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After Day〜縁の純情

作者: 愁しゅう

番外編その1の『千加の憂鬱』とのリンクがあります。

 雨の日だっていうのに、明るい日の光が差し込んだ気がした。

 引かれた手は痛いほどだったが、自分の体温よりあたたかいその手はとても気持ちよくて。

 一瞬で胸の中に込み上げていたモノが、スッと晴れていった。

 わりと単純なのかもしれない。けれど、自分はそのぬくもりをずっと欲していたのだろう。

 自分より少しばかり小さな背中に、この先自分はこのひとを好きになるのだろう予感と確信が、甘く心を震わせた。



「…なんで、あんたとふたりで弁当をつついてるんだ」

 七月の熱く照りつける太陽から逃れるように、日陰に隠れてうっすらと冷たいコンクリートの地面に長い脚を投げ出して、上條縁(かみじょうゆかり)は低い声でぼやいた。

「さあねえ」

 隣に座った、おおよそ太陽に似つかわしくない涼しげな美貌の主…鈴木千加(すずきちか)が嘆息をつきながら、箸でブスッとタコの形をしたウインナーを突き刺す。

 場所は屋上。普段は立ち入り禁止の場所であるが、千加は生徒会副会長という肩書をもつ優等生で権力者だ。

 最近はなにかと悪目立ちがすぎるため、彼の権限を利用して昼食はこの屋上を利用している。

 真夏だというのに額に汗ひとつ滲んでいない千加は、雪のように白い肌に黒檀の髪、バラの唇といった具合に、童話の『白雪姫』が現実にいればこんな感じなんだろうと思わせるうつくしさだ。

 性格はいたって温厚。…ただし、自分と彼の幼馴染み以外の前では。

 縁の目には、千加の背中に悪魔の真っ黒い羽根がパタパタと音を立てて動いている様が映し出されている。

「綱紀はC組の岩崎さんに呼び出されてるはずだけど」

 すぐ来るって言ってたのにな、とのんびりとした口調の千加に、縁は腰を浮かせて彼に詰め寄った。

「はあ!?なんだよソレ!なんで止めないんだ!?」

 近い、と眉根を寄せながら、千加はタコを刺した箸を持った肘で縁を押しのける。

「健全な!男女交際を止める権利はおれにはありません」

「あんたも綱紀が好きなくせに…」

「お生憎様、おれは綱紀にやましい!気持は持ち合わせていないもので」

 さっきから『健全』やら『やましい』を強調する言い方が癪に障る。

 しかし、この数日でこれでもかというくらいに千加の性格を思い知らされた縁は、グッと堪えて言い返すような真似はしない。

(…倍になって返ってくるからな)

 話題に上っている橋谷綱紀(はしたにこうき)は、千加の幼馴染みで縁の想いびとだ。

 人当りがよく、本人はかなり鈍いため気づいてはいないが、誰にでも公平にやさしい彼は女子に結構人気があるようだ。

 身長は縁より十五センチ弱低いくらいか。スポーツを幅広く上手にこなす運動神経を表した健康的な肌の色、見た目よりも柔らかい黒髪はところどころ寝ぐせが飛んで、ぱっちりとした二重瞼の奥の黒目がちな瞳はきらきらと輝くような明るい光を纏っている。

