恋と愛と性欲の談義4(完)
「さむ。……ちょっとごめん」
体を震わせた藤くんはそう断ると、のそのそとベッドから這い出した。
まず足元に追いやられていたボクサーパンツとスウェットを履き、一旦部屋を出てリビングに放置したままだったトレーナーを持って戻ってくる。両腕を通しながら再びベッドのふちに腰掛けると、頭から被った。ぽんと頭を出すと、裾を下ろしながら尋ねてくる。
「……で、どうだった?」
寒さに体を強張らせた藤くんの一連の行動をじっと見ていたあたしは、いきなり向けられた質問に、とっさに口が動かなかった。
でもそれは、答えに迷ったのではなく、頭の中や体の節々に、少し前の行為の余韻が残っていたからだ。どこかまだ、夢うつつにいるようで。
しかし、普通であれば事後に聞かれればうざく感じるこの手の質問も、今の自分たちには必要なやりとりだった。
元通り服を着た藤くんが見下ろしてくる視線を受け止めると、素直に返した。
「……気持ちよかった」
結局のところ藤くんの下半身は、自分が協力するまでもなく使える状態になった。寝室に移動して、それからの行為は、というかそれまでの行為も、すごく、満ち足りたものだった。
答えを聞いた藤くんが、ベッドの上に座り直し、こちらに体を向ける。
改めて話の始まる雰囲気に、あたしも体を起こした。ベッドの隅でくしゃくしゃになっていたキャミソールを身につけると、藤くんが床に落ちていたニットを拾ってくれた。とりあえずそれを頭から被り、腰から下は下着だけ履くと、引き寄せた布団をかけて向き合った。
話す体勢が整ったところで、再び藤くんが口を開く。
「じゃあ、『好き』になれそう?」
「…………」
その質問には、少し考えた。
確かに、行為自体はよかった。
最初こそ藤くんのやることや自分の感覚を冷静に受け止めていたけど、途中からは、そんな余裕はなくなった。でもそれは、身体的に与えられる快楽の話であって。
好きで好きでたまらない、というような。もっともっと、みたいな。
これまでの恋人に抱いた、燃える感じというか、胸が熱くていっぱいになる感じは、なかった。
「確かに、してる最中はドキドキしたけど」
「することがすることなんだから、相手が誰だってドキドキするよね」
藤くんは、冷静にそんなことを言う。
藤くんだって、あたしのことを好きだと言ったのに。
一体藤くんは、あたしを突き放したいのか、そばに置きたいのか。
そんなことを考えて、いや、と自分の思考に待ったをかける。そもそもは藤くんじゃなくて、あたしがどう思うかの問題だ。だから藤くんは自分の感じたことじゃなく、あたしの考えを整理するための言葉を口にしている。
「でも、そのドキドキを重ねていけば、〈パブロフの犬〉じゃないけど、僕を見ただけでドキドキする時もくるかもしれないよ?」
「条件反射?」
「見る度によだれを垂らされても困るけどね」
「そんなことしないよ」
それらしい行為を、その時感じる気持ちを重ねていけば、いつかそんな日がくるんだろうか。
今目の前に座る藤くんには、すでにドキドキを感じない。
行為の詳細を振り返れば、多少の気恥ずかしさはあるけれど。
藤くんのことは好きだ。
これまでしたいと思ったことはなかったけど、実際に寝てみると、自分の体はちゃんと反応した。そこに嫌悪感はないし、もう一度と言われても、全然構わない。
終わってみて、熱く燃えるものはないが、満たされた感じはある。
恋焦がれてはいないが、愛しているともまだ言えないが、「この人なら、あるいは」という、自分の意思はある。
新しい関係を探していた。これまでとは違う始まりを。
まだ戸惑いはあるけれど、試す価値は、あるのかもしれない。
そして、試したいと思う気持ちも。
「藤くんは?」
「何が?」
「してみてどうだった?」
「気持ちよかったよ」
「…………」
さらりと口にする言葉に、ほんの少し本音かどうかを疑いたくなる。
確かにちゃんといってはいたけど、「手でも口でも、極端なこと言えば相手が誰でも、こすれば普通に気持ちいい」と、言っていたのは藤くんだ。
「あたしだから」では、ないかもしれない。
でもそれでショックを受けるのは間違っている。
あたしだって、「藤くんだから」気持ちよかったのかどうかは、正直よくわからないんだから。
でも、もしもあたしが、ショックを受けるんだとしたら。
それはもう、藤くんを選ぶ立派な理由になるだろう。
「……あたしさ、どっちかっていうと、性欲強いほうだと思うの」
「うん」
「もし付き合ったとして、あたしがしたいなって思った時に、藤くんはどれくらいの頻度なら応えてくれるの?」
