闇を穿つ剣
夜半過ぎ、あやめは件の巨石の前に立った。
陰鬱で淀んだ空気の流れが肌にまとわりついてくるようで、思わず無意識の内に身震いしてしまう。
―遡ること、一時間ほど前。
「後で助けてやるから、とりあえずお前だけで行け! な! 」
無責任極まりない言葉を言い放ち、偕人は無情にもあやめを家から追い出した。
「なっ、一緒に来てくれないんですか! 」
迷わずそう訊いたあやめに、偕人があっさり言った。
「俺は『神憑り』の身だから、離れていた方がいいんだよ。いいからとっとと行け! それともやめるか? そいつがどうなろうがお前には関係ないだろ? 」
「そんなこと思えるわけありません! やります! 」
「ほー、大した決意だな。だったら尚更一人で行け! そうしなければ俺は絶対手を貸さんからな、お前が決めろ! 」
「……」
半ば偕人に押し切られる形で、あやめは仕方なく女学校まで向かった。
今になってみると、あの無神経な冷血漢が本当に自分を助けにくるのかが疑わしくなってくる。
あやめはそう思い、悲惨なほど絶望的な気持ちになった。
神隠しに遭ったという下級生。
偕人と朔夜は、この場所のせいだと言った。
「……」
改めて、あやめは恐る恐るしめ縄が張られた巨石を真正面から見た。
そして背中の袋から、せめてもの心の拠り所にと背負ってきた、薙刀を引き抜きかけた、その時だった。
あやめは信じ難い光景を見た。
目の前の巨石から『何か人ならざるもの』の腕が伸びてきた。
その腕はすっと音も無く伸び、薙刀の柄に手を掛けたままの、あやめの右の手首を掴んだ。
掴まれた手首は強い圧迫感で締め上げられ、骨を折られそうな痛みと恐怖にあやめは悲鳴を上げた。
人は余りに衝撃を受ける出来事に遭遇すると、一時的に完全に思考停止し身動きが取れなくなるものらしい。
手首を掴まれ、じりじりと巨石に引き寄せられていながらも、あやめの足はまるで役に立たなくなり、動かなくなっていた。
だが、足元から聞こえた、ざりと自身が引きずられていく砂の音に、あやめは急に我に返ると、震えるおぼつかない手つきながらも、残った左手で薙刀を無我夢中で引き抜いた。
荒い息ながらも薙刀をつがえ、刃の先で巨石から伸びる腕を突き刺そうとしたが、片手を拘束されているために上手く狙いが定まらなかった。
それでも構わず、微かな希望にすがりつくように薙刀の刃を化け物へと向け続ける、あやめの喉の奥からは、言葉にならない絞り出すようなくぐもった音だけが漏れた。
「悪いがそいつをそのままやるわけにはいかない。返してもらおうか」
突然背後から響いた、聞き覚えのある低い男の声と共に、ざくりと何かが斬られる音が聞こえた時、思わず声がした方へと顔を向けたあやめが目にしたのは、黒光りする長い何かを巨石に突き立てた、鬼のような形相の偕人の姿だった。
「……偕人さん! 」
「この開いた礎はすぐ閉じる! そうは持たない! そうしたら手が出せなくなる。お前が連れて行かれた奴を呼べ! 早くしろ! 」
あやめは眼を見開くと、思わず偕人の顔を見た。
「呼ぶ?! どうすればいいんですか?! 」
「生きている人間の方が本来は強い。そいつが心配で助けようという気持ちに偽りが無いのなら、取り戻すことだけを願って、手を突っ込め! 」
迷う暇は無かった。
あやめは深く頷くと、それまでの自分の日常とはかけ離れた、この状況を前にしても、それでも迷わず巨石に現れた異界とを繋ぐ、空間の歪みに手を入れた。
そして、ただ願った。
―顔も名前も知る事の無かった、一人の生徒のことを。
ほんの数十秒がその何倍にも感じられるような時間の中、ひたすら一心に念じ続けたあやめは、次の瞬間、自分の指先に何かが触れるのを確かに感じた。
はっとしたように、あやめがその『何か』を、必死に掌を開いて掴みながら引きずり出そうとした。
すると、偕人が空けた、巨石に出来た闇が裂けたような隙間から、着物に女袴を履いた、年かさがあやめとよく似た一人の少女の身体が勢いよく落ちてきた。
「……後は俺の仕事だ。お前は離れていろ! ここを閉じる! 」
偕人がそう言い、巨石に突き立てていた黒い棒のようなものを引き抜く。
その瞬間、異界との隙間からは強い風が吹き出し、周囲に一気に砂埃が巻き上がった。
眼に砂が入りかけたあやめが思わず着物の袖で、顔を覆う。
吹き飛ばされそうな風圧に、幾度か足をとられそうになりながら堪え続ける、あやめの目の前に、最初、棒のように見えていた長い何かは月明かりの中、その姿を顕した。
それは一見すると鋭利な刃のついた剣のように見えるものだった。
だが肝心の刃である筈の部分が剣とはとても言えぬような姿で、柄の一部には大きな穴が開いていた。
「もしかしてそれ、片側だけの鋏、ですか……? 」
奇妙な姿の剣に思わずあやめが口にした言葉に、偕人が頷く。
「そうだ。こういう連中とやり合う為だけにしか用途が無い、悪趣味な道具だ。闇の者等を斬るせいで、俺の一族は長い間、これを闇鋏と呼んできた」
そう言いざまに、偕人がそのいびつな片側だけの巨大な鋏で、巨石の周囲を囲むように、目視で間隔を計りながら、刃の先を突き立ていく。
「糸……? 」
偕人が次から次へと剣を突き立てていった場所には、何時しか赤い糸のような細い線が現れていた。
剣が突き立てた場所を、雅さを持つ艶のある赤い糸がくくるように繋いでいくそのさまは、さながら、大地が直接針と糸によって、丹念に縫われていくかのようだった。
そして、赤い糸の端は、偕人が手にした剣に穿たれた穴へと繋がっていた。
「……これで終わりだ」
そう言い、偕人が闇鋏を捩った。
赤い糸は全てが繋がり、固結びとなって一気に縛り上げられた。
瞬間、微かな光が場の全てを包み、ほぼ同時に赤い糸の全てがまるで溶けるように消え去った。
偕人が荒い息を吐きながら、膝をつく。
「偕人さん……! 」
あやめは夢中で駆け寄ろうとした。
次の瞬間、『ある事実』に気が付き、あやめは呆然としながら思わず立ち止まった。
闇鋏に手を掛けた偕人の手から、鮮血が滴っていた。
流れ出した血は闇鋏の開けられた穴へと直に流れ込んでいた。
闇鋏の形状が歪み、その姿が黒い三本の足を持つカラスへと変化していく。
その時、あやめはようやくあの赤い糸と、欠けたような鋏が何だったかを理解した。
―そして、これまで偕人が何と引き換えにして、彼らが『礎』と呼ぶ場所を直してきたのかを。