 ごくごく平凡な容姿で一般的な高校男子の綱紀には、ヘテロセクシャルの人間が惚れる要素は見当たらない。

 しかし、縁にとっては特別な人間だ。

 それこそ、生まれ持った性などどうでもいいときっぱり宣言できるほどに。

「おー、遅れて悪い〜」

 険悪な雰囲気をブチ壊すように、あちぃ〜と汗を腕で拭いながら噂の主が現れた。

 三つボタンが開けられたシャツの隙間から汗の浮かんだ鎖骨が覗き、健康的な色香が縁のヨコシマな欲望に小さな火を灯す。

 少し前までのほぼ引きこもり生活を送っていた分に溜まっていたモノが、最近は枷の隙間から溢れ出していて、縁自身その抑制に手を焼いていた。

 綱紀はよもや縁が自分に対してそんな獣染みた欲を抱いているなど微塵も思っていないようで、普通に同性の友達の前で見せる無邪気なまでに奔放な姿を見せつける。

 いまが夏だということが、さらに縁の渇望を増幅させている。

「どうだった?」

「ん?断った。なんとなくそんな気分じゃないんだよな」

 当たり前のように千加の隣に腰をおろした綱紀は、さくさくと包みを開いて弁当を開けた。

 縁は綱紀の言葉に嬉しくなるも、彼が座ったのが自分ではなく千加の隣だったことに臍を噛んだ。

「夏休み前だからね。彼女たちは遊ぶ相手が欲しいんだろ」

 千加の口調からして、綱紀が告白されるのは結構頻繁なことのようだ。

 綱紀が断ることを知っているから、千加はあえて止めなかったのかもしれない。

 もし綱紀が女子と付き合うことになったとしても、健全な男女交際を止める権利はないと言う彼はその彼女が綱紀に相応しくないと思ったなら、なんらかの方法をもって別れさせることだろう。

(そのまえに、千加のオメガネに適う相手などいないだろうよ)

 縁も上手いこと牽制されていて、思うまま綱紀を口説くことができないでいる。

 綱紀の扱い方に手慣れている千加は恋敵以上に手強い相手だ。

「夏休みに入ったら千加たちと遊園地に行くし。オレ的には女の子と遊ぶよりこっちのがいいかな」

「っぐ!」

 ムシャクシャした気分でヤケクソ気味におにぎりに齧りついた縁は、綱紀の嬉しげな声に喉を詰まらせた。

「縁、大丈夫?ほらこれ飲んで」

 やさしく背中を擦ってくれて、心配そうな表情で自分のペットボトルを差し出してくれる千加の姿は、本性を知らない人間が見たら天使のように映るだろう。

 けれどメガネの奥の瞳は本当に心配そうに揺れていて、芝居だと判っている縁もついドキッとしてしまう。どこまでも完璧な猫かぶりだ。

「…ごほっ、サン、キュ」

 縁は素直にミネラルウォーターを受け取り、ほとんど口をつけていなかった中身を半分ほど飲み干して返した。

 ほっと息をついて、しかし次に見た綱紀の表情に愕然となった。

 なんとふたりのやり取りを見て、ニヤニヤしているではないか。

(なんか、ヤキモチ妬かせるどころか、逆に応援されてる…?)

 嫌な予感がしてチラッと窺った千加の背中には、やはり黒い羽根が見えた。



 五日ほど前のことだった。

「ひとりにしないでっ」

 叫んで飛び起きれば、シャツは汗でぐっしょりで顔は涙で濡れていた。

 激しい動悸に胸元を押さえて深呼吸を試みると、どうやら息をすることも忘れてうなされていたらしく、ゴホゴホッと盛大に噎せた。

(…吐き気がする)

 再びベッドに沈んで窓を見ると、まだ夜明け前でシャーッと雨の音が聞こえる。

 雨の日は気分がすぐれない。七歳の、あの雨の日から。

 縁の両親はパイロットと客室乗務員で、配置が国際線のため一年のほとんどを空と外国で過ごしている。帰国しても忙しくてあまり家にいない両親の代わりに、祖母が縁の面倒を見ていた。

 あれは風の強い雨の日だった。

 小学校に上がったばかりの縁が家に帰ると、台所で祖母が倒れていた。

 パニックになりながらも、近所に必死に助けを求めて、目を開けない祖母と一緒に病院へ行った。

 ゴロゴロと雷の音が響く病院のロビーで、寒くもないのに寒気がするように震えが止まらず、膝を抱えて小さくなってテレビを見ていると、緊急ニュースが縁の視界に飛び込んでくる。

 ヨーロッパで日本発の飛行機の胴体着陸事故があり、その飛行機が炎上している光景が画面いっぱいに映し出されていた。

 縁が瞬きを忘れて、大きな目を瞠っていたのは、その飛行機が両親がともに乗務していた機体だったからだ。

 その場から動けなくなってしまった縁に待ち受けていたのは、誰よりも傍にいてくれた祖母の訃報。

 あのときの、真っ暗な闇に突き落とされた感覚がいまでも忘れられない。

 飛行機が炎上したのは乗客が無事に避難を終えてからだったが、両親が帰国したのは精密検査をあちらで終えたあとで、祖母の葬式などがすべて終わってからだった。

 しかし、一度胸の内に巣食った絶望という名の闇は根深く、縁は雨が降るとその闇から逃げ出そうともがくように、発作的に暴れるようになってしまう。

 最初は物に当たっていたものが、体が大きくなるにつれて標的が大きくなり、最後には刃物を持った輩との立ち回りの挙句、生死の境をさまようことにもなった。

(…綱紀…)

