恋と愛と性欲の談義3
藤くんが冗談でこういうことを言う人ではなく、真剣に考えてくれているということは、重々わかっているのだけど。
「……ひとつ聞いていい?」
「何?」
「藤くんは、あたしに好きになられてもいいの? その……『性欲を伴った好き』に」
「いいよ」
藤くんはあっさりと頷く。
「言ったでしょ。僕は安森さんのこと好きだって。ただ、そこまでしたいとは思わないだけで」
「じゃあ何で、今まで好きって言わなかったの?」
「僕は、今のままで十分満足してたから」
「そうなの?」
「うん。一緒にご飯食べて、笑って、たまに寝顔見て幸せな気持ちになったりして。今のところ安森さん、男の気配ないからどっか行っちゃう心配もないし…。もし、僕が安森さんとしたいと思ってたら、そりゃちゃんと彼女になってくださいって言わなきゃいけないと思うけど、そうじゃなかったから、それなら言っても言わなくても、僕にとってやることは変わらないもん」
「つまり、藤くんは性欲が湧かない人でも恋人の対象になるんだ」
「そうだね。でも別に、不能なわけでもセックスが嫌いなわけでもないから、安森さんがしたいと思う時は、応えるつもりはあるよ」
「私とするの、嫌じゃないの?」
「嫌じゃないよ。好きだから」
「好きなら、他の子ともできる?」
「好きの中でも、できる子とできない子のラインはあるよ。安森さんは、できる子のほう」
「他にもいるの? できる子」
「今はいない」
「ふうん」
「今僕の周りにいる異性の中で、一番近い距離にいるのは安森さんだから」
藤くんが、こっちはすでにその存在すら忘れていたルービックキューブに手を伸ばす。
あぐらをかいた足の間で、キューブの向きを変えるでもなく、ただ1列そろった緑を指先で撫でる。
「逆に聞くけど、安森さんこそ嫌じゃないの?」
「え?」
首を傾げると、藤くんが顔を上げた。
「僕には性欲感じないんでしょ? その僕とセックスするのは、嫌じゃないの?」
「嫌では……ないと、思うけど」
「けど…?」
「これまでは、相手の行為だったり、声だったり、匂いや仕草だったりで勝手にスイッチ入ってたのが、今回は、『よし、やるぞ』って、わざわざ気合入れなきゃいけないのが、正直めんどうというか、ほんとに気持ちよくなるのかなって……思わなくもない」
「じゃあ、僕が安森さんのスイッチを入れられればいいんだ?」
「入れられるの?」
思わず聞き返してしまった。
だって、これまで着替えてる藤くんの裸の上半身を見た時だって、したいとは思わなかったのに。
「安森さん、僕が性欲あんまないからって、行為まで淡白とか、下手くそとか思ってない?」
「……ごめん、思ってる」
「自分でうまいとまでは言わないけど、僕だって、やる時はそれなりに頑張るよ」
藤くんの口元が、少し拗ねたようにも見えた。
性欲がないと言いながら、変なところでプライドはあるらしい。
藤くんが、いじっていたルービックキューブをテーブルに戻した。
「してみる?」
「え?」
「とりあえずキスだけ。それでやっぱ違うなとか。ちょっとでも嫌かもって思ったら、やめようよ」
藤くんがこちらに体の正面を向けた。
胡坐をかいた足首に両手を置いて、目を閉じる。
「はい。どうぞ」
「え、あたしからするの?」
「じゃあ僕からしようか?」
藤くんが閉じた目を開ける。
「でも、こういうのってどっちみち、お互いがやる気にならなきゃしょうがないじゃん。僕からだけできるようになっても、意味ないと思うんだよね」
まあそれは、確かに。
あたしが納得したのが表情でわかったのか、藤くんは再び目を閉じた。
そのまま動かない藤くんに座ったままにじり寄る。少し足が痺れてきていたが、その感覚は頭の隅に追いやった。
自分の膝と、藤くんの足首に置かれた手が触れる直前で止まる。胡坐をかいて背中から力を抜いている藤くんと、正座しているあたしとでは、少しだけあたしのほうが背が高い。
膝の上で両手を握り、ゆっくり上半身を倒すと、最後に少しだけ顎を上げ、藤くんにキスをした。
あいかわらず、藤くんは動かない。
――まあ、嫌ではない。
と言っても、触れるだけのキスなんて、こんなもんだろう。
あたしが離れて元の姿勢に戻ると、藤くんがぱちりと目を開けた。
「じゃあ今度は、僕からしてもいい?」
頷くと、藤くんは胡坐をやめて片膝を立て、片方の手を床につくと、身を乗り出してきた。
近付いてくる顔に目を閉じると、そっと唇に触れられる。
自分と違ったのは、そこから藤くんが、何度か唇をついばんできたことだ。
ドキドキするというよりは、なんだかくすぐったい。
熱のこもった愛情ではなく、親愛の情を示すような行為だと思った。
固まっているのもなんだからこちらからも軽く返すと、それまでよりわずかに、唇を強く押し当てられた。にじり寄ってきた藤くんの足が膝に当たる。
かすかに瞼を上げると、藤くんとの距離は明らかに近付いていた。
藤くんの睫毛が揺れる。目を開けるかな、と思った直後、唇を割って舌が入ってきた。
反射的に、ほんの少しだけ肩がすくんだが、やはり嫌ではなかった。
藤くんの動きは、とても優しかった。
「……どう?」
座った位置はそのまま、一旦キスをやめた藤くんは、少し離れて聞いてきた。
「嫌では、ない」
「じゃあ、続きする?」