「僕には性欲湧かないんじゃなかったの?」
「うん。まあ……そうなんだけど。できるってことはわかったし。……それなら、試してみるのもありかなって」
「〈パブロフの犬〉になれるのかどうか?」
「そう」
実際に行為を重ねることで、普段の藤くんにも、いつかドキドキするようになるのかどうか。
ならなかったとして、その時の2人の関係を、自分が「恋人」として受け入れられるのかどうか。
「毎日って言われたら、ちょっとげんなりするかな」
「それはないから大丈夫」
「週1……まあ、ぎり2回かな」
藤くんの答えに、「なんだ」と思った。
「意外と多いね」
「だって応えなかったら、他の人にいっちゃうかもしれないでしょ」
「それはだめなの?」
「あのさ、安森さん。さっきから……って言っても、ちょっと前だけど、僕が好きって言ってたの聞いてた? 性欲はあんまりなくても、人並みの独占欲はあるよ?」
「ふうん?」
それはまたしても、少し意外だ。
藤くんが、独占欲。
でも、何だろう。
自分の中に渦巻く感情の中に、新たに色を成すものを見つける。
それは少し――いや、結構、嬉しいかもしれない。
「それに、僕からしたいと思うことだって、あるかもしれないし」
「半年に1回くらい?」
「どうだろう?」
藤くんが首を傾げる。
「でも、安森さんのこと今より好きになれば、自然と回数も増えると思う」
「あたしのこと、今より好きになれる?」
「今も結構好きだけどね」
「…………」
こういうことを気負わずに言えるから、藤くんはすごいと思う。
気負っていないように見えるから、たまに本気かどうかわからないという点もあるのだが。
でも、藤くんは、嘘は言わない人だから。
きっと――というか最初から、問題はあたしが自分の気持ちをどう捉えて、決断するかなのだ。
藤くんがベッドから下ろしていた片方の足を上げ、胡坐をかく。
「それに思ったけど、僕みたいなのは、実際安森さんみたいな人と付き合ったほうがいいのかもしれないし」
「何で?」
「その方が、子孫残せそうだから」
「……そうかもね」
自分から積極的に誘うことがないのなら、相手が積極的じゃない限りその機会は増えようもない。
まだ付きあってすらいないのに子孫がどうだの、ほど遠い話だけど。
目下の問題は、後世に藤くんの遺伝子を残せるかどうかではなく、あたしがこれまでの基準を捨てて、藤くんと付き合うかどうか。付き合えるかどうか。
これまでのあたしの恋人の定義は、藤くんのそれとは必ずしも一致していなかったけど、お互い好意を持っていて、セックスもできた。
何より藤くんは、あたしの話を真剣に聞いてくれて、不安を分解して絡まった思考を解いてくれた。きっとこれからも、あたしが疑問や相談を持ちかけるたび、同じことをしてくれるだろう。そんな人が、今後また現れるだろうか。
それなりにタイプで、あたしの性欲を刺激する人は、もしかしたら現れるかもしれない。けれどその時、目の前の藤くんと、あたしは離れられるだろうか。藤くんを「ただの友達」枠に戻して、新しい人と付きあえるだろうか。
もしかしたら、できるのかもしれない。
でも何だか、そんなことをする自分は、嫌だなと思った。
自分のためにここまでしてくれる藤くんを。あたしの基準に、歩み寄ろうとしてくれている目の前の藤くんを、もっと、大事にしたい。少なくとも今は、そう思う。
「……付きあってみようか」
ぽつりと、呟いた。
呟いてから、何だか違うなと思った。
「付きあってみようか」ではない。そんな言い方、藤くんに失礼じゃないか。
きっと、もっと、相応しい言葉がある。
誠意で応えてくれた藤くんに、こちらも誠意を込めて、きちんと言わなければいけない。
「……あたしと、付きあってくれますか?」
はっきりと声に出すと、それは急に現実味を帯びてきた。
自分の中で急速に膨らんでいく可能性に、ともすれば置いていかれる気がして。
一度放った言葉の端を捕らえて、もう一度、言い直した。
「藤くん。あたしと、付きあってください」
「それでいいの?」
藤くんから返ってきたのは、受諾でも拒否の返事でもなく、確認だった。
「うん」
あたしは頷いて、もう一度自分の心の中をさらった。
反論は、出てこない。
「それでいいと思う」
そう答えた。
藤くんは笑った。
眠そうに見える目尻を、やわらかく細めて。
「それなら。……はい。付きあいましょう」
はい。
というわけでこのお話は、友達からいきなり送られてきた、「性欲が湧かなくて困ってる」というメールと、その後のやりとりから想像を膨らませたお話でした。
どんな友達やねん(笑)