 彼の名前を呟くだけで、心が和いでいく。

 あの日から、自分に近寄ってくるひとがいなくてひとりだった。

 見た目はやわらかく甘い容姿であるが、その雰囲気はかたくなにひとを拒んでいたからだ。

 けれど、新しい家に引っ越して、気分のいい晴れた日にベランダに出るようになってから、久々に他人のやさしい視線を受けるようになった。

 自分が通うはずだった高校の制服を着て、ぼんやりと下から自分を見つめている。

 顔ははっきりと見えなかったけれど、彼はどうやら自分を女性だと勘違いしているみたいだと気づいたのは、ベランダに出るといつも同じように視線を感じていたからだ。

 久々に大きな喧嘩になろうかというゲームセンターから、腕を引いてたすけてくれたのはその彼…綱紀だ。

 理由が『巻き込まれて補導されて停学にでもなったら皆勤賞がなくなる』なんていう、笑えてしまうものであっても、縁にとってその手は大切なものだ。

 いままで両親にすらきちんと話せなかったことを綱紀が聞いてくれて、自分のためにあたたかな涙を流してくれたことが、たまらなく…嬉しくて。

 久しぶりにひとに触れたから、そのぬくもりに溺れてしまっているのかもしれない。

 それでも構わない。

 いまは、綱紀がいればそれでいい。


 結局、それから眠れずに朝を迎え、雨も小降りにはなったが、やはり頭も気分も重く本当ならば休みたい。が、綱紀を心配させるのも嫌だったから登校することにした。

 しかしこの日はやはりすこぶる調子が悪く、綱紀の前ではかろうじてにこやかにいられたものの、内心はなにかに当たりたいという醜悪な気分が占めていた。

 そしてそのターゲットはすぐそばにいた。

 高校に戻ってからというもの、いつもいつも綱紀の傍に張り付くようにいる千加だ。

 クラスメイトがうっとりと夢見心地に眺めている視線をものともせずに、きれいな顔に穏やかな微笑をたたえる彼は、綱紀と一緒にいるのもとても自然で。

 綱紀を独り占めしたいという歪んだ気持ちを抱く縁にとってはとにかく邪魔な存在だった。

 排除、とまでいかなくても、綱紀に近づくことを牽制したかったのだ。

 縁は誰もいない特別棟に案内させると、行動を実行した。

「あんた、綱紀とどこまでいってんの?」

 ストレートに訊いた言葉は、上手くはぐらかされた。

 しかし、煽ると案外と素直に表情に出してくる。

 それは縁が綱紀の教室に入り浸るようになってから判っていたことだが、いまは誰もいない。表情を取り繕う必要性がない。

 言い返してくると思った。けれど千加はすぐにいつものやさしい表情に戻る。

 その切り替えの巧さが、自分をコントロールしきれていない縁には腹立たしい。

(そのきれいな顔をグチャグチャにしてやりたい)

 完全な八つ当たりだ。

 喧嘩を吹っ掛ける真似は、それこそ数え切れないほど…生死をさまようほどしてきたことだが、それを自分よりはるかに弱く華奢な相手にしたことはない。

 強い意志がちらつく千加の真っ直ぐな瞳は、彼の容姿をそのまま表しているようでとてもきれいだ。

 千加の心は、縁よりも柔軟で強いだろう。

 だからこそ、憎い。壊してやりたい。

「綱紀への構い方はオカアサンだよな」

 鼻で笑って言ってやると、千加はサアッと白い肌を紅潮させて拳を振り上げてきた。

 しかし、彼の細腕で手練た縁に一撃を食らわすことなどできるはずもない。

 難なく受け止めた腕は見た目よりもずっと細く、縁が本気で握ればそのまま折れてしまいそうだ。

 悔しげな表情で顔を朱に染め上げた千加は、思わず目を眇めてしまうほどうつくしかった。

 だからこそ、もっと苦痛に歪める表情を見たいと思った。

「…その気がないなら、邪魔をするな。綱紀にはもう唾をつけているし、あんたが出しゃばらなければ、俺のモノにできる」

 千加はその瞳を覗きこんだ縁の瞳の中に、トグロを巻く闇を垣間見たのだろう。抵抗していたのにピタッと動きを止めて、ついには震えはじめた。

(可哀想に。おれに目をつけられたばかりにこんなに怯えて)

