恋と愛と性欲の談義1
「ねえ藤くん」
「ん?」
ソファに背中を預け、最近はまっているルービックキューブをいじりながら藤くんが生返事をする。
「大事な話があります」と続けると、手を止めて、顔を上げた。
少し垂れ目がちな目は、たとえそうじゃなくても眠そうに見える。
「藤くんはあたしにとって大切というか、すごく貴重な人だし、今の関係壊れるのやだから言うのは怖いんだけど。引かないで聞いてくれる?」
「うん。何?」
こちらの前置きに構えることもなく、藤くんは先を促す。
ただ、あたしの正座に気が付くと、ルービックキューブをテーブルに置き、ソファに預けていた背中も起こした。
「あたしさ、藤くんのこと好きなの」
「うん」
あまりにもあっさりとした返事に、早速言葉が詰まりそうになる。
「え? そうなの?」とか、少しは困った顔とか、はにかむ顔も想像していたこちらとしては、少々肩すかしを食らった感がある。
でも、今の言葉が一番伝えたかったことではない。
あたしは藤くんの目を見つめ返し、気持ちを奮い立たせた。
本題は、これからだ。
「好きなんだけど、でも……ほんとに好きかどうかわかんないの」
「うん。…………うん? どっち?」
一度頷いた後、少し首を傾げた藤くんの背中から、早々に張りがなくなる。
「あのね……」
「うん」
「藤くんのことは好きなの。好きだと思うの」
「うん」
「でもね……」
藤くんはあたしの言葉を待っている。
じっとこっちを見つめて、まるで、「待て」をしている犬みたいに。
その目の前に、ぽんと言葉を差し出した。
「性欲が、湧かないの」
藤くんが、ぱちりと瞬きをした。
それはまるで、漫画に描かれたキャラクターみたいな反応だった。
投げられた言葉に飛びつかないのはまだしも、言われたことの意味を理解しているのかがまず怪しい。
きょとんとした顔に尋ねる。
「引いた?」
「……ちょっと、びっくりした。そんなストレートに言われたことないから」
「だよね……」
この世に生まれて27年、自分も誰かに対してこんなことを言うのは初めてだ。
藤くんは一度視線をさまよわせた後、またあたしを見た。
「安森さんにとっては、性欲が湧かないと、好きじゃないってことなの?」
「それがわかんないの」
藤くんがまた首を傾げた。
「これまでは、好きだなって思う人は、したいなって思ったし、したいなって思った人は、好きになれたから」
「つまり、安森さんにとっては性欲と好きって感情はセットなんだね」
「たぶん」
「じゃあ今は、何をもって僕のこと『好き』なの?」
「一緒にいて楽しいし、落ち着くし、この人には全部さらけ出せるなあって。っていうかもう、さらけ出しちゃってるし」
「そうだね」
「でも、したいとは思わないの。だから、自分でもどこか……物足りないっていうのはおかしいけど、好きになりきれてない感じがするというか、ほんとに好きなのかよくわかんないっていうか……ほら、よく言うじゃん。家族としてはいいけど、恋人としてはだめみたいな。そういうのなのかなとか……色々考えてみたんだけど」
「うーん……」
「こんなこと言われても、困るよね。……ごめん」
「謝らなくてもいいけど」
そう言うと藤くんは、一旦口を閉じた。
その目は、あたしの顔でも、髪の毛先でもなく、しいて言うなら肩のあたり。そのあたりにある「何か」を見ている。まるでそこに、言うべき言葉の候補が可視化されて浮かんでいるみたいに。
藤くんは、3歳年下の半同居人だ。
元々、あたしがパティシエとして働くお店にアルバイトとして入ってきたのが知り合うきっかけだった。今はもう、まったく別の会社に就職してバイトはやめているが、それが縁の切れ目にはならなかった。
藤くんがうちに出入りするようになったのは、バイトをやめる前からだ。
繁忙期になると5時起き、時には4時起きも当たり前になる。鳴った目覚ましを何度か無視して、ベッドの中で二度寝の誘惑と格闘し、ぎりぎりになって支度をし、慌ただしく家を出て自転車をとばす。家から店までは、電車でひと駅分。自転車で約15分の距離だ。
しかし、半年前の7月のある日。
パーティ用のケーキや贈答用の焼き菓子の注文が立て込み、連日の長時間勤務で疲れが溜まっていたあたしは、ついに寝坊してしまったのだ。30分遅れですっぴんのまま店に駆け込んだあたしを、店長も誰もからかいこそすれ怒りはしなかったけど、寝坊した自分に、自分で若干ショックを受けていた。
閉店後、材料のストックをリストと照らし合わせてチェックしていると、ついあくびが出た。
「お疲れですね」と、洗ったふきんを干していた藤くんが言った。
別に上司でも片想いの相手でもない藤くんに、あくびひとつ見られたところで何の問題もない。でも一応、遅ればせながら口元を隠したあたしが、「明日起きれるかなあ」とぼやいたら。
藤くんが言ったのだ。
「不安なら、僕が起こしてあげましょうか?」
そう言われ、「ああ確かに、目覚ましより、誰かに電話で起こしてもらったほうがいいかも」と思った。
「明日、藤くん出勤だっけ?」
「はい。伊東さんの代わりに」
ベテラン販売員の伊東さんは、母親の介護のため、前の週からシフトを減らしていた。それで代わりに出ていた藤くんと喋る機会が、その頃はかなり増えていた。
でも、藤くんはただの販売スタッフで、パティシエほど早出する必要はない。
「ほんとにいいの? 5時だよ?」
