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ある日、5億を渡された。  作者: ザクロ
第三章~金持ちたちの代理戦争~
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僕と築き上げた人格

まぁ、進くんは。今回の話でね。

────こんなボロボロの体で何をすればいい。こんなすり切れた心で何を思えばいい。


「わかってる。答えは簡単だ」


────過去を見ろ。かつて自分から背けた過去を。そして思い出せ、自ら忘れた記憶を。


「……言うのもなんだけど、こんなことしたくなかったんだけどな」


 まぁ、それもそうだ。一般人になりたくて、殺されない安全な生活が欲しくて、記憶を────その万能を捨てたのに。


「ねぇ、聞いてる? おれ────」


 さっきまであった返事はない。それもそうだ、今は過去が勝っている。どちらかの意識が途絶えるのも無理はない。矢崎進の中で、過去と現在は自らの主導権を争っていたのだから────



……意識がはっきりしないまま、ここまでたどり着いた。こんなおぼろげな意識で彷徨うなんて、亡霊みたいだ。なぜか母さんと離れた後から、自分を保つことができない。過去と現在が混じり合い、何度も記憶らしきものが交差する。

理由としてあげるならば、たぶんこの園章が何かを理解したからだろう。これは、自分の通っていた幼稚園だ。俺にだってわかる。お嬢様が通うような、通うだけで金が飛んでいくような幼稚園。ここに通うことは、今の自分ではあり得ない。

────自分という存在の証明ができない。自分が何者であるかがわからない。そもそも、外見を保てているかもわからないほど、脳内は混濁している。それでも彼女はいつも通りで、こんな俺を見て心配そうに口にする。


「大丈夫、進くん。顔色は良くないね」


 ありきたりな言葉なのはわかっている。だが、今の俺にはそれが希望だ。


「何とか、ここにこれた。明に会わなきゃ、何も……」


 明の家、倒れこみながらも、手に握った園章を明へ伸ばす。明はその手を優しく握りしめて言った。


「……なるほどね、事態は深刻なようだ。記憶の扉が開き始めた。過去に閉ざしていた様々なものが溢れかえって、今、脳はパンクしそうなほど動いているはずだ。今の自分はわかるかい?」

「……何とか。それより、どうして俺はこんなことに?」

「簡単に言えば、過去の君が万能すぎたんだ。だから、過去を思い出すということは使っていなかった脳の領域を再び使うことになる。完全に戻るまでは、こういった状況も続くんだろうね」


……なるほど、こんな吐き気を催すような状態がしばらく続くのか。こりゃ地獄だな。


「だが、今は耐えてくれ。君の記憶は、僕の希望なんだ。君に────本来あるべき座を返すために」

「あるべき座……?」

「君はこんなところで燻る人間じゃないってことだよ。さぁ、記憶に最後の後押しをしよう」


 俺は明と冬馬さんに肩を持たれ、車に乗せられる。明は俺の隣で手を握ってくれている。明がその手を握ってくれるなら、俺は俺としての存在を保てそうだ。


────その手は、僕の手なんだけど?


 頭の中で声が聞こえる。俺の声だ、でもそれは俺じゃない。


────君はそこに座るべき人間じゃない。君はただの身代わりなんだ。僕という存在の────


「ぐっ……やめてくれ……」

「進くん!? ちょっと、苦しそうだけど……」


 脳が何者かに蝕まれている。人間にこんな状況はあり得るのか? そもそも俺は、何者だ?


「進くん、本当に……あの時辛かったんだね。君という存在が乖離するほどに」


 明の辛そうな顔が見える。あぁ、今の俺が明を苦しめている。俺がもっとしっかりしなきゃ、俺が俺を保たなきゃ、明にもっと辛い思いをさせてしまう。


────もっと? いいや、君の存在は最初から苦しめていたさ。明ちゃんを……ここまで歪めるほどに!