 残酷な自分を止める手だてはもうなかった。

 やわらかく穏やかなのに強い千加の瞳の色がだんだんと恐怖に滲んでいく。

(綱紀の存在がなければ、この場で身体ごと引き裂いてやるのに)

 その細い顎を捕らえると、千加はガクガクと本格的で震えだした。

「千加先輩って、なんか…嗜虐心をそそらせる」

 とうとう大粒の涙を零れ落とす千加が哀れだったが、縁は容赦しなかった。

 血の気の失った千加の唇を、執拗なまでにねっとりと、その赤い舌で舐め上げたのだ。

「綱紀に近づくなとまでは言わない。が、もっと関わりを控えてくださいね、千加先輩?」

 糸を切られた操り人形のようにペタンと座り込んだ千加の頭上に、最後通達を言い渡して縁は特別棟を後にした。

 窓を打つ雨の音が、ガンガンと頭を打っている気がして吐き気がした。


 そして放課後、珍しく一年の教室に迎えに現れた綱紀になぜか屋上まで連れて行かれると、振り向きざまいきなり頬を殴り飛ばされた。

 綱紀はひとに手を挙げるタイプではないし、自分の顔をとても気に入っている。

 その彼が自分を殴ったことが信じられない縁は、しかも理由が判らずにただ唖然と雨で濡れたコンクリートに身を投げ出して綱紀を見上げた。

「千加になにをした」

 温和な綱紀には不釣り合いなほど鋭い視線に、縁は驚きのあまりすぐには声が出せないでいた。

 なにも言わない縁に業を煮やした綱紀は、グイッと縁の胸倉を掴み上げた。

 普段怒らないだけに妙な迫力があるその表情に、縁はふと見惚れてしまう。

 綱紀の髪から滴った雨の雫がポタポタと顔に落ちて我に返ったときには、もう一度殴られていた。

「千加になにをした!?」

「…八つ当たり、をした…」

 苦しいほどに胸倉を締めあげて、いま一度同じ問いを繰り返す綱紀に縁は息も絶え絶えに答えた。

 綱紀は縁の事情を知っている、身内以外ではじめてのひとだ。

 縁が幼い日に負ったトラウマを聞いて受け止めて涙して、あたたかな心で包み込んでくれた。

「千加先輩、の、やわらかい表情を…傷つけてみたい、と思った…」

 千加に本当にやったことを話すことはできなかった。

 そうしたら、本当に嫌われてしまう。

 …やっと見つけた、やさしい光を失ってしまう。

 そう思うのに、素直に謝罪の言葉が出てこない。

「縁の事情は知ってるけど。やっていいことと悪いことがある」

(けど、どうして俺たちの喧嘩に綱紀が出てくるんだ)

 綱紀を失いたくないから、目障りな千加を遠ざけたのに。

 千加が、言いつけたんだろうか。縁にやられたと。

 酷い頭痛が縁を襲う。

 これ以上なにかを言うのは、綱紀にいい印象を与えない。

 しかし、この日の縁はどうにもイライラが治まらず、言ってはいけないことを口に出してしまった。

「…千加先輩、きれいすぎて嗜虐心を煽るんだ。にしても、綱紀にチクったのか?案外小さいんだな」

 ガッ

 胸倉を掴まれたまま、縁は地面に叩きつけられた。

 シャツを掴んだ綱紀の手が怒りに震えている。

「…最低だ。千加に赦してもらうまで、オレの前に顔を出すな」

 ギリッと軋む音が聞こえそうなほど噛みしめた歯の隙間から零れた、苦く掠れる綱紀の声に絶望したのは、すべて投げやりになっていたその日ではなく、翌朝の眩い太陽の光を浴びて我に返ってからだった。



 そういうことで、千加に赦してもらう条件として飲まされたのが、『遊園地デート』だった。

 しかも綱紀のまえで、できるだけ甘くやさしく誘ってというおまけ付き。

 ハブとマングースよろしく険悪な雰囲気を醸し出していたというのに、いきなりそんなことになったが、綱紀は特別不思議にも思ってないようだ。

 ただ仲良くなってよかった、とほっとしているような彼の姿に、脈があるのか疑わしくさえある。

『ヤキモチ妬いてくれるかもよ?』

 小悪魔な千加の言葉によろめいてしまったのも、惚れた弱みといういうやつだろう。

 普段なら心もすっきりと穏やかな晴天である今日も、縁の心には暗雲が立ち込めていた。

 そもそも、男三人で遊園地というのが寒い。

 しかし、千加は趣味なのか気を利かせているのか、いつもはさらさらと下ろしている髪はビーズでできたヘアピンで留め、服は白のシフォンワンピースに、裾フリルのレギンスを穿いていて、とても高校男子には見えない。

