2話 親友の不思議な世界
図書館の別館の周りは木々が生い茂り、入り口方向から裏手の様子を伺うことはできない。したがって、図書館を利用する者が鬱蒼とする木々を抜けて、別館の裏庭に足を踏み入れることはまず有り得ない。
エヴェリンは静かな時間を過ごせるこの場所が気に入っていて、今日のような太陽が空高く顔を出す日は大抵がここで昼食を取ることにしていた。
裏庭の一番大きな木の陰に腰を下ろし持参した包みを開けていると、聞き覚えのある声が生い茂る木々のあいだから聞こえてきた。
「エヴェリ~ン」
「ギゼラ、いらっしゃい」
薄紅色のいかにも高級そうな服を身に纏った友人のギゼラが、慣れた足取りで木々の間を抜けて大袈裟なくらいに手を大きく振りながら走って来るのが見える。
この木立の間をこんなにも器用に通り抜けられるのは、どこを探しても恐らくギゼラただ一人だろう。
彼女はエヴェリンの王立学院時代の友人、エシェナウ侯爵家子女のギゼラ・ビルロート。貧しい家の出であるエヴェリンに対して、何の偏見の目を向けることなく接してくれる大切な親友だ。彼女は国議会でもへたな公爵家よりも絶大な発言力を持つ有名な貴族家の一員だが、それを感じさせない快活さと親しみやすさを持っている魅力的な女性だ。
国の機関である王立学院は、先代国王の意向で教材等の費用以外の学費は一切かからない。それに伴って発生する諸々の費用は、王族が生活する国庫からすべてが賄われている。そのため、この国の王族の生活は他国に比べてとても質素だと言われている。
以前は学費が高額なため、貴族や裕福な家庭の子供しか教育を受けることが出来なかった。それも大半が男性だった。
しかし今では希望する者には身分の差に関わらず、成績如何によっては男女の差別なく誰でも全課程を学ぶことが出来る。先代国王による、富裕層と貧民層の格差排除の政策の賜物だ。
その結果、エヴェリンのような片田舎出身の貧しい家の子供でも、こうして真っ当な教育を受けて好きな職に就くことが出来ている。ラヴィーナでは王族は畏怖の象徴ではなく、尊敬と敬愛の精神で敬われているのだ。
「エヴェリン、今から昼食でしょ?一緒に食べようと思って私も持ってきたの」
言いながら彼女は自ら持ってきた包みを見せてエヴェリンの隣に腰を下ろした。
「何かあったでしょ?」
「うん。だから話を聞いてもらおうと思って」
二人は並んで持ってきた昼食をとり始めた。
ギゼラは学院を卒業後、王立の歴史研究所に勤めている。
この国は他国と比べて男女の差別的概念が薄く、就業している女性は多い。特に、王立学院が一般国民に門戸を開いて以降は。結婚で家庭に入っても、子供が手元から離れればまた再度就業する女性も少なくない。エヴェリンの同僚であるケーテもその一人。
ただ、やはり貴族に関しては庶民のその常識も通用しないようだ。
「また紹介でもされたの?」
「そうなの!この前、晩餐会に無理矢理担ぎ出されてね。お祖父様のご友人の紹介とか言って会わされたんだけど、それが本当に感じの悪い人だったのよ」
彼女の両親はそれほどでないにしても、侯爵家の実権を握っている彼女の祖父は、貴族の子女が二十歳にもなって結婚をしようとしないこと、ましてや働いていることさえ納得していないようで、ことあるごとに妙齢の貴族男性と会わせようとする。
そして、その度に彼女はこうして愚痴を聞かせにエヴェリンの元へやってくる。
エヴェリンにしてみれば全く知らない別世界の話を聞いているようで楽しく、彼女の愚痴を苦に思うことはまったくなかった。
貴族の世界は、体裁やエヴェリンのような庶民には理解出来ない色々な決まり事があるようで、彼女の話を聞いて自分が貴族でなくて良かったとエヴェリンは毎回心の底から安堵している。
「その人、伯爵家の跡取りでね。外見はまあ普通なんだけど視線が酷いのよ!」
「視線?」
「そう、あからさまに上から下まで品定めするように私を眺めた後に、チラチラと胸元を見るのよ!伯爵子息の癖に下品過ぎて、よくもまあお祖父様はあんな人に私を会わせようなんて思ったものだわ!」
確かに彼女は賢いうえに美しい。
波打つ豊かな黒髪に同色の吸い込まれそうな大きな瞳。身体のラインは女性らしく豊満で、エヴェリンとしてはその貴族の男性の気持ちも僅かながら理解できる。それに加えて立ち振る舞いも優美で、ギゼラはまさしく良家の子女の手本となるような女性なのだ。
