6話 歩み始めた心
海水の香りが混じる幾分涼しい風が、図書館の窓から微かに流れ込んでくる。
季節は一般的に冬と呼ばれる時期に入り始めていた。それでも一年中熱く照り付ける日差しはそれほど変わらない。一番暑い時期に比べて肌を晒すことが出来る時間が若干長くなるくらいだ。
吹き抜ける風はこの時期になると少し気温が下がっていて、建物の中は快適な温度になる。
建国祭を一週間後に控えて、王都であるクラインリートは少し慌ただしかった。
いつもは静かなこの国も、建国祭の日ばかりはガラリとその姿を変える。
沢山の露店が軒を連ね異国の物が並べられ、踊り子が舞うその横では奇天烈な風貌をした曲芸師が自慢の芸を披露する。国内だけでなく他国からもこの日だけは観光客や商人たちが訪れ、この王都の人口密度は一年で一番高くなる。
普段は人前にほとんど姿を見せることの無い国王一家も、この日だけは国民の前にその姿を現し、国民たちに日々の平穏な世情に対して労いの言葉を掛ける。
穏やかな国を象徴するかのように厳かな佇まいは厳粛な空気に包まれ、その姿を一目見ようと王城前の広場にはどこから湧いてきたのかというくらいの人数が集まる。建国祭一の催しだ。
エヴェリンは、毎年食堂がいつもに増して盛況になるため、国の機関のすべてが休みになる建国祭のその日、一日を通して食堂の手伝いをすることにしていた。そしてそれはもう何年も変わっていない。建国祭の様子も人伝に手に入れた情報しか知識として持ち合わせていなかった。
エヴェリンは記入していた書類から目を上げて、書棚の方を少し覗き見た。
少し前からノルベルトがここを訪れている。
普段は借りる書物をすぐに決めて受付にやってくる彼にしては、珍しく時間が掛かっているようだ。
カタンと音がしてそちらに目をやると、ノルベルトが書棚から一冊の本を取り出して受付に向かって歩いてくる。
いつも通りのやり取りを終えて貸し出し分の本を渡すと、ノルベルトは改めてエヴェリンをまっすぐ見つめ口を開いた。
「エヴェリンさん、今日は好きな花を教えてください」
「えっと、好きな花はヴィースヴァルトの花です」
道端のどこにでも咲いている南国特有の小さな白い花だ。太古の昔に存在していた民族の言葉で「小さいくありふれたもの」という意味だそうで、その意味が示す通りこの国だけでなく、近隣の国々のいたるところに咲いている。
実際にエヴェリンの故郷グリュップ村を流れる川の土手には、まるで絨毯を敷き詰めたかのように一面に咲いていた。幼い頃、よく父と一緒にそこでその花を摘んでは家中に飾っていたのをよく憶えている。エヴェリンにとっては思い出深い花。
「そうですか。私もその花は大好きです」
ノルベルトはそう言っていつも以上に優しげな笑みを漏らす。
けれども、いつもの一問一答が終わっても去ろうとしないノルベルトを不思議に思い小首を傾げると、彼は笑顔を消して真剣な眼差しで再び口を開いた。
「エヴェリンさん、建国祭の日の予定はもう入っていますか?」
思いもよらなかった問い掛けに驚きながらも、エヴェリンは正直に答えた。
「あの、その日は食堂のお手伝いをするつもりなんです」
「一日中ずっとですか?」
「……えっと」
「夜に少しだけ時間を作れませんか?少しだけでもいいんです」
向けられる若干険しい視線と乞うような物言いに、エヴェリンは少し焦りながら答えた。
「は、はい。お願いすれば大丈夫だと思います」
インゴとアンネッテからは普段から外出しろと何度も言われ続けているし、つい最近も建国祭の日くらいはとエヴェリンの出不精に呆れ果てていたのだから、恐らく話せば許しを貰えるはずだ。
エヴェリンの言葉を聞き、ノルベルトはようやく顔の強張りを解いて幾分安堵したような顔を見せる。
「では、家に居てください。日が沈む頃に迎えに行きます」
「は、はい。ありがとうございます」
「いえ。こちらこそ、ありがとうございます。では、建国祭の日に」
そう言ってノルベルトはいつもと同じ足取りで建物を後にした。
エヴェリンは完全に閉まりきった扉を少しのあいだ呆然と見つめる。
そしてしばらくして我に返り、今の一連の会話を思い出す。
建国祭の日に会いたいと言われたような気がする。
それに対して自分は了解したはず。
ということは、二人きりで出掛けるということだ。
よくよく思い返してみて、改めてノルベルトとの会話の内容を理解して顔が熱くなる。
図書館以外で会うのは初めてで、もちろん若い男性と二人きりで外出するのも初めてで。
どうすればいいのだろう。
普通に会話をすることが出来るだろうか。
緊張しすぎて何かおかしな言動をしてしまわないだろうか。
恐らくいつも会話をしている何倍もの会話をすることになるだろう。
それでも、今よりも更にノルベルトのことを知ることが出来ることに気が付き、エヴェリンは少しだけ顔を綻ばせた。
まずはインゴとアンネッテに許可を貰わなければ。
そう思いながらエヴェリンは残った仕事に取り掛かり始めた。