 さっきから近くを歩いている男の視線がちらちらと彼の姿を追っている。

 そんな視線には慣れている千加は、綱紀となにに乗るかとパンフレットを見ながら相談している。

(…デートというよりも、これじゃ引率してる保護者じゃないか)

 乗り物酔いが激しい縁には、彼らがパンフレットに指を滑らせているアトラクションの数々が恐怖でならない。

「縁、最初はあれに乗るから」

 嫌な予感ほど当たるのはもはや定石だ。目を輝かせた綱紀が指をさしたのは、回転こそないもののスピードが売りのジェットコースターだった。

 そもそもこの遊園地はジェットコースターだけで三つあり、絶叫マシーンと括ればさらに倍以上の数を誇っている。

 最初からこれということは、きっと綱紀たちは全部制覇すると言うに違いない。

 すでに眩暈を覚えた縁の腕に、千加が細く白い腕を絡ませてきた。

「早く行かないと、全部乗れないよ?」

 首をかしげて見上げてくる瞳の奥には、縁の心情を見透かしたような色が窺えた。

 そもそもが嫌がらせのこのデート、せめて綱紀がヤキモチを妬いてくれないと浮かばれない。

(乗れなくていいから!)

 縁は心でツッコミを入れつつ、暑いのにひんやりとした腕に引きずられるように、最初の悪夢へと連行された。


 目を瞑っていても、視界がグルグルしているのが判る。

 縁はベンチに横になって吐き気と戦いながら、何度目かの溜息をついた。

「…本気でダメだったんだな」

「乗り物酔いに本気もクソもあるか…」

 喋るのも億劫で、声は疲れきって掠れてよれよれだ。

 冷たい手が前髪を掻き分けて額に触れる。

 綱紀の手は本当にあたたかいが、千加の手はいまの状態には染み入るほどに冷たい。

 非常に不本意ながら千加の膝に頭を預けていて、綱紀が飲み物を買いに行っている。

「まあ、そのくらいのほうが可愛げがあるんじゃないか?」

 クスクスと笑う千加が憎らしいが、触れる手は存外やさしくてどちらが彼の本音なのか図りかねる。

 気分は最悪だが、心が穏やかになっていく不思議な感覚だ。

 綱紀と知り合ってから、誰かいることが当たり前になっている。

 気分が悪くなると当たってしまうから、ひとりでいたほうが楽だったのに、まさか誰かの膝枕で横になることになるとは思わなかった。

 しかも、相手は心を許してはいけない千加なのに、どうしてこんなに落ち着くのだろう。

「綱紀のこと、本気で好き?」

「じゃなかったら、こんな茶番に付き合うか」

「だよな」

 静かな千加の声には、特別縁を諌めるような感情は窺えない。

 ただ清廉で、額を撫でる手もそのまま眠ってしまいそうなほど心地よくて。

 自分がしたことをすっきり洗い流した彼の潔さは、尊敬に値する。

 綱紀との邪魔をしないでくれるなら、友達として大きな存在となるだろう。

 綱紀が千加のそばにいる理由が、猫かぶりであるはずの彼がみんなに羨望の眼差しで見られる理由が判った気がした。

「縁、水買ってきたけど飲めるか?」

「…ああ」

 綱紀の手を借りて起き上がると、ペットボトルを受け取って冷たい液体を流し込んだ。

 体が急速に潤っていくと、自然と唇から嘆息が洩れた。

「歩けるようだったら、今日はもうおひらきにしよう」

 千加の言葉に綱紀も頷く。

 しかし、まだ全然アトラクションを制覇していない。

 いくら気乗りしないといっても、ふたりがパンフレットを見ながら目を輝かせていたのを思うと気が引ける。

「せっかく来たんだから、ふたりで乗ってこいよ。俺はここで休んでるし」

「一緒に来たんだから、それはできないよ。また来ればいいんだし、今日は帰ろう」

 にっこりと、けれど有無を言わさない口調の千加に、縁はその言葉に甘えて頷いた。


 家の方向が違う千加とは遊園地の前で別れて、縁は綱紀と並んで歩いていた。

「まだ調子悪い?」

 もう何度目かの問いに、自分が情けなくて苦笑が漏れる。

 ひとりで歩けはするが、まだ強がりを言えるほど回復はしていない。

「まあ、引きこもりが長かった縁に、真夏の炎天下と人ごみは厳しかったよな」

 言葉通り、いまも太陽の熱が髪と背中を焼きそうな勢いだ。

 もう少し雲があったなら、ここまで酔うこともなかったろうし、体調が回復しないのは太陽のせいもあるかもしれない。

(晴れてて気分がいいから油断した)

