箱庭の部屋にて
※本作には少しショッキングな描写があります。ご了承ください。
さらさら、さらさら。今日も髪を梳く音がする。
さらさら、さらさら。彼は私の墨色の髪を鈴蘭の細かい彫り細工が施された銀の櫛でゆっくりと丁寧に梳いていく。愛おしそうに一束梳いては、また一束。それがまるで宝石のような慎重さで、彼は髪を梳く。
私は、そんな微かな音を耳にしながらぼんやりと窓の外の、青い空や太陽の光を浴びてそれこそ宝石のように輝く若葉が身を揺する様を見つめていた。
ことり、と音を立て銀の櫛がベッドサイドの小さな机に置かれた。はたと瞬きをして、ゆるりと振り返れば、大きく長い睫毛を生やした瞳に隈をつけ男は微笑んでいた。私はひとつ、重たい息を吐き出す。
「満足した?」
男に問えば、彼は至極幸せだと言わんばかりの顔をしてゆっくりと噛み締めるように頷いた。
「勿論。君の綺麗な髪を毎日梳けるんだからね」
「馬鹿ね」
「その馬鹿に髪を梳かさせている君も大概だと思うけどね。ところでさ」
けたけたと楽しそうにあげていた声をピタリと止め、男は私に音もなく詰め寄った。鼻が触れ合いそうなほどの距離だが、私はさほど驚かなかった。
しかし、光を浴びて不思議と緑に色を変える黒の硝子玉のような瞳にまっすぐ射抜かれる事だけは、いつまで経ってもなれることはなく居心地が悪かった。
私は思わず声を上げそうになり、グッと息を飲み込んだ。男のカサついて逆剥けた唇がゆうるりと弧を描き開いていく。
「今、何をしていたの」
ひどくベタついて、甘ったるくて、重たい声だった。細められた瞳の奥がとろとろと揺れ動き、火傷してしまいそうな熱を孕んで私を見つめている。
居心地が悪かった。私はいつの間にか息を止めていたことに気が付き、ゆっくりと息を吸いこんで、細々と吐いていった。男を見てしまわぬようにそっと瞳を伏せ、私は小さく小さく呟いた。
「外を、見ていたの」
がたん。私の声に合わせるように男は立ち上がり、椅子が音を立てた。そしてつかつかと彼は早足でベッドの横の窓辺に近寄り、力任せにカーテンを引いた。分厚い遮光カーテンが光を遮って、部屋がインクをぶちまけたような暗闇に包まれる。
程なくして、かちりと音を立ててベッドのサイドに置かれたスタンドライトのスイッチが入れられた。ステンドグラス調に色硝子がはめ込まれたランプシェードに光が透けて、暗闇に色が散る。
ぱらぱらと映るそれは缶に詰められた飴玉のように楽しげで、一時の幻のように朧気だ。うつろうことのない滲んだ色を眺めていれば、男が静かに目を伏せて私に顔を近づけ言った。
「駄目だろう、外なんかに焦がれちゃ。君にはこの世界が似合っているよ。僕が作った、この世界が」
色のついた光を瞳に反射させた男はするりと私の頬に手を滑らせ穏やかに笑う。
「僕がなんでもしてあげる。だから、僕を捨てないでおくれ」
狂気を孕む瞳の奥が揺れているのに、私は気がついていた。ふっと息をかけてしまったら掻き消えてしまいそうな灯火のように揺れるそれは私に救いを求めている。
彼に触れようと腕を伸ばして、私は思わず笑ってしまった。生産性の無いことをしていると思う。彼も、私も。腕を伸ばしたところで何をしようというのだろうか。私に彼を抱くことは、できない。笑みが解けない口の端からぽろりと言葉がこぼれる。
「ひとつだけ、叶えてほしいお願いがあるわ」
私が言えば彼は初めておもちゃをもらった子供のように瞳を輝かせて私を見つめた。その幼い喉元に狙いを定めて刃を突き立てていることも知らない、かわいそうな彼。
「私の手足、返してほしいの」
ざくり、私の言葉が彼の喉を裂く。ぼろぼろと、色のついた光を反射させた瞳から、同じように色付いた雫が零れ落ちた。男の声は出ない。私が何も出せないように、とどめを刺したから。
彼は前のめりに倒れ私の胸に顔を埋めた。それを支えることも出来ず私達はゆっくりと倒れ込んだ。男の梳いた髪が舞って血が飛び散るようにベッドの上へ散る。震えて私に縋る男の背中は迷い子によく似ていて小さく見えた。
先のない腕で彼の体をそおっと挟む。じくじくと無い手足が痛んで、私を嘲笑った。ああ、どうして。後悔なんて、今更遅いと分かっているのに。ぼたぼたと零れ落ちるのは、きっと在りし日の幸せの残滓だ。
「本当に馬鹿ね」
貴方も、私も。
明日もきっと、相も変わらずこの部屋には、さらさらさらと、髪を梳く音が響くのだ。