「それで、どうなったの?」
「そんなの、挨拶してお仕舞いよ!誰がそんな男のところに嫁いでやるもんですか!」
「まあまあ、落ち着いて」
「それに私はティーセン子爵様しか考えられないわ」
エヴェリンは彼女が心に想っている人がいることを知っている。それが同じ研究所で働くティーセン子爵。権力至上主義的な傾向が強い貴族の中では珍しくそれを欲するようなタイプではなく、それ故に一般的な貴族に比べると裕福という部類に入ることはまずない。どちらかというと学者肌で、家柄よりも研究の方を選ぶタイプである。
そして極めつけは、数年前に奥さんを病気で亡くしていて三十二歳で二人の子持ち。恐らく、たとえ想いが通じても家柄や彼の事情から、彼女の恋はかなりの前途多難だろう。
それでもギゼラはティーセン子爵を想うのをやめようとはしない。
エヴェリンとの友人関係からも分るように、彼女は身分の差や男女の差などで人を判断することがないのだ。貴族の中でも特に先鋭的な考えを持っていることで知られている。
その辺の貴族では、彼女のようなある意味奔放な女性の結婚相手などそうは務まらないだろう。
「ティーセン子爵様とはその後進展は?」
「残念ながらまったく。彼を目の前にすると緊張して思ったことを口にすることが出来ないのよ」
エヴェリンには彼女のこういうところがとても可愛らしく映る。恋をしたことがないエヴェリンにはその想いは理解することは出来なかったが。
「いつか伝わるといいね」
「ありがとう」
二人は微笑み合って、止まっていた昼食を再会する。
「エヴェリンは何もないの?」
「何もって?」
「好きな人とは言わないまでも、気になる人ができたとか、最近仲良くしてる人がいるとか」
「ないない。いつも通りよ」
「あ~、もう本当にもったいない!そんな地味な格好してるからでしょ。せっかくお父様譲りの綺麗な肌に綺麗な髪なんだから、もっとちゃんとした格好すればとっても可愛いのに」
エヴェリンの父親は北方の寒い国の出身で、この国のものではないと一目で分るくらいの容姿をしていた。
エヴェリンの父も母も多くは語らなかったが、父の出身国は国同士の戦いに敗れて今は存在しないという。父は長く続いた戦いに嫌気がさし、終戦後遠く離れた大陸南端の国、大陸一平和な国と謳われているここラヴィーナに移り住んだそうだ。
日差しを浴びても焼けることのない透けるように白い肌と、光が射すと黄金に輝く薄茶の髪、晴れた日の青空のような曇りの無いブルーの瞳。優しく穏やかな微笑みを絶えず湛えていた。
娘であるエヴェリンの目から見ても父はとても美しい人だった。
そんな父から、エヴェリンは髪と肌の色を受け継いだ。瞳はこの国でもそれほど珍しくない薄茶色。顔の作りは母親似で何処にでもいるような平凡な造りだ。
その容姿は、他国との国交の少ないこの国ではかなり奇異に映るらしく、村から一歩も出たことの無かったエヴェリンは、王都に移り住んだ当初は人々の好奇な視線が怖くてたまらなかった。今ではそんな視線もだいぶ慣れてしまったが。
「ちゃんとしたって、これ図書館指定の服よ」
「普段の話よ。それに今だって!こんなに綺麗な髪なんだから、縛って纏めるだけの地味な髪型なんかしなくて解けばいいのに」
「だって邪魔になるもの」
なるべく目立たないようにと、王都に移り住んでからは大抵この髪型だ。視線に慣れたとはいっても、見知らぬ人からの不躾な視線などあまり気持ちの良いものではない。肌の色は隠しようがなかったが、髪は纏めて団子状にしていれば色がそれほど目立つことなかった。
「それがもったいないって言ってるの。エヴェリンは笑った顔がとっても可愛いんだから、それを生かさなきゃ」
「私にはこれが普通なの」
「じゃあ、今度一緒に買物に行く時は髪を解いて、お洒落して行きましょ。私が全部支度してあげるから」
「ふふ、いつかね。今はまだそんな余裕無いわ」
家の家計を助けるために仕送りをしているので、自由になるお金はエヴェリンには少ない。ギゼラもそのことはよく理解してくれている筈だ。
「絶対よ。約束ね」
「はいはい」
二人の話題はその後共通の友人の話に移り、食事を終えたギゼラは研究所へと戻って行き、エヴェリンはケーテと交代するために蒸し返すような暑さの篭もる図書館に入った。