「俺が、明を歪めた……?」

「進くん、君はさっきから、誰と話しているんだい?」

「わからない、でも────」


 会話する謎の存在。でもきっと彼は、誰よりも明を愛した人間。誰よりも明を思い、彼女のためにすべてを投げだすことを厭わなかった。

 そう、投げ出すことで、彼女との再会を望んだんだ。命があればまたきっと会える。だからこそ……この座を明け渡すと。


────まさか、自分という存在を隠すために、人格を作ることになるとは思わなかったけどね。だがおかげで、無知な少年と周りからは思われた。この17年、成長するには十分足りたとも。


 自分自身、気づき始めている。その存在が何者であるかを。そして俺という存在は、きっと消えてしまうことを。


「進様、気を確かに。森下幼稚園につきました」


 冬馬さんの声で、何とか自分を取り戻す。明に連れられ、車を降りる。目の前にあったのは、貧乏な俺が行っていたとは思えないほどの、設備の整った幼稚園。同時に、記憶に押しつぶされそうになる。だが、それを目に焼き付けて、何とか持ちこたえた。


「ここは私立の幼稚園でね、いわゆるお嬢様学校とか言われる幼稚園だ。ほら、あの辺の遊具とか……」


 覚えていないよね。そういって明は俯いた。


────覚えているよ、明ちゃん。あの滑り台の上で語り合った夕暮れを、僕は忘れないとも。


「覚えてるよ、明。あの滑り台の上で、話し合ったんだよね。それから……」


 脳内の声に従って、まるで記憶があるかのように語っていく。その際の明の表情は、嬉しいようでどこか悲しそうな笑顔だった。どうしても、今の俺の頑張りじゃ明を悲しませてしまう。


────ほらね、君じゃ駄目なんだ。わかっただろう、君じゃ彼女を幸せにできないんだ。


「わかっている。だから俺としてできる最後のことをしたいんだ」


 俺は明の手を握り、幼稚園から離れ始める。もちろん、突然のことに、明は驚いていた。


「どっ……どうしたんだ、進くん。さっきからの君は、君であって君じゃない。すべて思い出したのかい?」

「いいや、それまではきっともう少しかかると思うよ。だからね、俺という人格でできる、最後のことをしたい」


 記憶は砂嵐を抜け、色を取り戻し始める。あの日と同じ、オレンジ色の夕暮れ。

 わかっている、この記憶は俺の物じゃない。やることはきっと彼の真似事だ。それでも、その記憶がこの脳に刻まれたものだとしたら、俺は俺として約束を果たしたい。


────その約束は僕がしたものだ。君の物じゃない。


「確かに、約束をしたのは俺であって俺じゃない。わかっているけどさ、最後にね」

「進くん……君という人間は、相当心に負担をかけて生まれたようだね。だからこそ、記憶を真っ白にして人格を構築するなんて、人間離れしたことをやってのける」

「そうだ、明。俺は彼の心の苦しみ。彼の命を守る壁。漂白された記憶の上に立てられた、すすむの別人格。今まで俺として保てていたほうが、不思議なくらいだね」


 人はトラウマのような記憶を、別人格として切り離すことがある。だが、17年前の彼は、それと似て非なることをこの脳内でやってのけた。それにはすり切れた心と、天才的な頭脳と、決定的なトラウマが必要だった。


────もう君を捨てる時だ。


 17年前の落石事故の際、彼にはその条件がそろったのだ。すり切れた心から生まれた、表裏一体の楽観的な人間性。トラウマによって、その人間性と元あった人間性は切り離され、乖離した人格となる。

 あとはその元あった人格が、天才的な頭脳の鍵を閉めた。なんとも通常の人間には起こりえないことを、この脳はやってのけたのだ。


────あとはあの時と同じ条件がそろえばいい。頭脳、心はそろった。あとは決定的なトラウマで、僕らはもう一度入れ替わる。


「────トラウマなんてもう来ない。俺はまだ、俺でいたいんだ」

「……進くん、それはきっと無理だ。その場所で僕は、真実を告げなければいけない」


 言わないでくれたらいいのに、心のどこかで思っても、もう一人の俺が気づいているんだから仕方ない。

……あの手の冷たさから、俺のほうが気づいていればよかったんだ。もう一人の俺じゃなくて。

 冷たい手を握りながら、俺と明は階段を上っていく。懐かしい階段だ。


「懐かしいね、進くん。進くんがこの場所を見つけたんだ」

「あぁ、そうだったね。この景色を、明に見せたかった」


……階段を上り切った先。そこはこの町を見晴らすことのできる広場だった。そこからは、街に沈んでいく夕日が見える。オレンジ色の世界、そこにいるのはただ二人。あの日の約束を果たした、二人のあるべき姿。