迷ったのは、少しの間だった。
藤くんの問いに頷くと、その顔が、再び近付いてきた。
切り出した話題が話題だったし、その可能性をまったく考えていなかったと言ったら嘘になる。でもそれは、ごくごくゼロに近い、とても低い可能性だったはずだ。
けれど今、その可能性が、現実になりつつある。
ああ、あたし、藤くんとしちゃうんだ。
そう思って――ふと、思い出した。
「あ、ちょっと待って」
「何?」
「いやちょっと……今思い出したんだけど」
「何を?」
「……ムダ毛とか」
「今さらだよね」
「……」
確かに、今さらではある。
藤くんには、自分のだらしない部分――つまり、普段ムダ毛の処理が甘いところとかも、すでにバレている。
「一応安森さんの女の子の部分を尊重してあげてもいいけど。でも安森さん、シャワーの間にまた考えちゃって、やっぱやめようとか言い出しそうじゃない?」
それは、大いにありえる話だった。
自分から話を出しておいて、やっぱりなしで、なんて。
「まあ僕は、それでもいいけど。でも今やめるなら、当分この話はなかったことにするよ?」
つまり、しばらく同じ話は持ち出さないで、ということだろうか。
そう釘を刺すくらいには、藤くんのほうもこの話題にエネルギーを使っているということだろう。
「……このままでいい」
そう答えると、藤くんの手が腰に回り、開いた膝の間に抱き寄せられた。
正座していた足が崩れる。
「……ちょっと待って」
「何?」
二度目の制止にも、藤くんは律儀に止まってくれた。
ただほんの少しだけ、表情には怪訝さが浮かんでいたけれど。
中途半端に藤くんの腕の中に上半身を預けたまま、言った。
「ごめん……。足、痺れてる……」
「は?」
「ずっと、正座してたから……」
突拍子もない話題に予想以上に真剣に付き合ってくれる藤くんを前に、自分も真面目な態度を貫こうと足を崩さなかったけど。キスをする前あたりから、予感はあった。
それが今、足が崩れたことで一気にきた。
膝より下でじわじわと膨れ上がる痺れを、倒れこんだ藤くんの服を掴んで我慢していると、あろうことかその足を、指先でつんと押された。
走った電気に、咄嗟に体をすくませる。
「っ……ちょっと!」
「あはは、おもしろい」
「おもしろくないって……!」
「だめだめ、おもしろいから。却下」
「ちょっ……触んないで……」
足をつつこうとする藤くんを阻止しようと、突っ張る腕を絡め取られ、いいように撫でられ、つつかれながら、どさくさに紛れるように押し倒された。
顔の両側に手をつかれ、見下ろされる。
「ちょっとは、ドキドキする?」
「……足が痺れてなかったら、してたかも」
それでもちりちりとした痺れは、次第に気配を薄めていく。
その代わりに生まれてくるものが、自分の中にあるのかどうか。
それはまだ、わからない。
「まあ、僕もまだ、これからだから」
そう言った藤くんに太腿に手を置かれた時、ふと思った。
「ねえ、勃たないことって、ないの?」
「だから、僕は不能なわけじゃないから。雰囲気が盛り上がれば、自然とできる状態にはなるはずだけど」
「ならなかったら?」
「その時は、安森さんにちょっと、協力してもらうしかないかな。……嫌じゃなければだけど」
なるほど。
それは少し面倒だなと思ったけど、きっかけを作ったのはこっちだ。
一緒に解決策を模索してくれている藤くんに対して、それくらいは自分も協力すべきだろう。
「まだ足痺れてる?」
藤くんが体を起こし、自分のトレーナーの中に手を突っこむと、スウェットからTシャツを引き抜いた。
「ちょっと」
「ほんと安森さん、おもしろいよね」
「……藤くんこそ変わってるよ」
「そうかな?」
藤くんはトレーナーとTシャツを捲り上げると、まとめて脱いで横に置いた。
白い肌。
余計な肉はついていない、でも鍛えられてもいない腹周り。
「好きだけど性欲が湧かない」なんて言ったところで、
「僕にはどうしようもできないよ」
とか、
「そんなこと考えてるならもう一緒には住めない」
とか、言われることも想像していたのだ。
それなのに、藤くんはまじめに話を聞いてくれて、あろうことか今から自分を抱こうとしている。自分の欲望のためではなく、あたしの中でこんがらがってる糸を解すために。
「まあそれなら、いいんじゃない?」
再びあたしの顔の横に手をついた藤くんが言った。
「何が?」
「おもしろい人と変わってる人で、うまくいくかもね」
「恋人として?」
「それは、今からの行為の結果次第じゃない?」
「そうだね」
「でも僕は、これからすることが終わっても、きっと、安森さんが好きだよ」
「…………」
藤くんが頭の横に肘をつき、髪に指を梳き入れてキスをする。
もう片方の手が、肩を撫で、腕をなぞり、腰に移って服の裾をまくると、直に肌に触れて這い上がる。
(――うまくいけばいい)
こんなに優しく触れてくれる人は、きっと他にいない。
まだドキドキはしない。藤くんがすることを、どこか冷静に観察している自分がいる。
でも、うまくいけばいいと。
藤くんとセックスした後に、その先に待っているものが、「やっぱり違った」という答えではなく、新しい始まりを予感させるものであって欲しいと。
首筋に顔をうずめる藤くんのやわらかい髪に指を絡ませて、そう思った。