三日やったらやめられない
昼飯を済ませた俺は、一度外へと出て歯を磨いていた。
この世界の歯磨きは、塩を使い木の枝や布で歯をこするという方法をとっている。江戸時代や中世ヨーロッパのスタイルだ。しかし、スラムの人たちには当然そんな習慣はなく、みな例外なくボロボロの歯だ。
俺も当初は木の枝を使い歯を磨いていたが、どうにもしっくりこなかった。なので、自作することにした。以前歯医者で読んだパンフには歯ブラシの起源とやらが記されており、それには禅僧の道元という人物が宋へ留学した際、宋では馬の尾と牛の骨を使って歯を磨く習慣があると書き記されていた。
馬はこの世界にも存在しており、日中街へと出掛けたときに大人しそうな馬から尻尾の毛を失敬し、それを煮沸消毒したあと木の枝に紐で括り付けるとまずまずの物ができた。実際に使ってみると確りした弾力が歯に心地よく、前世でも馬毛の歯ブラシを使えばよかったと思うほどだ。
俺は一つまみの塩を塗り込み、馬毛歯ブラシで歯を磨く。魔法で生成した水が入っているコップで口をゆすぐと、ペッと外へ吐き出した。ふう、すっきりした。やっぱり、食後の歯磨きは必須だね。虫歯は痛いし、治療できないと敗血症とかで本当に死んじゃうし。この世界の虫歯治療がどうなってるかもわからない以上、歯磨きを怠ることはできない。
「んー、いい天気だなあ」
ポカポカとした陽気に誘われると、このまま外で寝てしまいたい気持ちになる。まあ、こんな治安の悪い場所で不用心なことは絶対にしないが。俺は一つ伸びをすると、また秘密基地へと戻る。そして特製ベッドに寝そべると、傍らにあるボロボロの絵本を取り出す。これは、街のゴミ捨て場に落ちていたところを拾ったものだ。本などは貴重品だから殆ど落ちていないため、これを見つけたときは喜びのあまり咄嗟に飛びついてしまった。街のゴミ箱には本当に色々なものが落ちていて、我らホームレスにとっては宝の山なのだ。
パラパラと絵の描かれた物語を眺めていく。色のついた絵はとても鮮やかで、その印刷技術は大したものだと思わされる。そっと撫でてもざらつく様子はなく、まるでプリンターで印刷したかのごとく滑らかだ。いったい、どうやって作ってるんだろう。
一応俺はリコとしての記憶も持っているため、この国の字は読める。リコの母は教育熱心だったし、リコも同年代の子供たちに比べて聡明な少女だった。だが、言葉は使わないと忘れてしまいそうなので、定期的にこの本を読んで勉強している。
そして俺は、アルファベットに似た表音文字の書かれた絵本を読み進める。こうして何度も読んでいるため、実は見なくても諳んじられてしまうのだ。それでも、やっぱり本というものは面白い。
絵本の内容は、護りの聖女と謳われた少女の話だ。この国であるアストリアに貴族の令嬢として生まれた彼女は、生まれ持って神様の強い加護を得ていた。その奇跡は都市全ての傷ついた住民たちを癒し、時には都市全体を覆う聖なる護りの壁で敵の侵攻を防ぎ人々を守ったともされている。そして護りの聖女は聡明なる第三王子と恋に落ち、暗愚とされる第一王子や第二王子と対立した際にも彼を護ったといわれる。それから内乱の末に王位をつかみ取った第三王子は、兄二人を処刑し父から王位を譲り受けた後に聖女を妻へと迎える。そして王位を継いだ王子が聖女の望みを何でも一つ叶えると伝えた際に、聖女は奴隷たちの解放を望んだ。そうして、めでたく奴隷制度は廃止されたという。めでたし、めでたし。
「いやあ、どんな時代にも立派な人はいるもんだなあ」
俺はうんうんと頷くと、本を閉じてベッドの傍らへと置く。しかし、さすがに他の本も読みたくなってきたなあ。この世界の詳しい歴史とかも知りたいし。この国の社会制度についても、まだいまいち分かっていない。この本をゴミ捨て場からサルベージできたのは幸いだったが、それ以降の収穫はないからなあ。
「まあ、それもおいおいなんとかしますか。んー、少し早いけどアレしちゃおうかしら」
俺は勉強を終えると立ち上がり、最大の楽しみを享受すべく一番奥の部屋へと向かう。その部屋は少し狭いが、ここの隅には人が入れるほどの四角いスペースが設けられている。そう、日本人なら毎日入っているアレである。
「おっふろ、おっふろ」
浴槽に水魔法で生成した水を満たす。そして次は、その水に手を入れながら火の魔法を行使して徐々に加熱する。魔法が使えるなら、だれもが考えたであろうこの行為。最初の頃は風呂を沸かすたびに魔力の消耗でフラフラになっていたが、今ではお茶の子さいさいである。
「うん。いい感じ」
良い湯加減となったところで、俺はガバッとワンピースを脱ぐと全裸になる。そして湯舟に足を入れ、ザブンとその身を湯へと浸した。
「ふいぃ。極楽、極楽」
一日の疲れが吹っ飛ぶようだ。やっぱりお風呂は最高だぜ。それが昼からなら尚更だ。しばらく何も考えず、ただ法悦に全てを委ねる。
この部屋はすぐ近くに下水道があるため、それを土魔法で繋げている。なので排水は完璧だし、湿気がこもったり窒息をしないよう秘密基地全体に通風口を作ってあるので、安全面の問題もない。火魔法、水魔法による家事・炊事。土魔法によるDIY。風魔法による掃除。いやあ、魔法様様だね。
「しっかし、気楽だなあ」
俺は今の生活に思いを馳せる。食うものに困ることなく、毎日の定時出勤もない。辛いノルマもなければ、煩わしい人間関係すらない。望んでこうなったわけではないが、今の俺は完全に自由だと言える。
毎日のせわしない労働に明け暮れ、ふと自由に憧れて胸が苦しくなる瞬間が前世では何度かあった。朝起きるとき、通勤電車に乗るとき、帰路につく最中、ベッドで眠りにつく際、ふと自分は何かに囚われているような気分に陥った。でも、魔法というチートを得た今は完全な自由を手に入れている。
「ホームレスは三日やったらやめられないってか」
ちゃぷちゃぷと浴槽内で顔や体、髪などを洗い汚れを落とす。
「……石鹸、欲しいなあ」
何とか作れないものだろうか。うろ覚えだけど、確か灰と油があればできるんだったよな。アルカリ剤とかって、どうやって作るんだっけ。前世で読んだマーク・トウェインの小説が面白くて、一回調べたことがあったよなあ。それを作れれば、内政チートで金策もできるんじゃないか?