「……進くん、ここまで来たんだ。僕の言った約束を覚えているかい?」

「……もちろん」


 夕日を背景に、明は笑顔で振り返る。その目からは一滴の涙が零れ落ちた。その涙が、悲しさか嬉しさか俺にはわからない。それでも、口元は笑顔だった。

────記憶は再生される。それは、目の前の現実と同時だった。


「ねぇ、進。私たちが離れ離れになっても、またいつか、ここで夕日が見られるかしら」


 その口調は、現実なのか記憶なのかわからない。だって記憶の中の明と、今の明は────見た目がほとんど変わっていないのだから。

 だからこそ、記憶を今に変換しながら俺は答える。俺からの最後の言葉は、かつての自分が言った言葉の言いかえだった。


「俺たちは強い絆で結ばれている。だから、例え離れても、また会えるさ。その時は、また二人でこの夕日を見よう。あの頃のように────」


 あの頃のように、その言葉は最後に俺から振り絞った言葉。もう自分の意識すら奪われつつある中の、最後の言葉。


「……なんだ、結局……芯は変わってなかったんだね」


 明は笑う。俺もつられて笑ったんだ。俺という意識は、次第に漂白されていく。その意識の最後に、俺は見てしまった。それは、俺たちの意識を入れ替えるスイッチとなる────トラウマだった。

────明が倒れていく。小さく血を吐き出し、力なく、儚く。天才を誇っていた23歳の女社長は、ここに崩れ落ちた。それは、進という存在が「彼女と再び出会ったときに、気づいていた汚点」だ。


「明……ちゃん……」


 再び目覚めた、僕という存在は突き付けられる現実に叫び声をあげる。どうしてもっと早く、僕は前に出られなかったのか。やはり完全な記憶の漂白は、脳にダメージを与えていたか。

 気づいていれば……もっと早くに彼女のそばにいることができたのに────あぁ、もう一人の矢崎進ぼくはどうしてこうも無知なのか!


「明ちゃん、必ず僕が助けるから。もう一人で抱え込まなくていいんだよ、すべては僕が握るべき悪だったんだから」


 彼女を片腕で抱きしめながら、もう片手でスマホを取り出し、救急車を呼ぶ。


「冬馬……冬馬! 僕だ、進だ。来てくれ!」


 階段の下にいる冬馬にも聞こえる声で、僕は叫ぶ。慌てて駆け上がってきた冬馬は、思わず声をあげた。


「あ……明様! しっかりしてください、明様!」

「冬馬、救急車は呼んでおいた。明ちゃんは……いつからこんな状況に。まさか、僕が「矢崎進」として出会う前かい?」

「進様……? まさか記憶を?」


 次に冬馬が驚いたのは、僕のことだ。無理もないことだ。僕は確かに17年前と同じ口調でここにいる。だが、冬馬は何とか冷静さを取り戻し、主に忠実に答えた。


「……えぇ、明様が────余命宣告されたのが、1年前になります」


 やはりそういうことか、僕の中ですべてが腑に落ちる。ならば、僕は僕にできることをしなければいけない。理由もなく、僕らは入れ替わったりしないのだから。


「そうか……ならば、明ちゃんのやりたいことはだいたいわかった。ここからは僕に任せてくれ」


 僕は僕として、17年ぶりに明ちゃんを抱きしめる。懐かしかった、その体が、とても────


「無理をさせたね、明ちゃん。ここからは僕が動く時だ」


────さぁ、始めよう。17年ぶりに、影山家が消し去ろうとした、社長の素質を持つ双子の片割れ……影山進かげやますすむとして。すべてを終わらせる戦いを。

矢崎進とは、築き上げた人格────いわば自分を守る壁だったのだ。

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