 せっかく綱紀とふたりきりになれたのに、早く家に帰って横になりたいと思うところが重症だ。

「でもさ、千加を恨まないでやってくれよ?あいつ、縁の事情知らないけど、縁に元気を出してもらいたくてこの計画持ち出してきたんだから」

「…は?」

 計画って、と眉根を寄せた縁に、綱紀は小さく吹き出した。

「千加が縁にどう言ったか知らないし、ああ…オレにも『ふたりだけじゃ恥ずかしいから』なんて言ってたけど、あいついじめっ子体質でプライド高いわ、気ぃ強いわ、おまけに馬鹿力だけど、本当はすげえやさしいんだよ。心配しいだしな」

 ちなみに遊園地のチケットは千加の父親から貰っていて、期限が今日までだったらしい。

 最初から三人で行くつもりだったんだと、綱紀は笑って千加が言葉に出さなかったことを縁に説明した。

 千加は完璧に芝居を打っていたはずだが、綱紀は千加の内情を見抜いていたのだ。

「あの、雨の日のこと」

 少し低くなった綱紀の声に、縁はびくっと小さく震えた。

「あれ…は…」

「千加はもう縁を赦してるよ。だから、オレもこれを最後にして言わない」

 途端に顔色を失った縁に、綱紀は安心させるように微笑んだ。

「縁はきっと気づかなかったと思うけど、時々千加が縁を見ているときに怯えたように瞳が揺れてた。今日はもうなくなってたけど…もう、ひとに八つ当たりすんなよ」

 しかし続いた言葉は、行った過ちを決して忘れないでくれと縁の心に深く刻み込まれた。

 綱紀と千加、ふたりの間には決して立ち入れない絆がある。

 それは幼馴染みとしていままで培ってきたものだから、新参者の縁がそうやすやすと踏み込んでいけるはずがない。

 けれど、違うかたちで綱紀とも千加とも絆を作っていけたら、幸せだろうと思う。

「綱紀は千加が好きなんだな」

「あー…そう面と向かって訊かれると照れくさいけど、まあ好きかな」

 千加には絶対言えねえけど、とはにかむ表情が可愛い。

 うっかり道端で抱きしめたくなりつつも言葉を続ける。

「おれも千加は好きだよ。…背中に悪魔の羽根が見えるときもあるが」

 縁の発言に綱紀はきょろきょろと周囲を窺って、盛大に笑い出した。

 ゲーセンに置いてった翌日なんか大変だったんだ、とそのときの千加の所業を思いだしたのか頭を擦りながら訴える綱紀を、縁はどこかふんわりとした気持ちになりながら目を眇めた。

 ずっと探していて、欲しかった小さな日常が、幸福と呼べるものがすぐそばにある。

 その幸福にもうひと雫だけ、素敵なエッセンスが欲しいと願うのは分不相応だろうか?

「綱紀も好きだよ。…千加とは違う意味で」

「うん?オレも縁が好きだけど」

「…判ってないな」

(誰が見てるか判らない近所で、抱きしめて…それから、なんて想ってる意味の好き、なんだ)

 吐息のような呟きに、綱紀はいままで縁に向けていたその瞳を青い空に向けながら、

「判ってるんだけどなあ」

 うんっと背伸びをした。

 微かに揺れたその声色と、暑さでではなくうっすらと赤く染まった耳に、縁はピタリと足を止めた。

「…綱紀、うちに寄ってくか?」

 ひどく慎重に尋ねる自分自身が可笑しい。

「こないだ発売した、ロープレ貸してくれるならね」

 気恥ずかしさが滲む瞳で真っ直ぐに自分を見つめてくれる姿がとても愛おしくて、堪えきれなくなった縁は、その体を両腕で抱きしめた。


 