「金かあ」
ここは快適だけど、いつまでもこうしているわけにはいかないだろう。幸い今は運よく大丈夫だが、病気とかになったら困るし。それに、ずっと物乞いで暮らすというのもリコや母親に申し訳ない。せめて、まともな生活が送れるようにはしたいものだ。
当初は、このスラムから出ることも考えていないわけではなかった。日中は薄汚れていても、街で邪険にされど追い出されたりはしないので、孤児院などの所在を調べたりもした。しかし街の孤児院というのも、スラムよりは多少マシという程度の認識であった。しかも丁度そのとき、太ったババアが棒で子供たちを殴りつけているのを見てしまったため、俺は孤児院に入るという選択肢を諦めた。
本来なら街で暮らせるというメリットがあるから耐えるべきなのかもしれないが、この境遇を捨てる気には到底なれなかった。そして俺には、もう一つ懸念というものがある。それは、俺が魔法を使えるということだ。身寄りのない子供が魔法を使えるということがバレた瞬間、社会はいったいどんな対応を取るのかが未だに分からない。三顧の礼で魔法学校的なところに入れてくれるとかならいいが、敵対的な対応であったり、最悪抹殺されるということもあり得る。それを考えると、まだ一人で行動した方が安全だと俺は思う。
「冒険者かな、やっぱ」
スラムの子供たちは、犯罪以外ではゴミ拾いや汚物処理などで生計を立てている。日中は街にいることが許されるので、重労働でこき使われている姿もよく見る。だが、それでスラムの生活から脱却できている者がいないところを見ると、得られる賃金はごく僅かなのだろう。
でも、そんなスラムでも悠々と生活している層はいるのだ。それはギャング団のトップクラスだったり、暗黒街のやばい事業に手を出しているマフィアみたいな連中にトップクラスの娼婦、そして成功した冒険者だ。そういった連中は、スラム中枢にある暗黒街と呼ばれる場所に住んでいる。日中こっそり見学に行ったこともあるが、そこはスラムと言ってもかなりの清潔さで建物などもそれなりに綺麗だった。そして、なぜか街から馬車でやってくる連中もいる。おそらくヤバ気なことをやっているのだろう。
しかもスラムの暗黒街には、驚くことに迷宮があるのだ。かなり武装した連中が、よくスラムを闊歩しながら向かっているのを何度も見かけた。彼らは、そこにいる魔物を打ち倒して得た魔石を街のギルドで換金するのだという。ちなみに、これは以前マルコから聞いていた話だ。
冒険者として金を稼げれば、スラムから抜け出すことも可能だろう。そうして街に住居を得られれば、前世の知識を生かしてなんらかの事業を起こし、安全にほそぼそと食っていけるかもしれない。
「でも、まだ駄目だな」
いくら魔法が使えるからと言っても、この体で攻撃を受けたらジ・エンドだ。それを考えると、もう少しリコの身体の成長を待たねばならない。当面は花売りや物乞いで稼いでいくしかないだろう。自由とはいっても、年齢の制約から選択肢は限られてしまうのが現状だ。
「……ふう、独り言が増えたなあ」
二年間、一人で生きてきた代償だろう。いくら気楽とはいえ、無性に寂しくなる時もある。夢で前世の家族の夢を見た際は、起きた後も暫し呆然としてしまった。だが、このスラムでギャングたちの内輪もめや壮絶なリンチの末に亡くなった他人の死体を結構な頻度で見ている身としては、ここで友人を作ろうなどとは到底思えない。やはり、一人がベストに限りなく近いベターだ。
「……のぼせたかな。出るか」
風呂は気持ちいいが、その分だけ思考があっちこっちにいってしまう。少し余計なことを考えすぎた。風呂を出たら冷たい水を飲んで、少し昼寝でもしよう。……ああ、ここにキンキンに冷えてやがるビールでもあったら最高なのに。
俺は浴室を出ると布で体をサッと拭き、風魔法で髪と体を乾かす。そして冷やしておいた水を飲みながら替えの服を着ると、俺は仮眠をとるためにベッドへと向かった。