「僕早く起きるの苦じゃないんで」
「そう…」
朝5時起きが苦じゃないなんて本当か? と、少し疑う気持ちはあったものの、申し出自体はありがたいことこの上ない。
少し考えて、結局は「じゃあお願いしようかな」と言った。
すると藤くんは、
「わかりました。じゃあ一旦家帰って、風呂入ってから行きますね。安森さん家、間戸駅でしたっけ?」
と、返してきたのだ。
正直、「何だこいつ、あたしのこと狙ってるのか?」と思った。
でも、藤くんは口調も態度もやけにあっさりしていたし、黙ったあたしに、不思議そうな顔を向けて答えを待っていた。
あまりてきぱきできなさそうな、少し眠そうな顔をしているのとは裏腹に、藤くんは仕事ができる子だった。前の職場をやめて求職中とはいえ、比較的スケジュールに融通がきき、飲み込みも早い藤くんは、店でも重宝されていた。
勤務態度はまじめ。20前半の男の子にしてはやんちゃなところがなく、かなり穏やかな性格で、人当たりもいい。誰にでも同じ調子で、普段の態度から、藤くんが自分に好意を寄せているとも思えなかった。じゃあやはり、純粋な親切心で、目覚まし役を申し出てくれているのか。
――わからない。
わからなかったけれど。
その朝の寝坊で、いつか本当に仕事に穴を開けるかもしれないと危機感を覚えた身としては、とても魅力的な提案だったのだ。
加えて、忙しい1日を終えた後で、藤くんの申し出の裏をあれこれ推測するのには、頭も心も疲れていた。
その時はちょうど彼氏もいなかったし、そうなったらそうなった時、と、あたしは半ば投げやりに、「じゃあ23時に間戸駅に来て」と、言ったのだった。
結論としては、藤くんは本当に、純粋に、目覚まし役だけを果たして帰って行った。
財布とスマホだけ持ってきて、ジーパンのまま客用タオルケットと一緒にソファで寝て、5時に寝室にやって来てあたしを起こすと、「寝癖ついてる」と指摘して、玄関まで見送って、4時間後には自分も店に来て制服に着替えると、「はい」と鍵を返された。
あまりに自分に都合がよかったものだから、逆に不安になって、家に帰ってから通帳を入れている棚や下着の引き出しを確認したけど、なくなっているものはなかったし、藤くんが使ったタオルケットはソファの上にきれいに畳まれていた。
それからというもの、朝が早い時には前日の夜に家に来てもらうようになったのだが、家でシャワーを浴びても、来るまでにまた汗をかくだろうから、うちで浴びなよということになり、どうせならご飯も食べなよということになり、起こす日が続く時は帰るのも面倒だろうから着替え持ってきなよということになり、藤くんの滞在時間はみるみる延びていった。
それでも、手を出されることはなく、こちらから出すこともなく、初めのうちは、便利な弟ができたくらいに思っていたのだ。
でもそのうち、疲れて帰ってきた家に、明かりが点いていることが。
食卓にふたつ茶碗が並んでいることが。
腕が痛いと言ったらマッサージをしてくれて、教えたはずのない誕生日にごちそうを用意してくれて、「ありがとう」と言ったら、「僕がしたかっただけだから」と笑ってくれることが。
とても、居心地のいいものだと思えてきて。
「藤くんもう、うちに住んじゃえば?」
そう提案してみたら、
「うん、それもいいかもね」
と、いともあっさり、藤くんは受け入れた。
それが、二ヶ月前。
その後、再就職先が決まってバイトを辞めてからも、藤くんは変わらずうちに居続けた。
けれど二ヶ月経った今となっても、あいかわらず体の関係はない。
そうしたいとも思わないし、藤くんからそういう気配を感じたこともない。
やっぱり藤くんはお金に困っているんだろうかと思ったこともあるが、知らないうちに冷蔵庫の中身が充実していたり、ジーパンや靴を見るとなかなかにいいメーカーを愛用していたりするからそれはないだろう。そもそも再就職したのだから収入は安定したはずだし、棚の中の通帳や判子もあいかわらず無事だった。
じゃああたしのことを家政婦か何かだと思っているのかと思いきや、料理は結構頻繁に作ってくれるし、数日おきには洗濯をしに自分の家に帰ったりもする。掃除に関してはあまりまめではないようだが、こちらが眉をひそめるほど物を散らかしたり汚したりすることもない。自分の仕事が忙しい時や予定がある時は、しばらく姿を見せないこともある。
こういう関係は、初めてで。
恋人でも、家族でもない。一緒に遊びに出かけたり、共通の趣味がある友達でもない。
だから、「半同居人」。
それが、たぶん今のあたしと藤くんの関係を表すのに、一番近い表現なんだと思う。
藤くんと付き合ったら、と、考えたことはある。
きちんと職に就いていて、見た目は自分のタイプとは違うけど、人としての欠点は見当たらないどころか、むしろ優しすぎる。
愚痴を聞いてくれて、でも言い過ぎた時は諌めてくれて、さりげない気遣いができる藤くんが好きだった。
仕事で疲れて、化粧をしたまま寝る姿も、起きた直後でその化粧が崩れたぼろぼろの顔も、もちろんすっぴんも、二日酔いの醜態も、剃り残した足の毛も見られた。
すでにこれだけさらけだしているのだから、付き合う相手として、これ以上楽な相手はいないだろう。
――そう、思ったのだが。
ひとつだけ、問題があったのだ。
それが、本人を前に意を決して打ち明けた、「性欲が湧かない」という事実だった。