第1話 四十九年目の憎しき希望
――暗闇にいた。自分自身ですら見えない真っ暗闇。
そっと僕は前方へ両手を伸ばす。もちろん壁はない。温度差も変わらない――というか温度がない。
その刹那、この暗闇に『音』が生まれた。水が地面に落ちたような音。僕はその『音』からこの空間が『無』ではないと知り、安堵した。そして僕は『音』が存在している場所へと移動する。
『音』の正体は泣き声だった。僕はその泣き声の主を知るため、顔を近づけ確認する。
そこにいたのは――幼い少女。
「私には孤独が足りないの」
少女は声を掠れさせながらそう言った。
「……でも、孤独が嫌い」
少女の髪が揺れる。少女の流した涙が地面に飛び散る。そして『音』が生まれた。
少女はふと何か思い当たったのか、顔を上げ、僕を見た。
「……どうして――泣いてるの?」
僕は頬を触れる。その頬は、彼女が言っていた通り、濡れていた。
僕は泣いていた。彼女と同じように泣いていた。
彼女の手がその僕の頬に触れる。柔らかく冷たい手だった。そして彼女は哀しそうにも、嬉しそうにも、捉えられそうな笑みを小さき顔に咲かせた。
僕はその花が枯れなければいいのに、一生枯れないで咲き続けていればいいのに、と思った。
彼女はその曖昧な表情を浮かべたまま、開口する。
「そっか。あなたが――私なのね」
■■■
「……本当に。あなたが」
誰かが言った。僕の瞼の奥で、見つめている自らの瞼の向こうで。
僕は瞼を開く。すると陽光が僕の眼窩に入り込み、痛めつける。きっと暗闇にいたせいだろう。
目の前には三人の男女がいた。後ろを振り返るとそこには井戸があり、僕はその縁に背中を預けているようだった。
「主宰」
「ああ、分かってる。リン」
短剣らしきものを両腰に差した黒髪の女がこちらへやってくる。僕より少し年上だろうか。
彼女は「立てる?」そう言って、僕の手を取り腰を上げさせる。
僕は彼女が誰なのだろうか――と言ったようなことは思わず、超法規的措置として、許容することにした。まずは目の前で起きていることを受け入れよう。自らの名前を知らないほどの情報が欠如しているのだから仕方がない。
僕は身体的については置いておくにしても、結構精神的にタフなのかもれない、そう思った。自分自身でそう思って、その思ったことに対しても、「そうなんだ」と思った。
そんなとき誰かが笑った。クスクスと。
僕は反射的に誰が笑ったのか確認した。長身で外見的には三十代後半であろう、黒髪の男が僕の眼前で笑っていた。彼は僕が視線を送っていることに気づくと、申し訳そうに、手で緩んだ口元を物理的に押さえた。
「気を悪くさせたのなら、ごめん。悪気はなかったんだ、決して。……ただ、嬉しくてね」
男は口元を擦りながら、本当に嬉しそうに目を細め、元から細めの理知的な目をより細くし、言葉を紡ぐ。
「君の名前は――ヘルト」
、
彼はそう言った。僕が聞くまでもなく、知りたかったことを、聞くのをはばかっていたことを言ってくれた。本当にそれが自分の名前なのか、そんなことは――思わなかった。
男は僕が何の疑問も示さない無反応な僕の姿を見て、微笑んだ。
そして、大仰にも手を広げ、
「そして、私達の――<黒髪>である私達の『英雄』だ」
と言った。
この男は僕に話す隙を与えない。この男からするならば、僕との会話がシナリオ通りの一方的な命令なのかもしれない。
目の前の男は、開口する。
「先に行っておくが、君に拒否権はない。なぜなら、君は――ここでの君の存在価値は、『英雄』としてのみ存在するのだから」
言い終わり、またしても男は――笑った。
■■■
「さあ、行こうか。『英雄』くん」
長身で黒髪の男――皆から主宰と呼ばれていた男――は僕を見据え、僕に同行を要請する。
「……ですが、主宰。同行を要請するならば、無知であるこの少年に順序立てた説明をしてからが道義でしょう。……まあ、彼が本当に英雄ならば、の話ですが」
最初に僕に腰を上げさせてくれた少しだけ僕より年上であろう黒髪で長髪の女が言った。女性にしては長身で、色白の肌に薄紅の唇がよく映える。会話から察するにリンという名前。
「確認は済んだだろう?それにここにいる一同で、ここにいる『英雄』くんが英雄だと認める、そういう見解に至ったはずだが」
「その見解は多数決によって決定されました。たった三人中、二人が賛成ということで。私は納得していません」
「相変わらず固いなあ、リンは」リンの隣にいた小太りの男が言った。これまた黒髪だ。彼のことは便宜上――名無しと呼ぼう。
「固いのではない。自分自身に正直、誠実ただそれだけだ」
「はいはい、分かった。分かった」
――刹那。
僕らの周辺で警報がなる。そして、数多に重なって地面を地震のように揺らす足音。明らかにもその足音は僕達に警鐘を鳴らしていた。
「リン。悪いがそのことに論ずるのは後にしよう」と主宰。
足音の正体は――銃らしきものを所持した白服の兵隊。数十名はいる。髪色は金髪に、銀髪に、茶髪に――多種多様だった。だが――黒髪はいない。
この状況を見て、苦笑を浮かべる主宰。
ため息をつく、名無し。
無表情のリン。
彼らは一斉に――逃げ出した。
――僕を置いて。何も知らない、無知で、黒髪で――『英雄』の僕を置いて。一目散に。
