第6話 外の空気が吸いたくて
真っ青で汚れのない清らかな優しい青空が衣服であるかのように雲を浮かばせ、それを神々しく照らす力強い陽光。
そして綺麗に整頓された城下町――サクラティメント。
かつてはこの街の地下に存在していた地下シェルターの街並みを地上へと模倣したにすぎない見窄らしく貧しい商業都市だった。
また商業都市と言っても、この街に特筆すべき点がなく、唯一闇市のような暗い市場が他の都市よりも栄えていたため皮肉を込めてそう言っていた。その頃のサクラティメントの街は本当に酷かったという。日々の退屈さから、将来への不安から、薬に手を出し有り金全てを吸い取られ、何もかも失った失職者が市民の大半を占め、薬によって富を得たほんの一部の悪徳商人たちがこの街の自治を担っていた。
そんなところに現れたのが――サーマッカー家である。主家からサクラティメントへの侵攻を許可され、屈強な兵と莫大な軍事資金を支援されたサーマッカー家は悪徳商人たちに雇われた傭兵を打ち破り、たった一日にしてサクラティメントを占拠。そして当時主家であったビエトロ帝国の従属国という形式で『サーマッカー王国』を樹立。絶世の美女ともてはやされていたサーマッカー家当主がサーマッカー一世として即位。
サーマッカー一世は即位するやいなや、サクラティメントを王都にすることを国民の前で宣言。それは国民、ましては事情を一切聞かされていなかった大臣すらも驚いた。それも当然である。あの悪名高いサクラティメントを国にとって重要な王都にしたのだから。王都ということは当然、国王であるサーマッカー一世自身もその地に居座ることになるため、国王直近の部下、そして大臣はその宣言に対し挙って異を唱えた。
だがサーマッカー一世の意思は固かった。
そしてサーマッカー一世は異を唱える者たちにこう言ったそうだ。
「わたしがこの街にいなければこの街はどうなるのだ?」と。
後にその宣言は『革新宣言』と称された――そう自分のことのように語っていた当時は幼かった弟のことを思い出しては、いつかはなりたいとそう言っていた幼かった弟のことを思い出しては、リュミエールは窓に映る自身の顔を見ては、抱いている感情を見透かした。
――あの日にはもう二度と戻れないのか。
そう知らず知らずのうちに考えてしまう自分が嫌だった。
だから、
「いい天気ね」
心に思っていない言葉を無理やりひねり出すように紡いだ。
「そうですね、リュミエール様」とリュミエールに使える小太りの近習――イヨが答える。
弟が離れてしまった今、リュミエールにとっての唯一の心の支えは近習――イヨただ一人だけだった。
――物理的にもイヨ一人だけだった。
というのも、リュミエールの部屋にいるのは二人だけであり、その二人は外部と接触することを禁じられていた。
いわゆる――監禁である。
「ねえ、イヨ」
「何ですか?お嬢様」
「何日目かしら。外の空気を吸っていないのは」
イヨは丁寧に指を一つ一つ折りながら数えていく。
「五日間、でしょうか」
「そう」
リュミエールはイヨに対して浴びせていた視線を窓ガラスの向こうへと戻し、そしてまた奥底からの溜息を吐いた。
前王が亡くなってしまった今、城内が混乱しているは分かるが。
――前王サーマッカー三世は跡継ぎにリュミエール様を指名した。
そんな根拠の全くない噂が城内を駆け巡り、ましては城外へと出て――現在に至る。弟を支持する派閥――リアル派を刺激しないため、との配慮によりこうしてリュミエールたちは監禁されているが、リュミエールは自分を一室に封じこめる理由は他にある、とそう確信していた。
その目的はリアル派を刺激させないためではなく、むしろその逆――リュミエール本人にその噂を否定させないため。
なぜなら彼女、リュミエールは名君と謳われるサーマッカー王国初代女王にして美女――サーマッカー一世と容姿が瓜二つなのだから。
特徴的な白髪にごく近い艶やかな金髪。
女性にしては高い背丈。
ネコのようにつり上がっている大きくこの世の全てを見通すような双眸。
そして――凛とした声。
比喩でも何でもなく本当に彼女――リュミエールはこれら全てサーマッカー一世と『瓜二つ』だったのだ。
国民は言った。
戦にしか目のない軍人は言った。
権力にしか目のない国の政治家は言った。
否――思わず言ってしまった。
リュミエールはサーマッカー一世の――『生まれ変わり』、であると。
誰もが彼女を次の王位に、そうしたいと願っていた。
リュミエールの意思は黙殺して。
前王サーマッカー三世ですら彼女を贔屓した。
弟――リアルの思いを見逃して。
