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私のブローチからオメガの声がした。寸でのところでとどまり、そのまま壁は元に戻ってしまった。
「オメガ、何故止めた?」
「パイアールハ ヒミツノツウロヲ ツカッテ ダッシュツ シヨウトシタ」
「そうだ、このままでは逃げられてしまう」
「ソレハナイ。アノツウロハ トジラレタ」
「閉じられた?」
「ソウダ。ゼフィロウ チアンブチョウニ シラレタ。 ヒビヤルドニトッテ パイアールハ キケンナ ソンザイニ ナッタ」
「ラビスミーナ様」
マルトが通信に割り込んだ。
「爆発音を探知しました。ご無事ですか?」
「ああ、あれは私がやった。そちらは?」
「ハルタン治安部がこちらに向かっています」
「研究棟の異変を嗅ぎ付けたか」
「一度引きますか?」
「いいや、マリアとアロを確保したが、まだここにパイアール議長がいる。メヌエットを盗んだことを認めた。連れて帰らなくては」
「ラビスミーナ・ファマシュ ソノマエニ リンヲ タスケナクテハ」
「そうだな。どこだ?」
「ヒビヤルドノ セッタイシツ」
「よし、オメガ、案内しろ。マルト」
「わかりました。時間を稼ぎましょう。それと、そちらに応援を送りました。まずは、マリア・ラデュー、アロ・タンベレを保護します」
「ありがとう」
「いいえ、私はラビスミーナ様と行きます。もう大丈夫です」
「ハルタン治安部のアロ・タンベレですね。大丈夫とは?」
アロの声を聴きつけたマルトが聞いた。
「メヌエットに操られていた。危うく殺されるところだった」
簡単に答えた私に、マルトが声を張り上げた。
「何ですって?」
「申し訳ありません」
アロは小さくなった。
「もう、操られない保証は?」
「メヌエットの呪縛が解けたのだ」
マルトの声には疑いの念が滲んでいたが、こんなところで押し問答をする気はない。マルトも切り替えてきた。
「なるほど。で、パイアール議長は逃げているのですか?」
「それが、本人は逃げたつもりでいるが、実際は秘密の通路に閉じ込められたらしい」
「ラビスミーナ様」
「ああ、うちの職員が行ったようですね」
「ラビスミーナ、ヒビヤルドハ リンヲ ケンキュウシツニ ウツシタ。イソゲ」
「ラビスミーナ、リンがいるなら、私も行くわ」
「しかし、マリアさん、わかっているでしょう? 危険です。それに、あなたが捕まれば、またリン・メイは奴らに従わなくてはならなくなります」
アロはまともなことを言っている。だが……
「それでも、リンを置いては行けません」
マリアは頑としてきかない。
「わかった。マリア、行こう。アロ、急ぐぞ」
「デハ シジニ シタガエ」
応援に来た領事館職員にマリアを守らせ、私とアロは先に立ってオメガの案内する研究室を目指す。間もなく、アロが文句を言った。
「外から見れば単純に見える研究棟なのに、何だ、この迷路みたいな通路は?」
確かにオメガの指示する通路は実験室を横切ったり、保管庫に入ったり、埃の積もった資料の間を通ったり、どう見ても遠回りにしか思えない。マリアの顔にも苛立ちと焦りが見える。
「オメガ、正面から行くわけにはいかないのか?」
「ラビスミーナ、パイアールガ トジコメラレルノヲ ミナカッタノカ? ヒビヤルドハ コノケンキュウトウニ トラップヲ シカケテイル」
「急がば回れ、だな」
「ソウイウ コトダ」
オメガの言う通りだ。ここはヒビヤルドの要塞なのだ。私はガラスの容器に入った臓器や脳や……まだ、生きている様々な人体に目をやった。ガラス容器の間を通りながら、領事館の職員たちやアロが眉をしかめ、口を押える。マリアが私に身を寄せた。この設備は一個人としては破格だ。しかも、ここではヒビヤルドは絶対君主だ。彼は甘言で、脅迫で、医療という名の餌をちらつかせ、あらゆる取引をしてきたのだろう。
「リンは何を考えているのだろう?」
マリアに聞いた。
「いつまでも逃げているわけにはいかない、いつか、そんな話をしたことがあるの」
「リン・メイがヒビヤルドと対決する気なら、ぐずぐずしていられないな」
「リン」
マリアがぎゅっと私の腕を掴んだ。
「急ぎましょう」
ぼんやりと目を開け、虚空を見つめる人体にちらりと目をやってアロが足を速めた。