■■■
見ず知らずの街中を僕の前方を全速力で走る黒髪三人を目印に、僕は金魚の糞のように一心不乱に走っていた。走っている途中で自分が裸足であることに遅らばせながら気付き、せめて瞬速でも履いていればよかったのに……としょうもないことで嘆息していると、立ち止まっていた名無しの背中にぶつかり、僕も同じく足を止める。
異変を感じ、僕は周辺を見渡す。すると今まで大通りを走っていた僕たちは、いつのまにか四方へと広がる交差点へと出ていた。その四方全てから銃を携帯した軍隊らしき者たちが続々と出現し、そこから僕たちを逃がさないよう包囲網を形成する。
「気味が悪いな。今日の憲兵のやつらは妙に感が良い。まるで……ここに来るのを読んでいたかのようだ」と冷静沈着に現在の危機的状況に対し感想を言うリン。
「お前を待っていたせいだな。『英雄』新人くん」
……罪をなすりつけるのはやめようか、名無しさん。
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憲兵たちの表情は異様だった。僕たち<黒髪>を、何処も隙間ができないように、何処にも隙ができないように、入念に包囲網を築いているはずなのだが、どこか、自信がないのだ。
自身の表情に自信がないのだ。
彼らはどこか怯えていた。僕達<黒髪>に。現在、圧倒的有利なのは多勢の憲兵に決まっている。祖国の地元であろう国に属する憲兵たちにとっては地の利もきっと有利だろう。――なのにだ。僕ら<黒髪>に対して畏怖を抱いているように見て取れた。
「主宰」と戦時には引き締まった表情になるといった変化は起きることなく、いつも通りの無表情でリンは主宰に言う。
その時、主宰は――笑みを浮かべていた。有利であろう憲兵の表情とは裏腹に、不利であろう<黒髪>主宰の表情は依然として明るかった。
彼は開口する。
「では『英雄』くん。やっておしまい」
……え?
「これを貸そう、『英雄』くん」
と言って、ごく普通のなんら装飾のない、いかにも実戦向きであろう長刀を主宰は僕に手渡した。僕はリンのように無表情で長刀を受け取り、主宰の顔をじっと見つめる。
これは主宰から情報を引き出すための、いわば――交渉術、とでも言おうか。話し相手から無言で無表情で見つめられれば、誰しも情報を補足したくなるものである。
案の定、主宰は言葉を紡ぐ。
「安心しろ。<黒髪>は君を、『英雄』くんを優遇する。代わりの武装はある。今はこれで我慢してくれ」
――成功、だったのだろうか……。
無知の僕が情報の価値を判断することは早計かもしれないが――きっとこれは不要な情報だ。僕は確信してしまった。主宰が言いたかったことの本質を悟ってしまった。
これは――死ぬ気で戦え、だ。
ここで「死にたくない」と嘆願しても、先程主宰から引き出した情報と同様に――無価値と判断され、見捨てられる。――もしくは、僕が憲兵に捕らわれることを恐れ、殺す、といったシナリオをもあるだろう。確率は十分にある。
だから、僕は戦うしかないのだ。
だからこそ、僕は戦わなければならないのだ。
目的は、生きるため。生き延びるため。
きちんと彼らの『英雄』として、『英雄』に見合った働き、活躍を見せ、『英雄』として優遇されなければならないのだ。
僕は走りだす。
憲兵たちに向かって――ただ一目散に走る。今まで使ったことはない長刀を上段の構えで握りしめながら。
憲兵の肩が揺れている。
僕の肩が揺れている。
目の前の憲兵の足が震えている。
僕の足が震えている。
これは武者震い、これは武者震い、そう言い聞かせながら――僕は目の前の憲兵に勢い良く長刀を振り下ろした。
スローモーションに見える。
僕が殺そうとしている憲兵の怯えた顔。
僕の叫んでいる声でさえも。
――僕は人を殺したことがあるのだろうか。そんなことを唐突に思った。
――僕は今こいつを殺して何を思うのだろうか。そんなことを突然思った。
それでも僕はきっと――何も思わないんだろう、そう思った。
視界が赤く染まる。
長刀が――赤く染まっている。
憲兵の顔面が赤く染まっている。
目の前の憲兵が倒れる。赤く染まりながら。
僕は人を殺してしまった。
――僕は反芻を繰り返す。
僕は人を殺してしまった。僕は人を殺してしまった。僕は人を殺してしまった。
僕は人を殺してしまった。僕は人を殺してしまった。僕は人を殺してしまった。
僕はやっぱり――何も思わなかった。
ただ熱い、そう思った。興奮しているのだろう、そう思った。
特に右半身。
異常に、異常なほどに、ただ熱い。
僕は右の方向を見る。そこにいたのは長刀を振り下ろしたばかりのような姿勢で立っている金髪の憲兵がいた。彼が持っている長刀の刃は艶やかな女性の肌のように紅に染色され、白色の軍服は血しぶきによって汚れていた。
そして、僕は右半身を見る。
――右腕が無かった。僕の右腕から無かった。切断されていた。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
僕は悲鳴を上げる。
僕は自らが殺した憲兵の前で悲鳴を上げていた。
右腕がないと。右腕がないと。
なんて利己的な人間なんだろう。僕はそう――思った。