりも人が多くなるはずです。良かったら逸れないように手を繋いでもいいですか」
ようやく意味を理解し気恥ずかしさからの躊躇いが生じる。それでも、ノルベルトと逸れることよりも、慣れない恥ずかしさと緊張を我慢する事を選んだ。
エヴェリンは差し出された手におずおずと自分の手を乗せる。
ノルベルトは嬉しそうな笑みを浮かべて、その手を柔らかく握り込んだ。
初めて父親以外の男性と手を繋いだエヴェリンは、その包み込んでくる大きな温もりに、意外にも徐々に緊張が解れていくのを感じていた。