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エレベーターから最初に案内された小さな部屋を通ってロビーに戻った。総領事館は業務終了間近で、客の数も減っていた。総領事館を出て大通りを歩き、エアカーを拾い、シャーム通りの我が家の前で降りる。と同時に、私はシャーム通りのモニュメントの後ろに身を隠した。私の後を追って来たエアカーから降りたのはジョンだ。私を見失ってきょろきょろと辺りを見まわしている。悪意はなさそうだ。私はモニュメントの後ろから広場に出てジョンの後ろに立った。
「何のつもり?」
文字通り、ジョンは飛び上がった。
「セシルさん」
「何のつもりか聞いているのよ」
「あの、頼みがあるんです」
「わざわざ後をつけて来て? さっき言えば良かったじゃないの?」
「みんなのいる前では笑われると思って。総領事館に行くって聞いたから総領事館の外で待っていて、それでエアカーで後をつけたんです」
「こんなの褒められたやり方ではないわね」
私は自分のことは棚に上げた。
「すみません」
ジョンはうなだれている。
「まあ、いいわ。いらっしゃいよ、話を聞くから」
ジョンの顔がぱっと輝いた。わかりやすい。さっきうなだれたことなど、すっかり忘れ去っている。暢気なものだ。が、まあ、いい。用件を聞いて早々にお引き取り願おう。ジョンと一緒にビルのエレベーターに乗り、仮宿のドアの前に立った。神経を集中する。
「どうしたんですか?」
「別に」
ヘアピンに反応はない。不審な電波なし。ドアを開けた。人の気配なし。よし。
「どうぞ」
ジョンは緊張した様子で、自動で明かりがついた室内へ入って来た。
「ソファーにかけて。お茶? ブランデー?」
「ブランデー」
私は吹き出しそうになった。ジョンの真面目くさった顔が面白かったのだ。少々背伸びをしているのが明らかだ。キッチンに入った私はブランデーの瓶を取った。
「あら、ごめんなさい。ブランデーが終わりそうだわ。ソーダで割るわね」
私はこの間雑貨店で買った彫の入ったグラスにソーダ割りのグランデーを作ってジョンに渡した。
「ありがとう」
「いいえ。それにしても、女性の後をつけるなんて」
「本当にすみません。でも、セシルさんにそんなことしているつもりはなかったんです」
ジョンはグラスを持ったまま、もじもじした。
「まあ、いいわ。他の人にはそんなことしないのよ。で、頼みって?」
「単車の操縦を教えてもらいたいんです」
ジョンの顔は緊張している。思い切って言ったのだろう。だが、私としては、ハルタンまで来て単車の指導をする気はない。悪いが、そこまで暇ではないのだ。
「私が? アランやマックたちがいるじゃないの?」
私はやんわりと断る策に出た。
「アランも、マックも、聞けば教えてくれます。でも、みんな自分のことで一生懸命だし、俺が鈍いから、そんなに熱心じゃないんだ。俺なんかを教えても無駄だと思ってる」
確かに、彼らはジョンに期待している様子はなかった。
「だけど、君がそんなに熱心に単車に乗りたいと思っていたとは知らなかったわ」
「乗るだけじゃない、レースで優勝したいんだ」
「それは、また……」
「あなたも無理だと思う?」
「いや。だけど、その理由を聞いてもいい?」
「好きなんだ。単車に乗るのが。何もかも忘れられる」
「優勝する必要はないわね」
「だめだ、みんなに認めてもらわないとレースに出られない。勝たなければ、誘いが来ないんだ」
「誘い? プロにでもなる気?」
私は苦笑したが、ジョンは真剣だった。
「そうだ」
ジョンの顔は興奮で紅潮している。しかし、プロとは。プロを目指した数多の人間がどれだけその道でひしめき合い、あがいているか、この子は知らないのだろうか?
「好きなだけでは、プロにはなれないわよ?」
「知ってるよ」
憮然とした顔だった。
「おうちの人は? なんて言っているの?」
「父はいない。母と二人暮らしだけど、母には恋人がいる。夕飯は、母か、俺か、どちらか早く家に帰った方が作るんだけど、今日は……」
ジョンはちらりと窓に目をやった。日はとうに暮れている。
「お母さんが作っているかもしれないのね?」
「それとも、恋人と過ごしているか」
「なるほど」
「セシルさん、俺はいいことだと思っているよ。母には幸せになってもらいたいんだ。母は俺のことに口を出さない。俺が巡視船の手伝いでどうにか食べていけるとわかってからは、なおさらだ。だから、いいんだよ、俺が何をしても」
「でも、単車のレースは、命の危険もあるわ」
私は現実に目を向けさせるべく、単刀直入に言った。ジョンはごくりと唾を飲んだ。だが、食い下がった。
「セシルさん、俺は馬鹿なんだ。みんなに足りないと言われてる。母さんをがっかりさせ通しだった。でも、いくら俺が馬鹿だって、単車が好きなんだよ」
「足りないって、どういうこと?」
「それは……俺は……思念を送るのが、遅いんだ」
ジョンは、その言葉を苦労して吐き出した。
セジュでは必須の思念を、上手く操れない者が少数存在する。彼らは思念が生活の上で欠かせないセジュの中では大きく不利になる。
「ちょっと待って。こっちに来て」
私は食品貯蔵庫の前にジョンを連れて行った。セシルの思念で貯蔵庫の思念のスイッチを解除し、誰の思念でも開くようにした。
「開けてみて」
ジョンは戸惑い、それでも頷いて真剣な顔で貯蔵庫のドアに向かった。
数秒後、ドアが開く。数秒……気の長い話だ。この調子で単車に指示を出していたのでは、ゼロコンマ何秒を争うレースでは間違いなく最下位だ。それも大きな差が開く。
「持って生まれた思念の伝達速度を変えることはできないわ」
私は言った。とうとうジョンの顔が絶望で曇った。
「それに、よい乗り手は思念の速さだけじゃなく、強度も求められる。あなたはそちらの方もいいとは言えないわね」
速度と強度はある程度一致するのだ。
ジョンは何も言わなかった。しばらく沈黙が続いた。
「いくらハルタンでも、思念には手を付けられないのよ。技術的にも倫理的にも」
「わかっているさ。だからセシルさんは諦めろっていうんだな?」
「さあ」
諦めきれないジョンを見て、つい口が滑った。面白いではないか、だめとわかっていてもやりたいと思うなんて。