リュミエール、リアルの兄弟仲が悪くなってしまったのもこれが原因だった。幼いころは視野も狭く、思考も浅く、お互いを対等だとそう思っていたが、リュミエール自身今でもそう思っているのだが――リアルは違う、そう悟った。悟ってしまったそのときから彼ら兄弟のすれ違いが多くなっていった。
最初は他愛のない小さな喧嘩だった。
だが、もうリュミエールの隣にはリアルの姿はない。
リュミエールはまた――ため息を付いた。
「お嬢様、外の空気を吸いたくはございませんか?」
リュミエールはその声に振り返り、イヨの悪戯じみたいやらしい笑みに失笑した。
「イヨ、私たちは監禁されているのですよ。ドアに鍵がかかっていないとはいえ、見張りの兵がいるはず」リュミエールは笑う。「それとも何か策が?」
外へ出れるはずがない――リュミエールは視線を窓の外へと戻した。
「左様」イヨは笑う。
「残念です、イヨ。ついに耄碌へと成り下がってしまいましたか……」
「いいえ、お嬢様。私はまだ現役でございます」
リュミエールは振り返って、
「そこまで言うのなら、策は?」
イヨはまたしてもしたたか笑みをリュミエールへと見せつける。
「入れ替わりですよ、お嬢様」
■■■
街の大通りを中心に左右対称にたくさんの出店がならぶ商業都市――サクラティメント。今日もたくさんの人で溢れ、見るからに賑わっていた。
手を広げ、大きく息を吸っては、小さくゆっくりと息を吐いた。五日ぶりのせいかいつもより新鮮に感じられた。
「まさかね」
白髪のように白い金髪を隠すようにコートのフードを被るリュミエールはいろいろな髪型をした、いろいろな服装をした人々とすれ違いながら街道を歩き、思わず呟いた。
まさか、イヨと服を交換してイヨとして別件があると言うだけでこうして――外の空気を据えるとは思いもしなかったのだ。
今まで馬鹿正直に部屋に監禁されていたのがおかしく思えてならなくなり、思わずリュミエールは笑みをこぼした。
だが、どこか不完全燃焼なもやもやとした感情をリュミエールは感じた。
考えるまでもなかった。
三十歳年上のイヨがリュミエールの代わりを務めることができたという事実だ。
「気付かれなかったのは幸いだったけれど……気付かれないのも、寂しいわ」
リュミエールは俯き出してしまった自身の感情をどうにか吹っ切ろうと、気分転換代わりにもう一度――外の空気を吸った。
生暖かい雨のような風が顔全体を撫でる。
「――ん?」
――生暖かい、雨?
リュミエールは何か不審に感じ、瞳を開けた。
目の前は――黒かった。
「――え?」
瞳を閉じ、今度は右手で自身の両目を擦り、視界を確保するよう務める。
目の前にいたのは――バケツを持った青年だった。
――黒髪の――青年だった。
「きゃああ!!」
――黒の魔女の、信者!
リュミエールは思わず悲鳴を上げる。
自分は何をされるのだろう。
自分は何をされてしまうのだろう。
浮かび上がる思いつく限りの不安と恐怖と、恐ろしい自分の未来が彼女を襲う。
誰かの悲鳴が聞こえる。
数多に重なり合う足音が彼女の両足を揺らす。
――早く逃げなければ。
イヨのあの笑顔が浮かぶ。
――早く、帰らなきゃ!
リュミエールはその青年に背を向け、逃げようとする。
だがもう――足は動かなかった。
リュミエールは瞳を閉じ、青年の、黒髪の青年の次の行動を待つ。
「あの、すいません。その、まさか、自分でも女性の顔面に向かって黒インクを投げつけるとは思ってなくてですね。えっと――その何を言いたいのかって言うと――あの……」
黒髪の青年は彼女に向かって頭を下げた。
「すみませんでした。――クリーニング代はしっかりと払いますので。あっ、でも金一銭も持っていない、か。じゃあ、その――出世払い、ということ――」
「何やってるんだ、新人!まだまだ黒インクはあるぞ!衛兵が来る前に、濡れ!濡れ!濡れえええ!!」
と、新人――目の前の黒髪の青年に注意し、奇声を上げながらバケツを振り回し街中を黒インキで汚してゆく小太りの――黒髪の男。
もうリュミエールには目の前で繰り広げられている光景はありていに言ってしまえば――意味不明であった。
「すいません!!」
後ろを振り向き、そう答える黒髪の青年。そして視線をリュミエールへと向ける。
色白で、ひ弱そうで、まるで貴族の息子のようだと、リュミエールは思った。
沈黙が黒で彩られていく空間が、二人を包む。
なぜかリュミエールには時の流れがスローモーションのように感じられた。
「よくやった。『英雄』くん」
黒髪の青年が後ろを振り返った。
リュミエールは声の在処を探した。
声の在処は――馬車の天井で優雅に立つ長身の黒髪の男だった。
そして、
「あなたが、サーマッカー三世の娘にして名君サーマッカー一世の生まれ変わり――リュミエールお嬢様ですね?」
男はそう言って、高らかに――笑った。
ヒロイン登場です!