 窓から明るい光が差し込む部屋に、微かな吐息が響いていた。

「…やっぱり、なんか違和感を感じるんだよな」

 縁は僅かに掠れた声で呟く綱紀を見下ろしている。

 互いの体温が上昇したように感じているのは、陽光のせいだけではない。

「位置が逆だって?…けどさ」

 縁は掌で自分の顔を撫でた。

 しっとりと汗ばんだ肌、口元はだらしないと思えるほど緩んでいる。

「いま俺、男の顔…してると思うけど?」

「それは、そうだけどさ…」

 綱紀は縁を女性だと思い込んでいただけに、解せないものがあるらしい。

 しかもごく一般的な男である彼が、押し倒されている状況自体がありえないものなのだから仕方がない。

「綱紀がどうしても逆がいいのなら、それでも俺は構わないよ」

「自分よりデカイ人間を押し倒す趣味もないっての…」

 縁の提案に、綱紀は苦笑して手を伸ばして、まだ濡れている唇に触れてきた。

「綱紀って、意外と積極的だな」

「オトコノコですから」

 でも緊張して心臓バクバク、と小さく舌を出す仕種が、縁には可愛く誘っているように見えて胸が高鳴る。

「…綱紀…」

 熱情に低く掠れる声で名前を呼ぶと、了承したように綱紀が目を瞑った。

 再び愛しい彼の唇に自分のそれを寄せると、

 バンッ

「不純同性交遊禁止!」

 派手にドアが開く音とともに、ビシッと人差し指を立てた千加が乱入してきた。


 振り上げられた足を見るに、どうやらドアは哀れにも蹴破られたらしい。壊れていないのが不思議なくらいだ。

 ふたりはベッドの上でその体勢のままかたまり、縁は首だけをググッとまわして千加を見た。

「…ひとが心配になって来てみたら、なぁにヤッてんだかね」

「…それこそ不法侵入者がなに言ってんだよ」

 仁王立ちした千加が半眼で睨みつける中、縁は体を起して盛大な溜息をつく。

 綱紀は目を合わせまい、と窓のほうへ視線をやっている。

「ちゃんと、チャイム鳴らしたけど?…あんなにフラフラだったんだから、返事なきゃ心配するだろ。玄関も開いてるし」

 微かに噛みしめた唇と、うっすらと濡れた瞳で『よかった、なんともなくて』と呟く千加に、縁ははっとなってその名前を呼んだ。

「千加…」

 千加はそのままズンズンと部屋に入ってきてベッドの前に立つと、縁の肩を両腕で押してベッドに押し倒した。

 先にベッドに横たわっていた綱紀が縁の下になって、『ぐえっ』と潰されたカエルのように悲鳴を上げる。

「でもね、近所でラブシーンはどうかと思うんだよ」

「は?」

(それって、家に入る前から見てたってことじゃねえのか!?)

 言葉として紡げずに心で叫んで、今度は見下ろされるかたちになった縁は、恐怖を覚えるほどに薄く冷たく笑った千加の表情に目が釘付けになった。

「…千、加…も、ギブ…」

 ベッドを叩いて呻く綱紀の声は、千加には届いていないようだ。

「友達なのに、除け者とか内緒とか、酷いよね」

「あの、千加…先輩?」

 思わず少し懐かしい呼び方で呼ぶと、千加はにっこりと微笑んで見せた。

 まさしく天使の笑顔。だがしかし、その背中にはふわふわの白い羽根ではなく、漆黒の鋭い羽根。

 さっきまで浮かんでいた汗とはまた違う意味のひんやりとした汗が、ツツッと背中を伝う。

「どうせなら、おれも混ぜてよ」

 千加はワンピースと中に着ていたキャミソールを、ガバッと豪快に男らしく脱ぎ捨てた。

(…きれいな白い肌だな…)

 うっかり見惚れてしまった縁は、千加が言った言葉の意味を理解していなかった。

「おれ、上手いよ?」

 ふふ、と笑いながら千加が膝からベッドに乗りあがると、ギシッと三人分の体重を受けたベッドのスプリングが悲鳴を上げる。

「ナニガデスカ!?」

 ようやく現状を悟った縁と、その下敷きになった綱紀が蒼白な顔でそう叫んだ。

 

…だんだんカップリングが不明になりつつありますが、これで一応終焉です。

きっと、続きを書いたら18禁になってしまうので…読みたくないですよね(汗)。

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

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