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晩節


 街の雑踏の中に混じり、ヴァルドは耳を澄ませた。

 

 けたたましい笑い声や、石畳みを踏む靴の音、そして時折行き交う馬車の車輪が回る音や馬の嘶き。それらに混じる感情の残滓を拾い集め、感覚をどこまでも研ぎ澄まし吟味する。


 秘技、聴勁。体内を巡る気の循環を耳に集中させ、聴力を飛躍させるその技は、熟達すれば音だけでなく人の心までも読み取れるようになる。ヴァルドには、朗らかに笑いながら夫に寄り添う婦人が実はこっそり殺意を秘めていることや、皆に頭を下げられている立場ある老紳士がすれ違う娘たちに下卑た情欲を抱いていることが手に取るようにわかった。


「ふう」


 人の業というものを改めて思い知らされ、ヴァルドは一度聴勁を解いた。極限まで強いた集中は、病み衰えた体に多大な疲労をもたらす。既に全身が汗で濡れていた。ふらつきそうになる体を叱咤しながら、近くにある木に背を預け息を吐く。この技は途方もなく便利だが、知らなくてもよいものまで知ってしまうためあまり好きではない。


「しかし、本当に某は衰えた」


 昔培った冠絶せし力は急速に失われている。以前ならば三日三晩寝ずに全力で街を駆けながら、あらゆる妙技を駆使して悪を突き止め駆逐しただろう。だが、今の自分はほんの数分身体を酷使しただけで強い疲労を覚えてしまう。若きときはこらえることも造作なかったが、いまでは抗うだけで精いっぱいだ。それに疲労を押して無理しても倒れてしまうのは目に見えている。


「某はもう何も為せぬのか」


 せめて、一年程前の力があるならばとの想いが胸に過る。


(いや)


 一年前の自分も同様に悔いており、護り切れなかったものたちを忸怩たる想いで見送ったのだった。あの時の自分がいても結局は同様だっただろう。


(失われていく。某が今まで得たものが、まるで掌から零れ落ちるかのように)


 皺だらけの手をジッと見る。富は手にせず、求めるものは少なかった。いつでも心置きなく去れるようにとの想いから、若いころから自分から知己を求めるようなこともしなかった。そのツケというものを今支払わされているのだろう。


「気持ちよく逝くということも難しいものだ」


 老齢となって、かつて無力さに嘆いた少年の頃のような感慨を再び抱くことになるとは思わなかった。普通の老人ならば、孫やひ孫が出来、ある程度の財もあり子供に支えられながら悠々と生きているのだろう。そして、子孫や後進に未来を託してこの世を去るのだ。

 ヴァルドが世界に為した功績を鑑みるならば、望めばそのような可能性を叶えることは容易かっただろう。かつて、自分に妻子を持たなくともせめて弟子は取るべきと力説する武芸者がいた。その者も同様に妻子を持たなかったが、自身の流派を開き、多くの弟子に囲まれていた。高潔な人物で弟子にも慕われており、ヴァルドも羨望を覚えたほどだ。だが、自分は弟子というものを取ることを忌避していた。


 何故かと理由を考えれば、やはり失うのが怖かったからだろう。幼い頃、戦で家族や国を一瞬にして失った原体験がずっとヴァルドの人生につきまとっている。それを乗り越えるため、自身の弱さを克己することだけに生涯を費やしたと言っていい。


(いや、もう一つ。あのお師様のせいでもあるな)


 ヴァルドは苦笑しつつ、自身の師の顔を思い浮かべる。定命を持たぬ存在であったかの人はいつまでも若々しく、鍛えていけばおのずと自分もそのような存在になれるのだと心のどこかで思い込んでいたのだ。結果、それは誤りでありヴァルドは老いの残酷さを身を持って味合わされている。


(弟子、か)


 この街で剣を教えることになった少年のことを思い出す。一目見て稀有な才の持ち主とわかった。まるで昔の自分を見るようで、ヴァルドはいつしかあの少年が自分の孫であるかのように錯覚する程に可愛がった。だが剣を教えていくうちに、この少年が自分のような人生を辿るのではないかという危惧も同時に覚えた。


 ヴァルドがその少年に望むのは、平凡な幸せだった。類まれな才に触れ、自分のようになって欲しくないという気持ちに初めて気付いた。しっかりと大人になって、それほど偉くもないが卑しくもなく、愛する異性と子を為して波乱なく平穏に暮らして欲しい。かつて、同様のことを年配者の幾人かに言われたことがある。その時はおせっかいだと苦笑したが、今ならその気持ちがわかった。


「不甲斐ないぞ、ヴァルド」


 呼吸を整えると、ヴァルドは木から背を起こす。


 あの子は本格的な弟子にはしない。ヴァルドは己の気持ちに気付いたときそう決めた。あれ程の才覚ならば、自分がいなくとも何とかやっていけるであろう。あのスラムで健気に寄り添う大切な仲間たちとなら、きっと幸せになれるだろう。あの子とその家族たちに歓待されたときに、ヴァルドはそう確信したのだ。それほどまでに真っ直ぐでいい子たちであった。このまま何事もなく大人になったなら、きっと朗らかで優しいいい子に育つだろうとそう思った。


 だが、通り魔に仲間の兄妹を奪われるという凶事でそんな未来が危うくなってしまった。復讐に捉われるのではないかと心配したが、家長である少女は聡明にもそうしないと明言したため、ヴァルドは安堵した。そして同時に、自分に出来るのは彼らの心に深く刺さった棘を抜いてやることだと老骨に鞭打つことに決めたのだ。


 遍歴の最後の目標であった故郷に辿りつけなくとももうかまわない。たとえここで果てようとも、名目的とはいえ最後の弟子の為に残った命を振り絞るのだと。


 ヴァルドはしかと前を向くと、数多の人が行き交う雑踏の中へと再び足を踏み入れていった。


 

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