PROLOGUE
「誰も、ーーーーーー。」
雷鳴が轟き、発せられたその言葉は行き先を失った。
広大な荒野の中心で、少年は空を仰ぐ。風に靡く髪は雪のように白く、雨に濡れたその肌も透き通るように白い。華奢な体つきと幼さの残る顔立ちは、少女であると言われれば信じてしまうようなものだった。
ぽつり、ぽつりと夜の空から落ちてきた水の粒が肌と地面を打ち始める。彼の頬を伝うのは、壊れた心が齎す「涙」か、それとも天が与える「雨」なのか。その答えは彼自身も分かっていないのかもしれない。
「誰も、僕の事を認めてはくれないんだね。」
ようやくはっきりと紡ぎ出された彼の言葉には、最早誰に向けられたものでもない、諦めの感情が込められていた。
つい先程まで辺りを照らしていた月光の面影は既に無く、夜の闇と黒雲から打ち出される雷雨が完全にこの場を支配していた。いま、少年の存在は、時折暗闇を走る雷光に照らされ、辛うじて知らされるようなものであった。それ程までに、この場において彼の存在は希薄なものである「筈だった」。
「僕はいつもひとりだった。誰も僕として見てはくれなかった。」
少年は一度口を噤み、視線を落とす。その表情は見えない。しかし、彼の纏う雰囲気は確実に先程までの弱弱しいものとはどこか変わりつつあった。
雨が降り注ぎ、雷が大地を打つ。まるで世界の終わりのような光景。その中を、一歩ずつ、一歩ずつ、地を踏みしめて歩く。雨のせいでぐちゃぐちゃになった土の感触が歩く気持ちを削がんとする。しかし彼は歩みを止めない。
「いくら期待に応えても、どんなに認めてもらおうとしても、みんな本当の僕を見てはいなかった。」
少し間違えば体に届きそうな場所を、次々に雷が打ち抜いていく。だが、彼の瞳には、もう周りのことなど映っていなかった。一歩、そしてさらに一歩。進んだ先に何があるのか。一体何を求めているのか。その歩みは、何か一つのものを目指しているようにも、何も目指すものがないようにも見えた。そして、ある場所で立ち止まる。
「でも。」
一度大きく息を吸い込み、少年は再び空を仰いだ。彼のすぐ後ろを雷が貫く。だがやはりそんなことは気に留めない。吸い込んだ息を吐きだし、もう一度息を大きく吸い込むと、黒空のある一点を睨みつけ、叫んだ。
「それももう、終わりだ!!!」
突然、場の空気が凍り付く。比喩なんかではない。「辺りの空気が凍り付いている」のだ。あるいは時が止まったという表現の方が近いかもしれない。雨は氷の礫になって空中に静止し、雷は空を支える巨大な柱のように固まっていた。真っ暗だった筈の空間は、まるで真夏の正午のように明るくなった。荒れた地面が一気に照らされる。
そしてこの空間に、少年はいた。その視線の先に座すものは‥‥‥。
「‥‥待っていました、あなたの想いに導かれるのを。」
そこにいたのは、一頭の”白き龍”。体全体に白銀の鱗を纏い、この世の生物とは思えないほど、眩い輝きを放っている。その輝きに応じるかのように、少年の白い髪とその肌も、龍の放つ輝きによって輝いて見えた。一人の人間と一頭の龍が対峙するその光景は、神話のような神々しさをもち、近付き難い荘厳な雰囲気を漂わせる。
「・・・・ようやく、会えましたね。」
「・・・・うん。」
この出会いは運命の出会い。既に決められていた、定め。
「僕は変わる。もう過去は捨てた。」
少年の表情は大人びたものへと変わっていた。そこには誰にも想像できないような、途轍もない決意があった。
「貴方が決めたことならば私はそれに従うのみです。これが『彼』との約束ですから。」
白い龍の声は澄んでいて、心に直接語り掛けてくるようだった。龍の放つ光が増し、少年の体を包み込む。
「ありがとう、本当に。これでやっと・・・・・」
最後まで言い終わらないまま、少年は目を閉じ、光にその身を委ねる。
『グォオオオオオオオアアアアア!!!!!!!』
龍が咆哮すると、辺りは今までに無いほどの光に包まれる。一人と一頭はその眩い光の波に包まれ、消えていく。それは永遠のようで、一瞬の出来事だった。
少年達が居た筈の場所にはもう何も残っていなかった。さっきまで空を覆っていた黒雲はすっかり無くなり、辺りは再び月の光に照らされている。
「‥‥ッ、遅かったか!」
一人の年配の男が、彼らが居た筈の場所に駆け寄ってくる。息はかなり荒れており、急いで来ただろうことが伺える。
「お前の選択は正しいのか?本当にこの世界を捨ててしまうつもりなのか?」
男は誰も居ない筈の場所に向かって語りかける。
「もうお前の愛した世界はどこにもないのか…。」
眉間にしわを寄せて悲しげな表情を浮かべ、膝から崩れ落ち、両手を地につき、項垂れる。さっきまで雨が降っていたにも関わらず、何故か地面は乾き切っていた。男は拳を、乾いてでこぼこになった地面に叩きつけながら、噛みしめるように言った。
「俺がお前を止めなければならない、それが俺の、最後の義務なのだから。」
その言葉を言い終えるのと同時に、男の背後の空間に大きな黒い穴が現れた。それは、まるで空間の切れ目のような、ブラックホールのようなものだった。男は背中でその存在を悟ると、自嘲気味に笑い、満月が煌々と輝く空を見上げた。
「フフッ、どうやら神様もそれをお望みのようだ。モタモタしてる暇はないな。」
膝に手をつき立ち上がり、振り返る。全てを飲み込んでしまいそうな空間の裂け目に相対し、ゴクリと唾を飲む。そして、ゆっくりと一歩、その黒い穴に足を踏み入れた。穴の中には別の空間が広がっているようだった。その様子を確認すると、にやりと笑った。
ーーーー待ってろよ、今、行く。
そう言い残すと、男は穴に完全に吸い込まれていった。
ここから全てが始まる。これはまだ、始まりの物語。