穢れた渇望
夜の闇の中に身を潜め、青年は静かに空を仰いだ。二つの月は共に欠けており、曇天が更に周囲の闇を深めている。今自分がいるスラム街の裏路地は、街ではありえない排泄物のすえた匂いが鼻腔を擽り、思わず眉を顰める。まったくここは自分の住む街とは違い、文明や文化とは著しくかけ離れた場所だ。こんなところに住んでいるというだけで唾棄すべき対象に住人を加えることに、なんら良心の呵責を覚えることすらない。
「はあ」
しかし、そんな場所で青年が切なげに漏らしたのは溜息ではなく、恍惚なる吐息であった。この薄暗い場所に身を置くだけで、自分の魂に根付く度し難い願望を成就させてきた記憶が蘇るのだ。この汚泥の如き場所で、健気に咲いている無垢な子供たちから流れ出す鮮血の赤。網膜に焼き付いた鮮やかな色を想起する度、下腹部が狂おしい程に甘く切なく疼くのだ。
「足りない」
その中でも一番鮮烈に残るのは、最近手にかけた兄妹のことだった。最初は街で出会ったところを気まぐれに親切に案内しただけであった。スラムの住人というだけで一線を引く青年だが、理性という観点から見ると街の無愛想な子供たちより礼儀も正しく仲間想いで自身でも意外なほどに好感をもった。既にスラムの多くの子どもを手にかけていたが、そのときは素直に自身の騎士としての矜持のみを満足させるだけで事足り、それ以上の欲求は覚えなかった。――そう、スラムで再び出会うまでは。
「満たされたと思ったのに……」
騎士として、青年はこれから国を護る大事な仕事のため王都を離れなければならない。それを全うするためにも、夜中にちょろちょろと出歩くことなどもうあってはならないのだ。偉大なる騎士の家系に生まれた以上、その責務に背くことは王に対する背信だ。自身の不甲斐なさは尊敬する父祖の名に泥を塗ることになる。だからこそあの緑髪の少女を最後の馳走として満足し、自身を厳しく律しようと思っていた。だが、眼を閉じるとあの時の光景が何度も浮かび、狂おしい程の渇望が心の底から自然と湧き出てしまうのだ。
今日、こんな夜中に出てきたのも突発的な行動だった。日中は任務のための準備に忙しく、全てを終えたのは日が落ちてからだった。その後、入眠しようと身を横たえたが、やはりあの時の光景を思い出してしまった。気付くと跳ね起きて服に着替え、フードを被り宿舎を飛び出していた。
「こんな夜中にあの子たちが外にいる訳がないじゃないか」
あの時出会った少女たちの容姿を思い出す。身なりはみすぼらしく肌も煤けてはいたが、顔立ち自体は皆整っており、手間暇かけて身なりを整えてやれば良家のお嬢様でも通用すると騎士としての審美眼が告げていた。その中でも、銀髪の少女の容姿はずば抜けていたと言っていい。なぜか髪もボサボサで肌の黒ずみも酷かったが、よく観察してみるとその目鼻立ちのバランスは神がかっており、健やかに成長すれば相当な美少女になると確信できた。
だが、一番惹かれたのはその眼であった。自分を見つめる紫水晶のような瞳を見た瞬間、一瞬その眼に吸い込まれるかのような錯覚を覚えたのだ。そして同時に不思議な畏怖のような感情を覚え、そのときはその少女を欲望の対象にすることすら躊躇われた。
「でも、最後はあの子がいい。あの子なら、この乾きもきっと……」
再び青年はあの兄妹を手にかけたときのことを思い出す。妹を命を懸けて逃がし護ろうとする兄、そんな兄を見捨てられず切り刻まれているところを身を挺して護ろうとする妹。愛するあまり最善の選択を放棄したその愚かしくも麗しい兄妹愛に青年は歓喜した。互いを護ろうと重なり合う背中を同時に貫いたときの甘美な感触は今でも手に残っている。
「あぁ」
青年は夢想する。あの類まれな美しい瞳を持った少女を、同様に愛剣で貫いたなら、と。あの瞳に絶望や悲しみを宿しながら、ゆっくりと光が失われていく様は、どのような花々が散る間際に見せる美しさでも叶わないのではないかと。
「散らしたい。何としてでも僕の手で」
妄想だけでこの愉悦ならば、実際にことを為したらどうなってしまうのだろうか。自然と荒くなる息に我ながら苦笑しつつ、周囲を見やる。夜中ということもあってだが、人影は見当たらない。仲間が惨たらしく殺されたのだから当然だろう。実際、何度か事件を起こした場所は、同様のこととなっており狩場には適さなかった。
だがこの視界に入るボロ家のどこかに、あの少女はいるのだろう。それが解らないという苛立ちに、全ての家に押し入り見つけるまで手あたり次第に斬り殺したい衝動に駆られる。だが、流石にそれは法の存在し得ないスラムとはいえ悪手と言える。ここには王国ですら手出しの出来ない怪物たちも住んでいるからだ。何らかのことで目をつけられたら拙い。
「でも、少しぐらいならつまみ食いしてもいいかな。正直僕も限界だ」
適当な家に押し入って、渇望を満たさなければ夜も眠れない。騎士としての責務をしっかりと果たすために、棄民の子どもたちはうってつけの贄といえるだろう。そう思い、腰の騎士剣に手を添えつつ一歩を踏み出すと――
「全く、人のナワバリで一人でぶつくさと五月蠅い男だな」
低い男の声が、静かに裏路地に響いた。




